それから三か月。相変わらずバイト三昧の日々だ。ただ、以前と一つだけ違うことがある。休日には少しジョギングをするようになった。距離はまだまだ少ないけれど、続けているうちに気がついたら以前より疲れにくくなっていた。だんだんと体力ついてきたのかな、と思いながら走る。体力をつけようと思ったのはあの自転車の旅がきっかけだ。
村上とはその後、数回メールでやり取りをした。筋肉痛はもう大丈夫かとか、他愛のないやり取り。プライベートが忙しく返信が遅れがちになることが増えて、そのうち彼からのメールも途絶えた。元々偶然に出会った二人。趣味が合うわけでもないし、いつまでも連絡は続かないことは何となく予感していた。
それでも俺は村上と過ごしたあの二日間をたまに思い出す。村上の笑顔と一緒に。あの時、ちょっと感じていた恋心はだんだん薄れていき、思い出は膨らんでいった。
その日はやけに冷える日だった。天気予報では雪がちらつくかもしれないと言っている。細身の俺には寒さが堪える。ほんと、もうちょっと筋肉つけないとなあ……。明日はバイトが入っていない土曜日。何を作ろうかなあとスーパーに入り食材を眺めていた。するとポケットに入れていたスマホが着信を教える。画面を確認すると表示されたのは村上だった。俺は驚きながら慌てて通話ボタンを押す。
『もしもし』
『幹っち! 元気してた?』
スマホ越しに聞こえる元気な声に、俺は思わず笑ってしまった。
『相変わらずだよ。お前は元気そうだな』
『うん。ねぇ、幹っち明日休み? 僕さあ、用事でそっちに行くんだけど、終わったら幹っちのところに遊びに行こっかなって。どうせ暇だろ』
俺はスマホを持ったまま立ち止まった。――村上が来る? ここに?
『お前、俺の部屋をホテル代わりにしようと思ってないか?』
俺はニヤつきながら毒づいたが、村上は気にしない。
『大丈夫だよ、ホテルは取ってるから。それより最寄りの駅、教えてよ』
相変わらず強引なやつだ。思い出になっていた村上との時間が巻き戻ったように感じる。俺は笑って、村上に最寄り駅を教えた。
***
やっぱりとは思っていたけど、ほんとに俺は惚れやすいと言うか……薄れていた筈の恋心は、三ヶ月ぶりに見た村上の笑顔でまたムクムクと膨らんだ。
「ウチのレモン持ってきたからさ、レモン鍋しようよ!」
手に持っていた紙袋を俺に渡しながら見せた笑顔は、あの日島で見た笑顔と同じ。紙袋を受け取りながら胸のドキドキが聞こえてないか、不安だった。
「へー、牡蠣も入れるんだ」
鍋の具材を近所のスーパーで買い出しをする。豚バラ肉や野菜、そして牡蠣。なかなかのボリュームだ。普段料理をしないと言っていた村上だが、レモン鍋は作ってくれるという。
「そう。牡蠣なくてもいいんだけど、あったほうが格段に美味いんだ」
購入した食材を袋につめて、二人で部屋まで帰る。その間にも村上はずっとおしゃべりをしていて俺は閉口した。そうだった、めちゃくちゃ喋るんだったな……
部屋に着いて、辺りを見渡した村上は荷物を置いてこう言った。
「思ったより、綺麗にしてる。まだ一人?」
「ディスってんのかよ……恋人はいないよ」
俺が口を尖らせると村上は笑う。狭いキッチンに男二人。包丁とまな板を取り出し、村上がさっそく食材を切っていく。
「ちょっと前はいたんだ、恋人。大学で出会ってさあ」
そんな村上の話にチクチク胸を痛めながらも冷静につとめる。
「へぇ。何で別れたの」
「……僕の求めることと、あっちの求めることが違ってたからさ」
村上は作業しながら呟く。俺は横目でそんな村上を見た。何がダメだったんだろう。キスをすると、どんな感じなんだろうか。俺より背の低い村上。キスをするとき背伸びするのかな。――そんなことを考え出して俺は首を振る。やけに村上のうなじが白く見えさらに目の行き場に困ってしまった。
「美味い!」
完成したレモン鍋を一口食べて俺がそう言うと、村上は嬉しそうに自分も食べ始めた。牡蠣のエキスが出たスープと豚の脂。そして野菜の甘味。上にびっしり置かれたレモンの輪切りの酸味でさっぱりしている。
「うちの自慢のレモンだからね。幹っちに食べてもらえて嬉しい」
鍋を食べながら俺らは近況を伝え合う。俺が最近、ジョギングしていることを伝えると村上は微笑み、俺の頭にぽんぽんと手を乗せた。
「じゃあ来年は一緒に走ろう」
そう笑う村上の口元に、レモンの種がついている。俺はその種を取ってやろうと顔を近づけた。手を伸ばして口元に触れようとしたら、村上はじっと俺の顔を見ている。
――ちょいまて。このシチュエーション、まるでキスするみたいになってないか?
