目の前に広がるのは、真っ白くふわりと柔らかそうなひつじ雲。
だけど、俺のような飛行機乗りにとって、それは荒々しく波立つ大海のような存在だ。
熟練したパイロットであっても、雲の中で油断すれば自機の位置を見失い、上昇しているか下降しているかもわからなくなり、時にその命を機体もろとも刈り取ってしまう。
「アスカ、雲凝結核の方向は?」
「このまま真っすぐ。正確なところは情報はもう少し近づいたら指示するわ」
「了解。舌噛むなよ」
「雲凝結核の回収、これで何度目だと思ってるの?」
二人乗りの気象観測機の後ろに座るアスカの勝気な言葉を聞き流しつつ、機体を雲の中へと泳がせる。
視界が白く染まり、不安定な気流に機体が揺れる。機種のプロペラが雲をかき回す中、操縦桿を微細に操作し、荒ぶる機体を宥めながらできる限り真っすぐ進んでいく。周囲を注意深く探るが、上下左右どこを見渡してもひたすら雲が広がっているだけだ。
「針路そのまま。少しずつ上昇」
アスカの示す方向は雲で遮られて何も見えないが、素直に指示に従う。一部の超人的なパイロットを除けば、雲の中では人間の感覚よりも計器の方があてになる。それも、計器を見張っているのが熟練した天象研究者となればなおさらだ。
アスカの指示通りにしばらく飛ぶと、やがて肉眼でも雲の中にチカチカと光る物が見えてきた。
今回の目標物である雲凝結核。
後ろに座るアスカも視認したようで、ガチャガチャと機器を操作する音が響いてくる。
「採集槽オープン。収集器、位置についたわ」
アスカの声と共に機体の下部にかかる抵抗がグッと増す。俺のいる操縦席から見ることはできないが、機体の腹部が開き、そこからアームに取り付けられた収集器が機外に展開されているはずだ。バランスを崩した空気抵抗の力で下を向こうとする機体を、操縦桿を引いて立て直す。それと同時に、微細な操縦のために速度をギリギリまで落とす。
数年前まで急降下爆撃機として使用されていた機体が腹部に抱えているのは、いまや爆弾ではなく、雲凝結核回収用に作られた収集器──円柱状のガラスのセルだ。
「目標まで約500m、400、300……少し機首を上げて」
振り返る余裕はないが、今のアスカは後部座席に設けられたスコープで収集器の前方を見ているはずだ。アスカの指示に従って、気流に揺れる機体を宥めつつチカチカと光る雲凝結核に近づいていく。
「右……上、行き過ぎ。そう。そのまま。100m……」
光る石の僅か上を通過したと思った瞬間、ガコンという音が響く。その音と操縦桿の感触から、雲凝結核を捉えたのがわかる。折角捕まえた雲凝結核がセルから零れ落ちてしまわないように機体を加速させる。
機体下部を引っ張るような抵抗がなくなる。アスカが収集器を引き上げて採集槽の蓋を閉じたようだ。機体が雲を抜け、抜けるような青空が一面に広がった。
ちらりと振り返ると、さっきまで中を飛んでいた雲が青空に溶けるように消えていくところだった。雲凝結核を失った雲は、まとまりを失って水蒸気として周囲に散っていくと知識ではわかっていても、未だに目の当たりにすると不思議な気分になる。
「やった。中々の大物ね。これならしばらくは実験に使えそう」
「このまま研究所に戻っていいか?」
「もちろん。こうしている間にも雲凝結核は少しずつ勢力を失っていくんだし」
国立の天象研究所きっての雲凝結核マニアであるアスカが「もちろん」と来たか。
つい先日の採集飛行では、目的の雲凝結核を採集後に、近くに発生した別の雲の観測に行かされたことは記憶に新しいが──せっかく無事に“雲の素”を捕まえたのに、後ろから雷を落とされてはたまらない。
一つ頷いて天象研究所の滑走路へと機種を向ける。雲さえなければ、周囲の地形から自分がどこを飛んでいるかすぐにわかる程度には、この辺りは飛び慣れていた。
上機嫌で研究計画を考えるアスカを乗せた観測機の眼下に、山間の研究所に併設された小さめの滑走路が見えてくる。ちらりと振り返ると、先ほどまで大きく広がっていた白い雲は今や靄をわずかに残すだけとなっていた。
帰投後、観測機の点検を一通り終えたところで椅子に腰を掛け一息つく。
元は急降下爆撃機だから頑丈で、それでいて小回りの利くいい機体だ。しかし、本来は敵に向かって爆弾を投下するために生まれた機体で雲の中に飛び込んで、雲凝結核を回収するなんて無茶な運用をしているからか、油断するとすぐに錆やパーツの緩みが生じてしまう。
研究所専属の整備員もいるけれど、命を託す商売道具だけに完全に他人任せにする勇気は俺にはなかった。
座ったまま格納庫を眺めていると、カンカンと足音が近づいてくるのが聞こえた。
「や、ヒサメ。点検は終わった?」
格納庫に入ってきたのは、実験用の白衣を纏ったアスカだった。この研究所で雲の研究をしている研究者は両手両足じゃ足りないくらいにはいるが、格納庫までわざわざやってくる変わった研究者はアスカくらいしかいない。
「ちょうど」
「それはよかった。さっき捕らえた雲凝結核、安定処理が終わったから見にこない?」
俺は研究者ではなく、あくまで観測機運用のために研究所から雇われたパイロットだ。俺が雲凝結核を見ても何にもならないはずなのだけど、アスカはこうしてよく研究成果や採集したばかりの雲凝結核を見せにくる。
「行く」
俺が雲凝結核を見ても研究の進展には何一つ役に立たないが、向かい合う相手がどういうものかを知っておくに越したことがないというのは軍人時代と変わらない。
後から仕事に来るだろう整備員から雷を落とされないように点検用の工具を片付けていると、アスカが愉快そうに笑っていた。
「ふふ。美味しい珈琲も用意してあるよ」
「アスカの研究室の珈琲は雷雲みたいな味だからな」
「どういう意味だい?」
「……刺激的な味ってことだ」
マズイってことだよ、という言葉は飲み込んだ。研究所に雇われて三年ほど、ここでの生き方もそれなりに心得てきた。
格納庫から出ようとするアスカの羽織る白衣と、自分の油で汚れた作業着を見比べて一瞬迷ったが、着替えてる暇はなさそうだ。それに、アスカも今さら気にはしないだろう。
