レモンに恋した大学生の話

 その番組を見たのは、確かバイトが忙しく疲れ切って帰宅した日だ。たまたま流れていたテレビ番組。映し出されていたのは、青い空にキラキラ輝く瀬戸内海。真ん中に、境界線の様な橋。その橋を颯爽と駆けていくのは自転車だ。
(気持ちよさそうだな……)
 瀬戸内海にあるしまなみ海道を舞台に、自転車で島をめぐる番組。のどかな風景と住人たちとの交流を紹介していた。今思えばあのときなんだか羨ましくなったのは、きっと疲れていたからだろう。
(……行ってみようかな)
 ――なんて思って即座に実行してしまった数週間前の自分を呪ってやりたい。ペダルを漕ぎすぎてパンパンになった脚をさすりながら俺は道端でそう思った。

***

 番組を見たあと、連休の予定をサイクリングに決めた。ネットで情報を集めていよいよ休みに入った日に、島を巡ることのできる街道の出発地点へと向かった。
 その街に到着すると、すでに自転車に乗った人が結構いる。ぴっちりとしたサイクリングスーツを身にまとった若者。褐色の肌を露わにした年配の人。本格的な自転車の人もいれば見るからに初心者って感じの人もいる。
 レンタサイクル店に行き、幹宗隆(みきむねたか)と自分の名前を自転車貸出申込書に書いている途中に店員から話しかけられた。
「お客さん、今回初めて? 泊まる所は決まってる?」
 ネットでは宿泊を勧めていたが、俺は宿を取っていない。まあ行けるんじゃないかなとたかを括っていたのだ。
「一日じゃ、行けれない距離ですか?」
「全長八十キロだから頑張れば日帰りできるけど。おすすめは泊まりかな。まあ、あまり無理しないように。気をつけて行ってらっしゃい」
 ヘルメットを受け取りながらどうも、と頭を下げた。今日は風が少なくていい天気。これならスイスイ行けるだろう。高校の時は陸上部だったし脚には自信がある。そりゃ大学に入ってからは運動していないけど……まだまだ行けるはずだ。海を見ながらサイクリングなんて、何て贅沢な休日何だろう!
 ――なんて思った自分を、呪ってやりたい。だいたい運動しなくなって何年も経過していただろ。

***

 初めの一時間くらいは本当に快適だったんだ。穏やかな瀬戸内海にかかる橋。眼下に見ながら進む景色はたまらなかった。横で車が走っているけれど、ちゃんと自転車用に道が整備されていて道幅も広い。キラキラと輝く海面に青い空。あの時、番組を見ていてよかったと心底思っていた。
 橋を渡りきると今度は島の中の道をいく。島の道には自転車道としてブルーのラインが書いてあり、それが自転車乗り(チャリダー)の道しるべとなってどんどん進んで行ける。田舎道も心を癒してくれた……はずなのだが。

 休憩を交えながら進んでいた俺の脚が、だんだんと重くなってきたのは、一時間半くらいたったころ。日頃の運動不足を甘くみすぎたのだ。しかも島の道は意外とアップダウンが激しい。どんどん体力を奪われてゼエゼエ、と走っている俺の横をサイクリングスーツを着たカップルが楽しそうに走り去っていく。俺はだんだんと気持ちが萎えてきた。――俺は何でこんなに頑張ってるんだっけ? いつもなら家でのんびりしていた連休だというのに。体に鞭打ってどうしてこんな田舎で自転車をひいひい漕いでるんだっけ。そう思ったが最後、俺は自転車を止めて道端に止めた。サドルから降りて、地面に座り込みミネラルウォーターを飲む。
(こんなに体力なかったんだな、俺……)

 ぼーっとしながら過ぎ去っていく自転車たち。中には結構な年配の人もいるというのに、あっちの方が体力がありそう。得意げに購入してかけていた虹色のサングラスを外して俺は空を見上げた。
(もうなんだかめんどくさくなってきたな)
 俺の悪いとこは『諦めの早いところ』だ。とにかく困難があると逃げたくなる。さすがに勉強やバイトは投げ出さないけどそれ以外はダメだと思ったらすぐ諦める。『推してダメならひいてみろ』なんて、とんでもない。
 そんな性格だから、恋愛だってうまくいかない。というかそもそも俺はゲイなので相手は男。だけど性別関係なくうまくいかないのだ。
「もお、帰ろっかな……」
 相変わらずの自分の根性なさに笑えてしまう。