そう意識してしまい、思わず手を引っ込め顔を背けた。
「……種、ついてる」
村上がどんな表情をしたかは見てないから分からない。一瞬沈黙が流れた。
「本当だ、ありがと。そろそろシメにしよう。チーズとご飯でリゾットにすると美味しいよ」
なんら変わりのない、村上の声にホッとした。意識してしまったのは俺だけだ。
じゃあリゾットにするかと俺は立ち上がり鍋を台所に持っていき、チーズの袋を開けようとすると村上も台所にやってきた。
「座ってていいのに」
「手伝うよ」
ぷは、と俺は思わず笑ってしまった。
「ご飯とチーズいれるだけなのに、手伝うもなにも……」
すると村上は背後から突然抱きついてきた。俺は驚いて危うくチーズを床にぶちまけてしまうところだった。
「な、何?」
「台所寒いから温めよっかなって」
「大丈夫だからっ」
むしろ、村上に抱きつかれて体とほおが熱いわ! そんなことを思いながら完成したリゾットはめちゃくちゃ美味しくて、あっという間に平らげた。もうお腹がはち切れそうだ。
「レモン鍋うまかった。大学の友達にも教えてやろう」
俺がそう言うと村上はよかった、と笑う。
「友達、多いの?」
「少ない方かな。俺がたくさんいるように見えるか?」
「見えないけどさ。女の子もいる?」
「同じサークルで仲良い奴はいるけど……」
すると村上が今までになく口を尖らせていることに気がついた。え、なんかおかしいこと言ったか?
「……僕より先に、恋人できそうじゃん」
――そんな言葉、反則だろ! 俺は思わず息を呑む。どんな気持ちで村上が言っているのかは分からないけど、拗ねた村上の顔がもうたまらなく愛しくて……
不意に村上と目が合う。間近に見た村上の瞳に吸い込まれる。テーブル越しに顔を近づけても村上は何故かそのまま微動だにしない。それを見て俺はもう自分の欲求を抑えられなくなった。――キス、したい。
動かない村上をいいことに、そのまま唇を重ねる。思ったより柔らかい感触に、身体がジンとした。一度離してもう一度キスしても、村上は拒絶しない。
「んっ……」
二度目のキスの後、村上の小さな声にハッと我にかえった。村上は真っ赤な顔で俺を見ている。
「ご、ごめん!」
後退りして体を離す。指で唇を触る村上。きっと気持ち悪いよな。正座をして俺は村上に言う。
「俺、実は恋愛対象は男なんだ。だから彼女なんていないし、いたことないし……って、そんなこと言ってる場合じゃないよな、ごめん」
さっきまで楽しく過ごしてた部屋の中が、まるで真冬の夜中のように静かで寒い。寒いのは冷や汗のせいだろうか。無言のまま、村上は下を向く。――そりゃ、気持ち悪いよな。自分の膝をぎゅっと掴んだ。下手したら涙が出そうなのを堪えて、項垂れた。
五分くらいそうしてただろうか。ふいに村上が立ち上がる気配がした。俺はもう顔を上げることもできず、身体を動かせない。村上は何も言わずに――玄関のドアを開けバタンと閉じられる音が部屋に響いた。それが聞こえた瞬間、涙が溢れ出し、その場にうずくまった。出て行った村上を追いかけもせずに――
どれくらい泣いただろうか。涙がようやく止まり、立ち上がるとテーブルにはカピカピなってしまった鍋と二つの小皿。さっきまでの楽しい時間を思い出してまた涙腺が緩む。鍋を台所に持っていき流しで洗う。こびりついたご飯はなかなか落ちない。ゴシゴシとスポンジで擦っている間にも涙が溢れて止まらない。
村上、ごめんな。――せっかく来てくれたのに。これで村上と縁が切れてしまうのだろう。もう思い出にしなければ。