「いやあ。ヒサメが来てから、研究が格段に進んだよ」
研究室に向かう道すがら、アスカは上機嫌な様子だった。
「俺が来る前から観測機はあっただろう?」
「君の前任者は、君ほど腕がよくなかったし、挑戦的な飛行もしてくれなかったからね」
「それだけ危険ってことだ。いくら電探や収集器の操作ができるからって、ポンポン乗り込んでくる研究者はお前くらいだしな」
天象研究所はアスカ以外にも多くの研究者が所属しているが、普通はターゲットとなる雲を指定したら、その後の捕獲作業は観測機のパイロットと専属の収集手に一任される。
その例外にあたる酔狂な女性研究者は、何が愉快なのか頬をニッと持ち上げた。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、さ。ヒサメだって、虎穴に飛び込んで安定的な職を得たわけでしょ?」
「一歩間違えれば墜落する不安定な職場だけどな」
五年前、数か国を巻き込んだ大きな戦争が終わり、対空砲火の中を爆弾を抱えて飛ぶ日々から解放された。一方で、勝利により当面の安全が確保されたこの国は当時、過剰なまでの軍用機とパイロットを抱えることとなった。
引き続き軍に残ったり、旅客機や輸送機のパイロットになる道も残されていたが、それだって人数は限られる。
そもそも、戦時下においてなお無茶な飛行を繰り返してきた俺は、平時では雨雲なんかよりもよほど煙たい存在だったらしい。
次の生き方が定まらないなか、このまま無為な日々を過ごすくらいならと、払い下げられた急降下爆撃機を戦功によって得た報奨金をつぎ込んで引き取り、たどり着いたのが観測機のパイロットだった。
戦う相手が人間から自然に変わったといってもいい。事故も珍しくないと聞いていたが、迷いはなかった。あるいは、俺は戦争が終わったその日から、空の上に死に場所を探していたのかもしれない。
「それが分かってるなら、君は大丈夫さ」
何故か俺より得意げに笑ってみせるアスカは、話しているうちに辿り着いた研究室の扉を開く。
ゴウンゴウンと大きな唸り声をあげている電算機に繋がれたガラスのセルの中では、ガラス玉のような丸いものが浮かびながらチカチカと点滅している。
ガラス玉の周りには白っぽい靄が漂っている。この点滅を繰り返す石が雲凝結核と呼ばれる“雲の種”であり、どこか遠くの海で生まれては空を漂いながら白い靄を蓄えて雲を作り、雨を降らせて消えていく──らしい。
空にポッカリと浮かび、人などと比べるべくもない大きさの雲が、こんな小さな玉からできているのは、何度仕組みを説明されても感覚的にはピンとこない。それに、空を飛んでいるときは、もっと小さい"何か"が無数に空に散らばっているような感じがする。
「ヒサメは、雲凝結核が好きだよね」
すっかりセルの中に心を奪われていたらしい。声の方向では、両手に一杯ずつカップを持ったアスカが呆れたように笑っていた。
「雲は好きだから」
カップを受け取り、中の黒い液体を飲んでしまわない程度に傾けてみせる。アスカは満足気にカップを大きく傾けながら、一つ頷いて先を促してくる。
「雲の中にいる間は、死の気配が漂ってこないから」
ただ空を飛ぶだけなら、雲の中に入るのは望ましくない。しかし、戦闘機や対空砲の銃口で狙われて、次の瞬間には翼が折れて堕ちていくかもしれない戦場の空では、殺気から逃れることができるひと時のオアシスでもあった。
「だから君は、迷いなく雲の中に飛び込める」
ふ、とアスカの口元から笑い声が漏れた。よく喋る人間ではあるが、そんな笑い方をするのは珍しかった。
アスカは飲み終えたカップを手近な机の上に置くと、雲凝結核を閉じ込めたガラスのセルにそっと触れる。
「雲凝結核の発生、発達、消失のメカニズムを解明すれば、私たちはもっと正確に天象を予想できるようになる──というのは、今さら説明するまでもないかな?」
「どこかの研究者から耳がタコになるほど聞いた」
「ふふ、許してほしい。外から見れば単純かもしれないけど、一度潜ると捉えられたまま二度と浮かび上がれなくなるほどに、空や雲というのは興味深い世界なんだ」
小さく笑ったアスカは、ふわふわと頼りなく浮かぶ雲凝結核をじっと見つめている。自分に向けられたわけではないのに、その眼差しからはかつて空で感じていた気配が漂ってくる。
軍人時代、俺の後ろには後部機銃手が乗っていたが、家族を敵国の爆撃で失ったという奴からは時折隠し切れない殺気が溢れてくることがあった。そして、それは今も時折観測機の後ろに乗るアスカから感じることがある。
「お前は、雲が好きなのか?」
普段なら一を聞けば十を返してくるアスカは、暫く黙ったまま殺気の籠もった視線をガラスのセルの中に向けていた。
「……嫌いだよ。殺してやりたいほどにね」
格納庫の外ではどんよりと低い位置に立ち込めた雲から零れ落ちた雨粒がざあざあと滑走路の舗装を叩いている。
前回の雲凝結核の収集から半月程が立ち、本来なら次の研究対象を捕まえるための飛行が予定されていたが、昨日のうちにキャンセルとなっていた。
計画上で収集対象としていた雨雲が想定以上の規模に発達し、とても観測機で中に入れるような状態じゃなくなったということだった。
こういう時は素直に観測機の点検や格納庫の片づけを行うしかないが、長く地上に留まっていると、時折無性に落ち着かない時がある。空を飛び始めてどれくらいになるだろう。俺はとっくに地上ではないどこかに心を囚われているのかもしれない。
『……嫌いだよ。殺してやりたいほどにね』
囚われている。その言葉に連動するように、数日前に聞いたアスカの声が脳裏をよぎる。
雲のことを嬉々として研究をして、雲凝結核の収集にまで着いてくるようなアスカが雲のことを嫌いというのは、俄かには理解できなかった。
その言葉の意味を尋ねるより前に、アスカはくるりと表情を切り替えて嬉々として捕らえた雲凝結核について語り出したから、真意は知れないままだ。