今度こそ思い出にしなきゃ。とてもやりきれないけれど……
やがて鍋が綺麗になり、ひと段落ついた。時計を見ると午前零時を回っていた。一時間も鍋を磨いていたのか。ちょっと自分自身にひいてしまいつつ寝るかと着替えようとした時。突然インターフォンがなったので、心臓が飛び出るほど驚いた。こんな夜中に、なんだ? 俺は恐る恐る玄関のドアを少し開けるとそこにいたのは――ドアを開き思わず声を出した。
「村上!」
「……中、入れてよ」
よく見るとさっきまで持っていなかった大きなカバンを持っている。そんなことより、何で戻ってきたんだ? 俺は頷いて村上を部屋に入れた。
「ホテルキャンセルしてきた?」
俺は村上の言葉に驚く。村上の表情はあっけらかんとしたものだった。――なんかこう、何もなかったかのような……
「うん。当日キャンセルだからお金かかっちゃった」
「だってお前、出て行ったんじゃ……」
「ホテルの部屋に荷物置いてたから取りに行ったんだよ。それに少し、気持ちを整理したくて」
ますます意味がわからなくて混乱してきた。いやなんで荷物を取りに行く必要があるんだ。そもそもなぜ――
「なんで、戻ってきたんだ」
荷物を置いて村上はソファに座る。
「泊まらせてよ。そのためにキャンセルしたんだ。さっきのこと、ゆっくり教えてほしくて」
怒って出ていったのではなかったのかと一瞬安堵したものの、その後の言葉にどきりとする。俺はしばらく言葉が出ない。それでも村上はじっと待っている。今までに見たことないような……真剣な眼差しで。いくら待っても答えない俺に村上はため息をつき口を開く。
「どうして、キスしたの? 幹っちは誰にでもキスしたくなっちゃう人?」
「そんなわけない」
「そうだよね。僕が知っている幹っちは不器用でシャイだもん。
「……」
「なら、どうして僕にキスしたの」
じわじわと追い詰める村上。このまま言うしかないだろうか。
『お前が好きだから』と……
すると痺れを切らした村上が突然、俺の顔を両手で持ち上げた。
「も――! はっきり言ったら? 僕が好きなんでしょ?」
その言葉にもう、どうにでもなれと半分ヤケになり答えた。
「……好きじゃなきゃ、キスなんてしないだろ! したいからしたんだ!」
すると、村上は突然笑顔になり、両頬をばちばちと叩いた。ちょっと、痛いんだけど……
「何するんだよ」
「僕ね、そういう不器用な幹っち大好きだよ」
「お前の好きと俺の好きは違うんだ……」
その先を言おうとしたら、突然手で口を塞がれ驚く。すると村上は自分のおでこを俺のおでこにコツンと引っ付けた。間の前に村上の茶色い瞳が映る。近い、近すぎる! そしてゆっくり手をずらし、今度は唇に村上の唇が押し当てられる。ほんの少しかさついた唇。キスをされているということに俺は慌てて村上の腕を掴んだ。そして唇が離れると村上は少しだけ照れたように笑う。
「同じ意味だよ。――道端にしゃがんでいた幹っちに一目惚れしたくらいだから」
ちょっとまて。何、言って――と俺は思わず容赦なく呟いた。
「お前、ゲイなのか?」
その言い方に、村上は不満だったのか口を尖らせた。
「幹っちこそ! 悩んで損した!」
段々と村上がいつものような口調になってくる。子供のような、照れ隠しのような……
「はあ? 悩むって……」
「一緒にいてめちゃくちゃ楽しかったから、幹っちが帰って寂しかったんだ。だけど、押しかけるわけにもって思って」
「……押しかけてきたじゃないか」
「だって、我慢できなくって。本当は僕から告白しようとしてたのに……島だからってノンケばかりと思わないでよね」
「なんだよ、ソレ!」
もう我慢ができなくて、俺は思わず吹き出し大笑いした。村上はといえばふて腐れていたが俺があまりにも笑うからおかしくなってきたのか、やがて同じように笑い出して、気がつけば二人とも夜中に大笑いしていた。
――何だよ、俺ら。両想いだったのか。お互い悩んで、バカみたいだ。
「そんなの、言わないと分かんねえだろ」
「幹っちこそ」
お互いのせいにしようとしながらも、嬉しくて俺らは笑いながら罵り合う。でも本当に、村上が来てくれてよかった。ありがとう、と言いながら村上の頭を撫でる。
すると視線があって、どちらからという訳でもなくキスをする。やがて軽いキスはいつのまにか濃厚なキスに変わっていく。
「ん……」
村上が手を差し出してきたので、手を合わせ手強く握る。それだけでもう身体が熱くなる。唇を離すと、村上はいたずらっ子のように笑う。
その後、コーヒーを飲みながらお互いどれだけ悩んだかを披露しているうちにようやく眠気が襲ってきた。時計の針は午前三時を指している。そろそろ寝ようか、と準備をしていると村上がポツリと呟いた。
「前の人と別れた原因を求めることが違ってたって言ったでしょ、あれ分かる?」
そう言われて首を傾げたがピンときた。きっと夜の話で『どちらになるか』で揉めたのではないかと答えると、村上は良くわかったねと苦笑いした。
「僕はタチだけど――幹っちは?」
さあ、と言うとなんだよ、と胸を叩く。
「そこは大丈夫だよ」
村上は心底ホッとしたような顔をした。
***
「今度、また島に泊まりにきてよ」
翌朝。朝食のパンをかじりながら村上は言う。あっという間の展開で、俺は若干夢じゃないだろうかなんて思ってたけど、村上はケロっとしていた。
「そうだな」
「まだまだおすすめの景色、たくさんあるからさ。一緒に観に行こうね」
その笑顔がまた可愛くて、俺はついつい顔を赤らめた。こんな可愛いのに、タチなんだよなあ……
「どうかした?」
「なんでもない……あ、そういえば今更だけどさ、名前教えてよ。せっかく恋人になったんだからさ」
そう言うと、少しだけ村上の顔が曇った。
「何だよ、言いたくないのか?俺は宗隆だよ。村上は?」
「……たろ」
「ん?」
「太郎だよ!」
たろう、と言った時、村上は恥ずかしいそうにソッポをむいた。きっと名前が古めかしくてあまり言いたくないのだろう。確かに太郎という名前と風貌が一致しない。
「可愛いじゃんか、太郎って」
「そっ、そんなことないっっ!」
ポカポカと俺を叩く村上に、俺は笑った。
テーブルの真ん中に置いていた、昨日余った村上のレモン。きっと俺は村上とこのレモンに、恋したんだ。そしてこれからも恋していくんだ。あの日見た坂道の先にあった輝く海を思い出しながら、村上の体を抱き寄せた。
【了】
村上とはその後、数回メールでやり取りをした。筋肉痛はもう大丈夫かとか、他愛のないやり取り。プライベートが忙しく返信が遅れがちになることが増えて、そのうち彼からのメールも途絶えた。元々偶然に出会った二人。趣味が合うわけでもないし、いつまでも連絡は続かないことは何となく予感していた。
それでも俺は村上と過ごしたあの二日間をたまに思い出す。村上の笑顔と一緒に。あの時、ちょっと感じていた恋心はだんだん薄れていき、思い出は膨らんでいった。