何かを殺したいほど嫌ったこと──それは、爆撃機のパイロットとして空を飛んでいた頃は、身近に存在する感情だった。だけど、研究者であるアスカが雲に対して抱く殺意の根源が何なのか、まるで思い浮かばない。
そんな中、カッカッカッと駆ける足音が雨音に混ざるように響き、近づいてくる。
「ヒサメ、頼みがある!」
格納庫に飛び込んできたのは、血相を変えたアスカだった。普段は飄々としているその顔は血の気が引いて青白くなっている。遠くで雷鳴が響き、その全てがチリチリと燻る嫌な予感を増長させていく。
「今迫ってきている嵐の雲凝結核を捕獲してほしい!」
「……何?」
観測機に向かって駆け寄ってくるアスカの肩を掴み押しとどめる。
「ダメだ。そもそも、観測機で中に入れないから中止になったんだろ」
当然のことを伝えても、アスカは俺を払いのけるようにかぶりを振る。その肩が小さく震えていた。一歩間違えれば墜落しかねない観測機に平気で乗り込むアスカが、だ。ただならぬ様子が、何か深刻な事態が発生していることを伺わせる。
「それでも! それでも、あの雲凝結核を捕まえないと大変なことになる……!」
「落ち着けよ。そもそも、俺にもわかるように話してくれ」
「あの嵐がこのままやって来れば、この辺り一帯は土砂に沈む!」
アスカがグイっと身を乗り出すように迫ってくる。その言葉は唐突過ぎて一瞬意味が理解できなかった。土砂に沈む。話が大きすぎて、現実味がわいてこない。そんな俺を見てか、アスカがもどかしそうに詰め寄ってくる。
「嵐の中核となる雲凝結核は発達を今も発達を続けている。この辺りでは前例のなかった嵐になる。私の計算だと、この研究所を囲む山々の地盤はこの雨に耐えられずに土石流となり、この研究所はもちろん、麓の町まで飲み込みかねない!」
矢継ぎ早に繰り出されたアスカの説明で、ようやく事態の深刻さが飲み込めた。研究所は観測のために人里離れた山の上に築かれているが、その山の麓にはそれなりの規模の町がある。俺だって、休みの日には町に繰り出すから、見知った顔も一つや二つじゃない。
だが、それでもアスカの頼みに素直に応じることはできなかった。無害そうな白い雲の中でさせ観測機は不安定になる。それが、雷雨を伴う嵐の中となればどうなるかは言うまでもない。一度バランスを崩して失速すれば、そのまま立て直せずに墜落しかねない。
「天気が荒れるまでどれくらいだ?」
「ざっと見積もって、あと十時間ほど」
「それなら、逃げる時間はある。生きてさえいれば、あとは何とでもなる」
「それじゃダメなんだ!」
アスカの叫びは、悲鳴と呼ぶに近かった。その声がグワグワと頭を揺さぶってくる。
「土砂に沈んだ町や人を見ることになるくらいなら、私は死んだ方がマシだ!」
ストレート過ぎる言葉に、ガツンと殴られた。アスカの瞳は血走って、危うささえ孕んでいるように見える。
本気で死んだ方がいいと思っている人間は、何をしでかすかわからない。ここで俺が飛行を拒んだところで別の手段を探してくるだろう。それは観測機で嵐の中に突っ込む方がマシと思える方法かもしれない。
それならば、俺の一人の命を賭け金として嵐に挑んだ方が、まだ分のある勝負になるかもしれない。そもそも、家族もいない俺に今ここで命を惜しむ理由がないはずだろう。
感情が理性を上回りあっさりと陥落させる。白旗を上げる理性の最後の抵抗で大きくため息をついてから、飛行用の装備を取りに向かうことにした。
「さすが、君は私が見込んだパイロットだよ」
「無事に帰ってきたら、報酬は弾むんだろうな?」
さっきまで悲壮な顔をしていたのに、コロッと表情を変えたアスカはにへらっと勝気に笑う。
「どうだろう。報酬以前に規則違反で首が飛ぶ可能性は否定できない」
「おい」
「まあ、いざとなったら君一人くらい私が養うさ」
「何の慰めにもならないな。というか」
アスカも羽織っていた白衣を脱いで、飛行服をロッカーから取り出す。その行為は自分が何をしようとしているかまるでわかっていないらしい。
「やめとけ。無事に帰ってこられる可能性の方が低いぞ」
「残念だけど、君一人を死地に赴かせるのは趣味じゃなくてね。だいたい、私がいなければ雲凝結核の位置もわからないでだろう?」
「それは……」
確かに、雲凝結核の位置を調べる電探は後部座席でしか操作はできない。しかし、あれだけの嵐となれば雲凝結核は相当な規模のはずで、目視でも捉えられるはず。
けれど、アスカは機先を制するように不器用にパチリと片目を閉じてみせた。
「それに、私は君の操縦を信用してるからね。さあ、大捕り物の時間だよ」
目の前では観測機に立ちはだかるように、文字通り巨大な暗雲が立ち込めている。眼前の嵐雲がどれほどの大きさなのか、まるで見当がつかなかった。
「この先は本当に引き返せないぞ。いいんだな?」
後部に乗り込んだアスカに最後の確認をすると、返ってきたのはフフンと挑戦的な色を帯びた笑い声だった。
「ここで引き下がったら女が廃るだろう?」
「廃らせてもらって構わないんだがな」
ドゥンと腹の奥底に響きそうな轟音が嵐雲から響いてくる。その光と音は根源的な恐怖を植え付けてくる。あるいは、対空砲の並んだ陣地に爆弾を落とす方がまだ優しいと思えるほどに。
ガタリと機体が揺れる。まだ雲までは距離があるのに、気流が不安定になっている。慎重に機体を立て直しながら、雲に近づく。
「残念だけど、私はここで立ち向かうために研究者になったんだからね。こんなところで引き下がるわけにはいかない」
「研究者っていうのは、ずいぶんと狂気に満ち満ちてるんだな」
「いいだろう? 君にもピッタリだと思うけど」
初めて、本物の戦場の空を飛んだ時のことを思い出す。いつかそんな日が来るとわかって訓練をしてきたはずなのに、明確に向けられた敵意はそんなに生易しいものではなかった。それでも、飛び続けた。心が擦り切れて、手が震えなくなるほどに。