その日はやけに冷える日だった。天気予報では雪がちらつくかもしれないと言っている。細身の俺には寒さが堪える。ほんと、もうちょっと筋肉つけないとなあ……。明日はバイトが入っていない土曜日。何を作ろうかなあとスーパーに入り食材を眺めていた。するとポケットに入れていたスマホが着信を教える。画面を確認すると表示されたのは村上だった。俺は驚きながら慌てて通話ボタンを押す。
『もしもし』
『幹っち! 元気してた?』
スマホ越しに聞こえる元気な声に、俺は思わず笑ってしまった。
『相変わらずだよ。お前は元気そうだな』
『うん。ねぇ、幹っち明日休み? 僕さあ、用事でそっちに行くんだけど、終わったら幹っちのところに遊びに行こっかなって。どうせ暇だろ』
俺はスマホを持ったまま立ち止まった。――村上が来る? ここに?
『お前、俺の部屋をホテル代わりにしようと思ってないか?』
俺はニヤつきながら毒づいたが、村上は気にしない。
『大丈夫だよ、ホテルは取ってるから。それより最寄りの駅、教えてよ』
相変わらず強引なやつだ。思い出になっていた村上との時間が巻き戻ったように感じる。俺は笑って、村上に最寄り駅を教えた。
***
やっぱりとは思っていたけど、ほんとに俺は惚れやすいと言うか……薄れていた筈の恋心は、三ヶ月ぶりに見た村上の笑顔でまたムクムクと膨らんだ。
「ウチのレモン持ってきたからさ、レモン鍋しようよ!」
手に持っていた紙袋を俺に渡しながら見せた笑顔は、あの日島で見た笑顔と同じ。紙袋を受け取りながら胸のドキドキが聞こえてないか、不安だった。
「へー、牡蠣も入れるんだ」
鍋の具材を近所のスーパーで買い出しをする。豚バラ肉や野菜、そして牡蠣。なかなかのボリュームだ。普段料理をしないと言っていた村上だが、レモン鍋は作ってくれるという。
「そう。牡蠣なくてもいいんだけど、あったほうが格段に美味いんだ」
購入した食材を袋につめて、二人で部屋まで帰る。その間にも村上はずっとおしゃべりをしていて俺は閉口した。そうだった、めちゃくちゃ喋るんだったな……
部屋に着いて、辺りを見渡した村上は荷物を置いてこう言った。
「思ったより、綺麗にしてる。まだ一人?」
「ディスってんのかよ……恋人はいないよ」
俺が口を尖らせると村上は笑う。狭いキッチンに男二人。包丁とまな板を取り出し、村上がさっそく食材を切っていく。
「ちょっと前はいたんだ、恋人。大学で出会ってさあ」
そんな村上の話にチクチク胸を痛めながらも冷静につとめる。
「へぇ。何で別れたの」
「……僕の求めることと、あっちの求めることが違ってたからさ」
村上は作業しながら呟く。俺は横目でそんな村上を見た。何がダメだったんだろう。キスをすると、どんな感じなんだろうか。俺より背の低い村上。キスをするとき背伸びするのかな。――そんなことを考え出して俺は首を振る。やけに村上のうなじが白く見えさらに目の行き場に困ってしまった。
「美味い!」
完成したレモン鍋を一口食べて俺がそう言うと、村上は嬉しそうに自分も食べ始めた。牡蠣のエキスが出たスープと豚の脂。そして野菜の甘味。上にびっしり置かれたレモンの輪切りの酸味でさっぱりしている。
「うちの自慢のレモンだからね。幹っちに食べてもらえて嬉しい」
鍋を食べながら俺らは近況を伝え合う。俺が最近、ジョギングしていることを伝えると村上は微笑み、俺の頭にぽんぽんと手を乗せた。
「じゃあ来年は一緒に走ろう」
そう笑う村上の口元に、レモンの種がついている。俺はその種を取ってやろうと顔を近づけた。手を伸ばして口元に触れようとしたら、村上はじっと俺の顔を見ている。
――ちょいまて。このシチュエーション、まるでキスするみたいになってないか?
そう意識してしまい、思わず手を引っ込め顔を背けた。
「……種、ついてる」
村上がどんな表情をしたかは見てないから分からない。一瞬沈黙が流れた。
「本当だ、ありがと。そろそろシメにしよう。チーズとご飯でリゾットにすると美味しいよ」
なんら変わりのない、村上の声にホッとした。意識してしまったのは俺だけだ。
じゃあリゾットにするかと俺は立ち上がり鍋を台所に持っていき、チーズの袋を開けようとすると村上も台所にやってきた。
「座ってていいのに」
「手伝うよ」
ぷは、と俺は思わず笑ってしまった。
「ご飯とチーズいれるだけなのに、手伝うもなにも……」
すると村上は背後から突然抱きついてきた。俺は驚いて危うくチーズを床にぶちまけてしまうところだった。
「な、何?」
「台所寒いから温めよっかなって」
「大丈夫だからっ」
むしろ、村上に抱きつかれて体とほおが熱いわ! そんなことを思いながら完成したリゾットはめちゃくちゃ美味しくて、あっという間に平らげた。もうお腹がはち切れそうだ。
「レモン鍋うまかった。大学の友達にも教えてやろう」
俺がそう言うと村上はよかった、と笑う。
「友達、多いの?」
「少ない方かな。俺がたくさんいるように見えるか?」
「見えないけどさ。女の子もいる?」
「同じサークルで仲良い奴はいるけど……」
すると村上が今までになく口を尖らせていることに気がついた。え、なんかおかしいこと言ったか?
「……僕より先に、恋人できそうじゃん」
――そんな言葉、反則だろ! 俺は思わず息を呑む。どんな気持ちで村上が言っているのかは分からないけど、拗ねた村上の顔がもうたまらなく愛しくて……
不意に村上と目が合う。間近に見た村上の瞳に吸い込まれる。テーブル越しに顔を近づけても村上は何故かそのまま微動だにしない。それを見て俺はもう自分の欲求を抑えられなくなった。――キス、したい。
動かない村上をいいことに、そのまま唇を重ねる。思ったより柔らかい感触に、身体がジンとした。一度離してもう一度キスしても、村上は拒絶しない。
「んっ……」
二度目のキスの後、村上の小さな声にハッと我にかえった。村上は真っ赤な顔で俺を見ている。
「ご、ごめん!」
後退りして体を離す。指で唇を触る村上。きっと気持ち悪いよな。正座をして俺は村上に言う。
「俺、実は恋愛対象は男なんだ。だから彼女なんていないし、いたことないし……って、そんなこと言ってる場合じゃないよな、ごめん」
さっきまで楽しく過ごしてた部屋の中が、まるで真冬の夜中のように静かで寒い。寒いのは冷や汗のせいだろうか。無言のまま、村上は下を向く。――そりゃ、気持ち悪いよな。自分の膝をぎゅっと掴んだ。下手したら涙が出そうなのを堪えて、項垂れた。
五分くらいそうしてただろうか。ふいに村上が立ち上がる気配がした。俺はもう顔を上げることもできず、身体を動かせない。村上は何も言わずに――玄関のドアを開けバタンと閉じられる音が部屋に響いた。それが聞こえた瞬間、涙が溢れ出し、その場にうずくまった。出て行った村上を追いかけもせずに――
どれくらい泣いただろうか。涙がようやく止まり、立ち上がるとテーブルにはカピカピなってしまった鍋と二つの小皿。さっきまでの楽しい時間を思い出してまた涙腺が緩む。鍋を台所に持っていき流しで洗う。こびりついたご飯はなかなか落ちない。ゴシゴシとスポンジで擦っている間にも涙が溢れて止まらない。