そんな俺に、アスカをこれ以上引き留めることはできない。スロットルを上げ、エンジンを吹かせる。観測機が覚悟を決めたようにグンと加速する。
「私こそ、すまない。私の目的に君を巻き込んでしまっている自覚は、これでも持っている」
「それこそ、今さらだ。これが俺の食い扶持だからな」
視界が黒く染まった途端、吸い込まれるように機体が下降する。すぐ近くで稲光の白線が観測機を横切っていった。操縦桿を引きつつ、計器と感覚を信じて雲の中を突き進む。
「このまま真っすぐ! 距離はそんなに離れていない!」
暴風と雷鳴、豪雨の音に負けないアスカの叫び声の通り、視線の先に雷とは違う光が瞬いているのが見える。これまで捕獲してきた雲凝結核より遥かに大きいようで、肉眼でもはっきりととらえることができる。
ただ真っすぐ飛ぶことがこれ以上なく難しい。一瞬ごとに機体は乱高下して、雲の中に居座ることすら難しい。少しでも操縦を誤れば機体を引き裂かれそうな振動に、操縦桿を握る手が汗で滲む。
暴れる機体をどうにか抑え込みながら進んでいくと、雲凝結核がハッキリと目視できるところまでやってきた。
大きい。
この前捕らえた雲凝結核がビー玉だとすれば、これはちょっとした砲弾くらいの大きさだ。その周囲を黒い雲が渦を巻くように漂っている。これまでいくつも雲の収集をしてきたが、こんな現象は初めて目にした。
「なっ!?」
渦に近づいた途端、機体が弾き飛ばされるように跳ね上がった。
どうやら雲凝結核の近くは強烈な気流が複雑に入り組んでいるらしい。とてもじゃないが、正面から近づけそうにはない。
どうする。どうすればいい。集中力にも機体の燃料にも限りがある。
一度雲の中から離脱するため、跳ね上げられた機首をそのままに上昇を続けると、黒かった視界が青空に包まれる。おどろおどおしい嵐雲と対照的に牧歌的な空に抜け、小さく息をつく。
呼吸を整えながら見下ろす嵐雲は、雲凝結核を中心に渦巻いているようだった。
「へえ。雲凝結核の上下は雲が薄いんだね」
聞こえてきたのは、状況にも関わらずどこか興奮したように弾んだアスカの声だった。
こんな時に、とは思いつつ雲を観察すると、確かに渦の中心に近づくにつれて雲の厚みは薄くなっている。とはいえ、気流が激しく乱れているのには違いない。あそこを最短距離で通過するにはどうすれば──。
「アスカ。一つ賭けに付き合ってもらっていいか?」
「今も大博打の最中だと思うけど?」
まったく、本当に肝が据わっている。
アスカの返事に頷いて、機体を雲凝結核のほぼ真上へと運ぶ。何年振りかに緊張で震える腕を抑え込む。ここから先は限界とのせめぎ合いだ。僅かな操作ミスが文字通り命取りになる。
「舌、噛むなよ」
機体をグイっとバンクさせ、反転するようにしながらダイブする。
元々、ベースは急降下爆撃機だ。その頑丈さを生かし、上空から一直線に雲凝結核を通過して捕らえる。
だが、嵐雲に近づくにつれ振動が激しくなる。機体の節々が悲鳴を上げ、翼にひずみが生じ始めていた。
少しでも不用意な力が加われば、機体は限界を迎えてバラバラに分解するだろう。そのギリギリを見極めなければいけない。精神を研ぎ澄ます。ただ一点、光る石を目指して雲の中に突入する。
瞬時、視界が開け雲凝結核を囲む渦が見えた。
「今だ、アスカ!」
叫ぶのと同時に、機体の腹部から収集器が展開される音が響く。機体の状態から考えて、チャンスはこの一度。
「ちょい機首上げて!」
聞こえてきた声に反射的に従う。次の瞬間、ガコンと硬質な音が機体の腹の方から響いてくる。
「掴んだっ!」
アスカの声をどこか遠くで聞きながら、雨雲の下に出たところでダイブブレーキを展開。急減速に身体が締め付けられるのに耐える。ここで意識を失えばこのまま海面に突っ込むことになる。
歯を食いしばりながら、ゆっくりと機首を上げる。機体の状況を確認すると、どうにか飛べてはいるが、翼をはじめあちこち歪みや緩みが出ているようだった。
「……やった」
ポツリと、声が聞こえてくる。空から光が射しこんできた。
見上げると、雲凝結核が存在していただろう場所に雲の切れ間が生まれ、蒼空が観測機を見下ろしている。
少しずつ、嵐雲が霧散するように溶けていく。機体を打ち付ける雨が勢いが弱まっていく。
今更のように疲労が押し寄せてきて、意識が遠くなる。
「やったよ、ヒサメ! 私たちはやったんだ! やはり君は最高だ!」
それでも、アスカの弾んだ声を聞いていると、胸の奥がスッと晴れわたっていく。
明るくなっていく空が、俺たちが勝利を掴んだことを告げていた。
※
「どれだけ無茶苦茶したら気が済むっすか!」
自分より年下の女性整備員の声に首をすくめる。ユキノは観測機の翼をいたわるように触れたかと思うと、俺に向かってスパナを振り下ろしてきた。眼前に突き付けられたスパナの先端は銃口とは違った恐ろしさがある。
嵐雲の雲凝結核を捕まえた後、俺は無断飛行により半月間の飛行禁止を命じられた。といっても、観測機の修理にそれくらいかかるということで、実質的にはおとがめなしだった。
軍隊であれば規律違反は軍法会議ものだけど、俺たちが収集した雲凝結核は世界的に見ても貴重なものらしく、また、事情も鑑みて穏便な処置に落ち着いたらしい。
「また、飛べるようになるか?」
「できるできないじゃないっすね。アスカさんがあれこれ飛行プランを考えてるんで、あと一週間で飛べるようにしないと雷落とされるっす」
アスカの方も処分は二週間の飛行禁止ということで、それよりも捉えてきた雲凝結核の分析で忙しいらしい。あれから顔を合わせていないけど、既に次の飛行のことを考えていたとは。
頭をガリガリとかいたユキノはため息とともに俺にスパナを差し出す。
「というわけで、ヒサメさんも手伝ってくださいっす。私も、この飛行機が飛んでるところは好きっすから」
「俺、一応謹慎中なんだけど」
「それなら、アスカさんの特性コーヒーでもお持ちするっすよ」
「俺のことは新入りだと思って好きに使ってくれ」
調子いいっすね、と苦笑を浮かべるユキノの向こうに広がるのは、雲一つない蒼空だった。