村上、ごめんな。――せっかく来てくれたのに。これで村上と縁が切れてしまうのだろう。もう思い出にしなければ。
今度こそ思い出にしなきゃ。とてもやりきれないけれど……
やがて鍋が綺麗になり、ひと段落ついた。時計を見ると午前零時を回っていた。一時間も鍋を磨いていたのか。ちょっと自分自身にひいてしまいつつ寝るかと着替えようとした時。突然インターフォンがなったので、心臓が飛び出るほど驚いた。こんな夜中に、なんだ? 俺は恐る恐る玄関のドアを少し開けるとそこにいたのは――ドアを開き思わず声を出した。
「村上!」
「……中、入れてよ」
よく見るとさっきまで持っていなかった大きなカバンを持っている。そんなことより、何で戻ってきたんだ? 俺は頷いて村上を部屋に入れた。
「ホテルキャンセルしてきた?」
俺は村上の言葉に驚く。村上の表情はあっけらかんとしたものだった。――なんかこう、何もなかったかのような……
「うん。当日キャンセルだからお金かかっちゃった」
「だってお前、出て行ったんじゃ……」
「ホテルの部屋に荷物置いてたから取りに行ったんだよ。それに少し、気持ちを整理したくて」
ますます意味がわからなくて混乱してきた。いやなんで荷物を取りに行く必要があるんだ。そもそもなぜ――
「なんで、戻ってきたんだ」
荷物を置いて村上はソファに座る。
「泊まらせてよ。そのためにキャンセルしたんだ。さっきのこと、ゆっくり教えてほしくて」
怒って出ていったのではなかったのかと一瞬安堵したものの、その後の言葉にどきりとする。俺はしばらく言葉が出ない。それでも村上はじっと待っている。今までに見たことないような……真剣な眼差しで。いくら待っても答えない俺に村上はため息をつき口を開く。
「どうして、キスしたの? 幹っちは誰にでもキスしたくなっちゃう人?」
「そんなわけない」
「そうだよね。僕が知っている幹っちは不器用でシャイだもん。
「……」
「なら、どうして僕にキスしたの」
じわじわと追い詰める村上。このまま言うしかないだろうか。
『お前が好きだから』と……
すると痺れを切らした村上が突然、俺の顔を両手で持ち上げた。
「も――! はっきり言ったら? 僕が好きなんでしょ?」
その言葉にもう、どうにでもなれと半分ヤケになり答えた。
「……好きじゃなきゃ、キスなんてしないだろ! したいからしたんだ!」
すると、村上は突然笑顔になり、両頬をばちばちと叩いた。ちょっと、痛いんだけど……
「何するんだよ」
「僕ね、そういう不器用な幹っち大好きだよ」
「お前の好きと俺の好きは違うんだ……」
その先を言おうとしたら、突然手で口を塞がれ驚く。すると村上は自分のおでこを俺のおでこにコツンと引っ付けた。間の前に村上の茶色い瞳が映る。近い、近すぎる! そしてゆっくり手をずらし、今度は唇に村上の唇が押し当てられる。ほんの少しかさついた唇。キスをされているということに俺は慌てて村上の腕を掴んだ。そして唇が離れると村上は少しだけ照れたように笑う。
「同じ意味だよ。――道端にしゃがんでいた幹っちに一目惚れしたくらいだから」
ちょっとまて。何、言って――と俺は思わず容赦なく呟いた。
「お前、ゲイなのか?」
その言い方に、村上は不満だったのか口を尖らせた。
「幹っちこそ! 悩んで損した!」
段々と村上がいつものような口調になってくる。子供のような、照れ隠しのような……
「はあ? 悩むって……」
「一緒にいてめちゃくちゃ楽しかったから、幹っちが帰って寂しかったんだ。だけど、押しかけるわけにもって思って」
「……押しかけてきたじゃないか」
「だって、我慢できなくって。本当は僕から告白しようとしてたのに……島だからってノンケばかりと思わないでよね」
「なんだよ、ソレ!」
もう我慢ができなくて、俺は思わず吹き出し大笑いした。村上はといえばふて腐れていたが俺があまりにも笑うからおかしくなってきたのか、やがて同じように笑い出して、気がつけば二人とも夜中に大笑いしていた。
――何だよ、俺ら。両想いだったのか。お互い悩んで、バカみたいだ。
「そんなの、言わないと分かんねえだろ」
「幹っちこそ」
お互いのせいにしようとしながらも、嬉しくて俺らは笑いながら罵り合う。でも本当に、村上が来てくれてよかった。ありがとう、と言いながら村上の頭を撫でる。
すると視線があって、どちらからという訳でもなくキスをする。やがて軽いキスはいつのまにか濃厚なキスに変わっていく。
「ん……」
村上が手を差し出してきたので、手を合わせ手強く握る。それだけでもう身体が熱くなる。唇を離すと、村上はいたずらっ子のように笑う。
その後、コーヒーを飲みながらお互いどれだけ悩んだかを披露しているうちにようやく眠気が襲ってきた。時計の針は午前三時を指している。そろそろ寝ようか、と準備をしていると村上がポツリと呟いた。
「前の人と別れた原因を求めることが違ってたって言ったでしょ、あれ分かる?」
そう言われて首を傾げたがピンときた。きっと夜の話で『どちらになるか』で揉めたのではないかと答えると、村上は良くわかったねと苦笑いした。
「僕はタチだけど――幹っちは?」
さあ、と言うとなんだよ、と胸を叩く。
「そこは大丈夫だよ」
村上は心底ホッとしたような顔をした。
***
「今度、また島に泊まりにきてよ」
翌朝。朝食のパンをかじりながら村上は言う。あっという間の展開で、俺は若干夢じゃないだろうかなんて思ってたけど、村上はケロっとしていた。
「そうだな」
「まだまだおすすめの景色、たくさんあるからさ。一緒に観に行こうね」
その笑顔がまた可愛くて、俺はついつい顔を赤らめた。こんな可愛いのに、タチなんだよなあ……
「どうかした?」
「なんでもない……あ、そういえば今更だけどさ、名前教えてよ。せっかく恋人になったんだからさ」
そう言うと、少しだけ村上の顔が曇った。
「何だよ、言いたくないのか?俺は宗隆だよ。村上は?」
「……たろ」
「ん?」
「太郎だよ!」
たろう、と言った時、村上は恥ずかしいそうにソッポをむいた。きっと名前が古めかしくてあまり言いたくないのだろう。確かに太郎という名前と風貌が一致しない。
「可愛いじゃんか、太郎って」
「そっ、そんなことないっっ!」
ポカポカと俺を叩く村上に、俺は笑った。
テーブルの真ん中に置いていた、昨日余った村上のレモン。きっと俺は村上とこのレモンに、恋したんだ。そしてこれからも恋していくんだ。あの日見た坂道の先にあった輝く海を思い出しながら、村上の体を抱き寄せた。
【了】