だけど、俺のような飛行機乗りにとって、それは荒々しく波立つ大海のような存在だ。
熟練したパイロットであっても、雲の中で油断すれば自機の位置を見失い、上昇しているか下降しているかもわからなくなり、時にその命を機体もろとも刈り取ってしまう。
「アスカ、雲凝結核の方向は?」
「このまま真っすぐ。正確なところは情報はもう少し近づいたら指示するわ」
「了解。舌噛むなよ」
「雲凝結核の回収、これで何度目だと思ってるの?」
二人乗りの気象観測機の後ろに座るアスカの勝気な言葉を聞き流しつつ、機体を雲の中へと泳がせる。
視界が白く染まり、不安定な気流に機体が揺れる。機種のプロペラが雲をかき回す中、操縦桿を微細に操作し、荒ぶる機体を宥めながらできる限り真っすぐ進んでいく。周囲を注意深く探るが、上下左右どこを見渡してもひたすら雲が広がっているだけだ。
「針路そのまま。少しずつ上昇」
アスカの示す方向は雲で遮られて何も見えないが、素直に指示に従う。一部の超人的なパイロットを除けば、雲の中では人間の感覚よりも計器の方があてになる。それも、計器を見張っているのが熟練した天象研究者となればなおさらだ。
アスカの指示通りにしばらく飛ぶと、やがて肉眼でも雲の中にチカチカと光る物が見えてきた。
今回の目標物である雲凝結核。
後ろに座るアスカも視認したようで、ガチャガチャと機器を操作する音が響いてくる。
「採集槽オープン。収集器、位置についたわ」
アスカの声と共に機体の下部にかかる抵抗がグッと増す。俺のいる操縦席から見ることはできないが、機体の腹部が開き、そこからアームに取り付けられた収集器が機外に展開されているはずだ。バランスを崩した空気抵抗の力で下を向こうとする機体を、操縦桿を引いて立て直す。それと同時に、微細な操縦のために速度をギリギリまで落とす。
数年前まで急降下爆撃機として使用されていた機体が腹部に抱えているのは、いまや爆弾ではなく、雲凝結核回収用に作られた収集器──円柱状のガラスのセルだ。
「目標まで約500m、400、300……少し機首を上げて」
振り返る余裕はないが、今のアスカは後部座席に設けられたスコープで収集器の前方を見ているはずだ。アスカの指示に従って、気流に揺れる機体を宥めつつチカチカと光る雲凝結核に近づいていく。
「右……上、行き過ぎ。そう。そのまま。100m……」
光る石の僅か上を通過したと思った瞬間、ガコンという音が響く。その音と操縦桿の感触から、雲凝結核を捉えたのがわかる。折角捕まえた雲凝結核がセルから零れ落ちてしまわないように機体を加速させる。
機体下部を引っ張るような抵抗がなくなる。アスカが収集器を引き上げて採集槽の蓋を閉じたようだ。機体が雲を抜け、抜けるような青空が一面に広がった。
ちらりと振り返ると、さっきまで中を飛んでいた雲が青空に溶けるように消えていくところだった。雲凝結核を失った雲は、まとまりを失って水蒸気として周囲に散っていくと知識ではわかっていても、未だに目の当たりにすると不思議な気分になる。
「やった。中々の大物ね。これならしばらくは実験に使えそう」
「このまま研究所に戻っていいか?」
「もちろん。こうしている間にも雲凝結核は少しずつ勢力を失っていくんだし」
国立の天象研究所きっての雲凝結核マニアであるアスカが「もちろん」と来たか。
つい先日の採集飛行では、目的の雲凝結核を採集後に、近くに発生した別の雲の観測に行かされたことは記憶に新しいが──せっかく無事に“雲の素”を捕まえたのに、後ろから雷を落とされてはたまらない。
一つ頷いて天象研究所の滑走路へと機種を向ける。雲さえなければ、周囲の地形から自分がどこを飛んでいるかすぐにわかる程度には、この辺りは飛び慣れていた。
上機嫌で研究計画を考えるアスカを乗せた観測機の眼下に、山間の研究所に併設された小さめの滑走路が見えてくる。ちらりと振り返ると、先ほどまで大きく広がっていた白い雲は今や靄をわずかに残すだけとなっていた。
帰投後、観測機の点検を一通り終えたところで椅子に腰を掛け一息つく。
元は急降下爆撃機だから頑丈で、それでいて小回りの利くいい機体だ。しかし、本来は敵に向かって爆弾を投下するために生まれた機体で雲の中に飛び込んで、雲凝結核を回収するなんて無茶な運用をしているからか、油断するとすぐに錆やパーツの緩みが生じてしまう。
研究所専属の整備員もいるけれど、命を託す商売道具だけに完全に他人任せにする勇気は俺にはなかった。
座ったまま格納庫を眺めていると、カンカンと足音が近づいてくるのが聞こえた。
「や、ヒサメ。点検は終わった?」
格納庫に入ってきたのは、実験用の白衣を纏ったアスカだった。この研究所で雲の研究をしている研究者は両手両足じゃ足りないくらいにはいるが、格納庫までわざわざやってくる変わった研究者はアスカくらいしかいない。
「ちょうど」
「それはよかった。さっき捕らえた雲凝結核、安定処理が終わったから見にこない?」
俺は研究者ではなく、あくまで観測機運用のために研究所から雇われたパイロットだ。俺が雲凝結核を見ても何にもならないはずなのだけど、アスカはこうしてよく研究成果や採集したばかりの雲凝結核を見せにくる。
「行く」
俺が雲凝結核を見ても研究の進展には何一つ役に立たないが、向かい合う相手がどういうものかを知っておくに越したことがないというのは軍人時代と変わらない。
後から仕事に来るだろう整備員から雷を落とされないように点検用の工具を片付けていると、アスカが愉快そうに笑っていた。
「ふふ。美味しい珈琲も用意してあるよ」
「アスカの研究室の珈琲は雷雲みたいな味だからな」
「どういう意味だい?」
「……刺激的な味ってことだ」
マズイってことだよ、という言葉は飲み込んだ。研究所に雇われて三年ほど、ここでの生き方もそれなりに心得てきた。
格納庫から出ようとするアスカの羽織る白衣と、自分の油で汚れた作業着を見比べて一瞬迷ったが、着替えてる暇はなさそうだ。それに、アスカも今さら気にはしないだろう。
「いやあ。ヒサメが来てから、研究が格段に進んだよ」
研究室に向かう道すがら、アスカは上機嫌な様子だった。
「俺が来る前から観測機はあっただろう?」
「君の前任者は、君ほど腕がよくなかったし、挑戦的な飛行もしてくれなかったからね」
「それだけ危険ってことだ。いくら電探や収集器の操作ができるからって、ポンポン乗り込んでくる研究者はお前くらいだしな」
天象研究所はアスカ以外にも多くの研究者が所属しているが、普通はターゲットとなる雲を指定したら、その後の捕獲作業は観測機のパイロットと専属の収集手に一任される。
その例外にあたる酔狂な女性研究者は、何が愉快なのか頬をニッと持ち上げた。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、さ。ヒサメだって、虎穴に飛び込んで安定的な職を得たわけでしょ?」
「一歩間違えれば墜落する不安定な職場だけどな」
五年前、数か国を巻き込んだ大きな戦争が終わり、対空砲火の中を爆弾を抱えて飛ぶ日々から解放された。一方で、勝利により当面の安全が確保されたこの国は当時、過剰なまでの軍用機とパイロットを抱えることとなった。
引き続き軍に残ったり、旅客機や輸送機のパイロットになる道も残されていたが、それだって人数は限られる。
そもそも、戦時下においてなお無茶な飛行を繰り返してきた俺は、平時では雨雲なんかよりもよほど煙たい存在だったらしい。
次の生き方が定まらないなか、このまま無為な日々を過ごすくらいならと、払い下げられた急降下爆撃機を戦功によって得た報奨金をつぎ込んで引き取り、たどり着いたのが観測機のパイロットだった。
戦う相手が人間から自然に変わったといってもいい。事故も珍しくないと聞いていたが、迷いはなかった。あるいは、俺は戦争が終わったその日から、空の上に死に場所を探していたのかもしれない。
「それが分かってるなら、君は大丈夫さ」
何故か俺より得意げに笑ってみせるアスカは、話しているうちに辿り着いた研究室の扉を開く。
ゴウンゴウンと大きな唸り声をあげている電算機に繋がれたガラスのセルの中では、ガラス玉のような丸いものが浮かびながらチカチカと点滅している。
ガラス玉の周りには白っぽい靄が漂っている。この点滅を繰り返す石が雲凝結核と呼ばれる“雲の種”であり、どこか遠くの海で生まれては空を漂いながら白い靄を蓄えて雲を作り、雨を降らせて消えていく──らしい。
空にポッカリと浮かび、人などと比べるべくもない大きさの雲が、こんな小さな玉からできているのは、何度仕組みを説明されても感覚的にはピンとこない。それに、空を飛んでいるときは、もっと小さい"何か"が無数に空に散らばっているような感じがする。
「ヒサメは、雲凝結核が好きだよね」
すっかりセルの中に心を奪われていたらしい。声の方向では、両手に一杯ずつカップを持ったアスカが呆れたように笑っていた。
「雲は好きだから」
カップを受け取り、中の黒い液体を飲んでしまわない程度に傾けてみせる。アスカは満足気にカップを大きく傾けながら、一つ頷いて先を促してくる。
「雲の中にいる間は、死の気配が漂ってこないから」
ただ空を飛ぶだけなら、雲の中に入るのは望ましくない。しかし、戦闘機や対空砲の銃口で狙われて、次の瞬間には翼が折れて堕ちていくかもしれない戦場の空では、殺気から逃れることができるひと時のオアシスでもあった。
「だから君は、迷いなく雲の中に飛び込める」
ふ、とアスカの口元から笑い声が漏れた。よく喋る人間ではあるが、そんな笑い方をするのは珍しかった。
アスカは飲み終えたカップを手近な机の上に置くと、雲凝結核を閉じ込めたガラスのセルにそっと触れる。
「雲凝結核の発生、発達、消失のメカニズムを解明すれば、私たちはもっと正確に天象を予想できるようになる──というのは、今さら説明するまでもないかな?」
「どこかの研究者から耳がタコになるほど聞いた」
「ふふ、許してほしい。外から見れば単純かもしれないけど、一度潜ると捉えられたまま二度と浮かび上がれなくなるほどに、空や雲というのは興味深い世界なんだ」
小さく笑ったアスカは、ふわふわと頼りなく浮かぶ雲凝結核をじっと見つめている。自分に向けられたわけではないのに、その眼差しからはかつて空で感じていた気配が漂ってくる。
軍人時代、俺の後ろには後部機銃手が乗っていたが、家族を敵国の爆撃で失ったという奴からは時折隠し切れない殺気が溢れてくることがあった。そして、それは今も時折観測機の後ろに乗るアスカから感じることがある。
「お前は、雲が好きなのか?」
普段なら一を聞けば十を返してくるアスカは、暫く黙ったまま殺気の籠もった視線をガラスのセルの中に向けていた。
「……嫌いだよ。殺してやりたいほどにね」
格納庫の外ではどんよりと低い位置に立ち込めた雲から零れ落ちた雨粒がざあざあと滑走路の舗装を叩いている。
前回の雲凝結核の収集から半月程が立ち、本来なら次の研究対象を捕まえるための飛行が予定されていたが、昨日のうちにキャンセルとなっていた。
計画上で収集対象としていた雨雲が想定以上の規模に発達し、とても観測機で中に入れるような状態じゃなくなったということだった。
こういう時は素直に観測機の点検や格納庫の片づけを行うしかないが、長く地上に留まっていると、時折無性に落ち着かない時がある。空を飛び始めてどれくらいになるだろう。俺はとっくに地上ではないどこかに心を囚われているのかもしれない。
『……嫌いだよ。殺してやりたいほどにね』
囚われている。その言葉に連動するように、数日前に聞いたアスカの声が脳裏をよぎる。
雲のことを嬉々として研究をして、雲凝結核の収集にまで着いてくるようなアスカが雲のことを嫌いというのは、俄かには理解できなかった。
その言葉の意味を尋ねるより前に、アスカはくるりと表情を切り替えて嬉々として捕らえた雲凝結核について語り出したから、真意は知れないままだ。
何かを殺したいほど嫌ったこと──それは、爆撃機のパイロットとして空を飛んでいた頃は、身近に存在する感情だった。だけど、研究者であるアスカが雲に対して抱く殺意の根源が何なのか、まるで思い浮かばない。
そんな中、カッカッカッと駆ける足音が雨音に混ざるように響き、近づいてくる。
「ヒサメ、頼みがある!」
格納庫に飛び込んできたのは、血相を変えたアスカだった。普段は飄々としているその顔は血の気が引いて青白くなっている。遠くで雷鳴が響き、その全てがチリチリと燻る嫌な予感を増長させていく。
「今迫ってきている嵐の雲凝結核を捕獲してほしい!」
「……何?」
観測機に向かって駆け寄ってくるアスカの肩を掴み押しとどめる。
「ダメだ。そもそも、観測機で中に入れないから中止になったんだろ」
当然のことを伝えても、アスカは俺を払いのけるようにかぶりを振る。その肩が小さく震えていた。一歩間違えれば墜落しかねない観測機に平気で乗り込むアスカが、だ。ただならぬ様子が、何か深刻な事態が発生していることを伺わせる。
「それでも! それでも、あの雲凝結核を捕まえないと大変なことになる……!」
「落ち着けよ。そもそも、俺にもわかるように話してくれ」
「あの嵐がこのままやって来れば、この辺り一帯は土砂に沈む!」
アスカがグイっと身を乗り出すように迫ってくる。その言葉は唐突過ぎて一瞬意味が理解できなかった。土砂に沈む。話が大きすぎて、現実味がわいてこない。そんな俺を見てか、アスカがもどかしそうに詰め寄ってくる。
「嵐の中核となる雲凝結核は発達を今も発達を続けている。この辺りでは前例のなかった嵐になる。私の計算だと、この研究所を囲む山々の地盤はこの雨に耐えられずに土石流となり、この研究所はもちろん、麓の町まで飲み込みかねない!」
矢継ぎ早に繰り出されたアスカの説明で、ようやく事態の深刻さが飲み込めた。研究所は観測のために人里離れた山の上に築かれているが、その山の麓にはそれなりの規模の町がある。俺だって、休みの日には町に繰り出すから、見知った顔も一つや二つじゃない。
だが、それでもアスカの頼みに素直に応じることはできなかった。無害そうな白い雲の中でさせ観測機は不安定になる。それが、雷雨を伴う嵐の中となればどうなるかは言うまでもない。一度バランスを崩して失速すれば、そのまま立て直せずに墜落しかねない。
「天気が荒れるまでどれくらいだ?」
「ざっと見積もって、あと十時間ほど」
「それなら、逃げる時間はある。生きてさえいれば、あとは何とでもなる」
「それじゃダメなんだ!」
アスカの叫びは、悲鳴と呼ぶに近かった。その声がグワグワと頭を揺さぶってくる。
「土砂に沈んだ町や人を見ることになるくらいなら、私は死んだ方がマシだ!」
ストレート過ぎる言葉に、ガツンと殴られた。アスカの瞳は血走って、危うささえ孕んでいるように見える。
本気で死んだ方がいいと思っている人間は、何をしでかすかわからない。ここで俺が飛行を拒んだところで別の手段を探してくるだろう。それは観測機で嵐の中に突っ込む方がマシと思える方法かもしれない。
それならば、俺の一人の命を賭け金として嵐に挑んだ方が、まだ分のある勝負になるかもしれない。そもそも、家族もいない俺に今ここで命を惜しむ理由がないはずだろう。
感情が理性を上回りあっさりと陥落させる。白旗を上げる理性の最後の抵抗で大きくため息をついてから、飛行用の装備を取りに向かうことにした。
「さすが、君は私が見込んだパイロットだよ」
「無事に帰ってきたら、報酬は弾むんだろうな?」
さっきまで悲壮な顔をしていたのに、コロッと表情を変えたアスカはにへらっと勝気に笑う。
「どうだろう。報酬以前に規則違反で首が飛ぶ可能性は否定できない」
「おい」
「まあ、いざとなったら君一人くらい私が養うさ」
「何の慰めにもならないな。というか」
アスカも羽織っていた白衣を脱いで、飛行服をロッカーから取り出す。その行為は自分が何をしようとしているかまるでわかっていないらしい。
「やめとけ。無事に帰ってこられる可能性の方が低いぞ」
「残念だけど、君一人を死地に赴かせるのは趣味じゃなくてね。だいたい、私がいなければ雲凝結核の位置もわからないでだろう?」
「それは……」
確かに、雲凝結核の位置を調べる電探は後部座席でしか操作はできない。しかし、あれだけの嵐となれば雲凝結核は相当な規模のはずで、目視でも捉えられるはず。
けれど、アスカは機先を制するように不器用にパチリと片目を閉じてみせた。
「それに、私は君の操縦を信用してるからね。さあ、大捕り物の時間だよ」
目の前では観測機に立ちはだかるように、文字通り巨大な暗雲が立ち込めている。眼前の嵐雲がどれほどの大きさなのか、まるで見当がつかなかった。
「この先は本当に引き返せないぞ。いいんだな?」
後部に乗り込んだアスカに最後の確認をすると、返ってきたのはフフンと挑戦的な色を帯びた笑い声だった。
「ここで引き下がったら女が廃るだろう?」
「廃らせてもらって構わないんだがな」
ドゥンと腹の奥底に響きそうな轟音が嵐雲から響いてくる。その光と音は根源的な恐怖を植え付けてくる。あるいは、対空砲の並んだ陣地に爆弾を落とす方がまだ優しいと思えるほどに。
ガタリと機体が揺れる。まだ雲までは距離があるのに、気流が不安定になっている。慎重に機体を立て直しながら、雲に近づく。
「残念だけど、私はここで立ち向かうために研究者になったんだからね。こんなところで引き下がるわけにはいかない」
「研究者っていうのは、ずいぶんと狂気に満ち満ちてるんだな」
「いいだろう? 君にもピッタリだと思うけど」
初めて、本物の戦場の空を飛んだ時のことを思い出す。いつかそんな日が来るとわかって訓練をしてきたはずなのに、明確に向けられた敵意はそんなに生易しいものではなかった。それでも、飛び続けた。心が擦り切れて、手が震えなくなるほどに。
そんな俺に、アスカをこれ以上引き留めることはできない。スロットルを上げ、エンジンを吹かせる。観測機が覚悟を決めたようにグンと加速する。
「私こそ、すまない。私の目的に君を巻き込んでしまっている自覚は、これでも持っている」
「それこそ、今さらだ。これが俺の食い扶持だからな」
視界が黒く染まった途端、吸い込まれるように機体が下降する。すぐ近くで稲光の白線が観測機を横切っていった。操縦桿を引きつつ、計器と感覚を信じて雲の中を突き進む。
「このまま真っすぐ! 距離はそんなに離れていない!」
暴風と雷鳴、豪雨の音に負けないアスカの叫び声の通り、視線の先に雷とは違う光が瞬いているのが見える。これまで捕獲してきた雲凝結核より遥かに大きいようで、肉眼でもはっきりととらえることができる。
ただ真っすぐ飛ぶことがこれ以上なく難しい。一瞬ごとに機体は乱高下して、雲の中に居座ることすら難しい。少しでも操縦を誤れば機体を引き裂かれそうな振動に、操縦桿を握る手が汗で滲む。
暴れる機体をどうにか抑え込みながら進んでいくと、雲凝結核がハッキリと目視できるところまでやってきた。
大きい。
この前捕らえた雲凝結核がビー玉だとすれば、これはちょっとした砲弾くらいの大きさだ。その周囲を黒い雲が渦を巻くように漂っている。これまでいくつも雲の収集をしてきたが、こんな現象は初めて目にした。
「なっ!?」
渦に近づいた途端、機体が弾き飛ばされるように跳ね上がった。
どうやら雲凝結核の近くは強烈な気流が複雑に入り組んでいるらしい。とてもじゃないが、正面から近づけそうにはない。
どうする。どうすればいい。集中力にも機体の燃料にも限りがある。
一度雲の中から離脱するため、跳ね上げられた機首をそのままに上昇を続けると、黒かった視界が青空に包まれる。おどろおどおしい嵐雲と対照的に牧歌的な空に抜け、小さく息をつく。
呼吸を整えながら見下ろす嵐雲は、雲凝結核を中心に渦巻いているようだった。
「へえ。雲凝結核の上下は雲が薄いんだね」
聞こえてきたのは、状況にも関わらずどこか興奮したように弾んだアスカの声だった。
こんな時に、とは思いつつ雲を観察すると、確かに渦の中心に近づくにつれて雲の厚みは薄くなっている。とはいえ、気流が激しく乱れているのには違いない。あそこを最短距離で通過するにはどうすれば──。
「アスカ。一つ賭けに付き合ってもらっていいか?」
「今も大博打の最中だと思うけど?」
まったく、本当に肝が据わっている。
アスカの返事に頷いて、機体を雲凝結核のほぼ真上へと運ぶ。何年振りかに緊張で震える腕を抑え込む。ここから先は限界とのせめぎ合いだ。僅かな操作ミスが文字通り命取りになる。
「舌、噛むなよ」
機体をグイっとバンクさせ、反転するようにしながらダイブする。
元々、ベースは急降下爆撃機だ。その頑丈さを生かし、上空から一直線に雲凝結核を通過して捕らえる。
だが、嵐雲に近づくにつれ振動が激しくなる。機体の節々が悲鳴を上げ、翼にひずみが生じ始めていた。
少しでも不用意な力が加われば、機体は限界を迎えてバラバラに分解するだろう。そのギリギリを見極めなければいけない。精神を研ぎ澄ます。ただ一点、光る石を目指して雲の中に突入する。
瞬時、視界が開け雲凝結核を囲む渦が見えた。
「今だ、アスカ!」
叫ぶのと同時に、機体の腹部から収集器が展開される音が響く。機体の状態から考えて、チャンスはこの一度。
「ちょい機首上げて!」
聞こえてきた声に反射的に従う。次の瞬間、ガコンと硬質な音が機体の腹の方から響いてくる。
「掴んだっ!」
アスカの声をどこか遠くで聞きながら、雨雲の下に出たところでダイブブレーキを展開。急減速に身体が締め付けられるのに耐える。ここで意識を失えばこのまま海面に突っ込むことになる。
歯を食いしばりながら、ゆっくりと機首を上げる。機体の状況を確認すると、どうにか飛べてはいるが、翼をはじめあちこち歪みや緩みが出ているようだった。
「……やった」
ポツリと、声が聞こえてくる。空から光が射しこんできた。
見上げると、雲凝結核が存在していただろう場所に雲の切れ間が生まれ、蒼空が観測機を見下ろしている。
少しずつ、嵐雲が霧散するように溶けていく。機体を打ち付ける雨が勢いが弱まっていく。
今更のように疲労が押し寄せてきて、意識が遠くなる。
「やったよ、ヒサメ! 私たちはやったんだ! やはり君は最高だ!」
それでも、アスカの弾んだ声を聞いていると、胸の奥がスッと晴れわたっていく。
明るくなっていく空が、俺たちが勝利を掴んだことを告げていた。
※
「どれだけ無茶苦茶したら気が済むっすか!」
自分より年下の女性整備員の声に首をすくめる。ユキノは観測機の翼をいたわるように触れたかと思うと、俺に向かってスパナを振り下ろしてきた。眼前に突き付けられたスパナの先端は銃口とは違った恐ろしさがある。
嵐雲の雲凝結核を捕まえた後、俺は無断飛行により半月間の飛行禁止を命じられた。といっても、観測機の修理にそれくらいかかるということで、実質的にはおとがめなしだった。
軍隊であれば規律違反は軍法会議ものだけど、俺たちが収集した雲凝結核は世界的に見ても貴重なものらしく、また、事情も鑑みて穏便な処置に落ち着いたらしい。
「また、飛べるようになるか?」
「できるできないじゃないっすね。アスカさんがあれこれ飛行プランを考えてるんで、あと一週間で飛べるようにしないと雷落とされるっす」
アスカの方も処分は二週間の飛行禁止ということで、それよりも捉えてきた雲凝結核の分析で忙しいらしい。あれから顔を合わせていないけど、既に次の飛行のことを考えていたとは。
頭をガリガリとかいたユキノはため息とともに俺にスパナを差し出す。
「というわけで、ヒサメさんも手伝ってくださいっす。私も、この飛行機が飛んでるところは好きっすから」
「俺、一応謹慎中なんだけど」
「それなら、アスカさんの特性コーヒーでもお持ちするっすよ」
「俺のことは新入りだと思って好きに使ってくれ」
調子いいっすね、と苦笑を浮かべるユキノの向こうに広がるのは、雲一つない蒼空だった。