 その時、俺の前に一台の自転車が止まって、声をかけてきた。
「ちょっと、お兄さん大丈夫?」
 道端にしゃがみ込んでいた俺を見て、怪我でもしたと思ったのかヘルメットをつけたその男は心配そうに聞いてきた。
「大丈夫ですよ。ちょっと、疲れちゃって」
 ヘラっと笑いながら俺は答える。少し人見知りな俺としてはこの初対面の距離感が苦手だ。さっさと行ってくれないかなあ。
「初心者さん? ダメですよ、無理しちゃあ。どれくらい走ったの」
 初心者、と言われちょっとだけムッとしてしまった。何だよ、小馬鹿にしやがって。
「二時間くらいですかね……休憩していただけですから、本当に大丈夫です」
「心配だなあ、一人でしょ? ご一緒しません?」
「は?」
 思わず変な声を出してしまった。なんで見ず知らずの自転車野郎と一緒に走らないといけないんだ。彼はヘルメットとサングラスを外して俺の横に座った。生意気そうな言い方をする割には、まるで高校生くらいに見える横顔。いや、高校生なのかもしれない。まじまじと顔を見ていたら、ミネラルウォーターを口にして彼がこっちを向いた。
「僕、村上って言うんだ。良かったらお兄さん名前教えて?」
「幹、です」
 どう考えても向こうが歳下なのに、何故か敬語を使ってしまう。たぶん彼が自信満々な口調で話すからだ。
「敬語やめようよ。こんな気持ちいい場所でさあ、それに僕の方が歳下ぽいし。僕、十九歳だけど幹っちは何歳?」
 幹っち! 出会って十分であだ名とか。自由すぎる……。十九歳にしては童顔だなと思いながら俺は彼の質問に答える。
「二十一」
「なんだ、同じくらいじゃん! 幹っち落ち着いて見えるから社会人かと思ったよ。よろしくね」
 そう言うと手を差し出してきた。ああもうめんどくさいな……と思いながら握手した。
 実はもうユーターンして帰ろうと思っていのだけど、村上に押し切られる形で進むことに。出発する前、彼はパンパンになった俺の脚を揉んでくれた。少しくすぐったかったが、そのおかげでかなり楽になったのでありがたい。背伸びをして休憩を終え、再び自転車を漕ぎはじめる。シャーっと坂道を下る音と共に風が頬を撫でていく。
 俺が先に行き、後ろに村上がついてくる。広い道であれば横に並べるが、基本的に一列になって走る。村上はレンタサイクル屋でもらったパンフレットに載っていない、穴場ばかり連れて行ってくれた。

 数時間前に初めて出会ったとは思えないくらい、話しやすいのは村上の性格からだろう。そしていつもならこんなに話ができない自分が楽しいと思いだしてきているのは、このロケーションと自転車のおかげなのだろうか。
「幹っち、そこ右折」
「また休憩かよ! さっき行ったばかりだろ」
「初心者さんはゆっくり行かなきゃ。また脚がパンパンになっちゃうよ?」
「う……」
 痛いところを突かれて、俺は仕方なく右折する。すると結構な急斜面の坂が目の前に立ちはだかる。汗だくになりながら上がり切った時、村上がそこで止まるように言う。
 顔を上げた俺の目に入ったのは、海だ。そして左右に広がる急斜面に木がずっと立ち並んでいた。テレビで見た景色。青い空、青い海。緑の木には黄色の果実。レモンだ。
「どう? いい眺めでしょ」
 村上が背後から声をかけてくる。
「僕のお気に入りの眺めなんだ」
 そういうと、ヘルメットをとり、レモンのなっている木のそばに行き、突然果実を一つもぎ取った。おい、それヤバいんじゃないのか!? 自然になってる訳ではなくて栽培しているんじゃ……
「食べてみる?」
 悪びれる様子もなく、レモンを手にする村上。
「お前、なに取ってんだよ! それ……」
 自転車にくくりつけているボディバッグからナイフを取り出してレモンを慣れた手つきで半分に切る。
「ああ、レモン? 大丈夫だよ。だってここの木は僕が育ててるから」
「……え」
「僕この島の住人なの。実家が農家で手伝ってるんだ」
 ほら、とスライスされたレモンを一切れ手渡された。レモン単体で食えってこと? 居酒屋でたまーに口にしてあまりの酸っぱさにジタバタするのに。だけど目の前の村上は一切れ口にすると旨そうに笑顔を見せた。その笑顔が可愛く見えて一瞬ドキッとする。――いや、ドキッて。
 ヘルメットを取り、恐る恐るレモンを口に入れると酸味が疲れた身体にキュゥと沁みる。だけど思ったより酸っぱさがキツくなくて、普通のレモンより甘い気がする。俺が驚いていると、村上は満足そうにまた笑う。
「甘さがあるでしょ? それがここのレモンの特徴だよ。国産レモンは秋から冬が収穫時期なんだ」
「これならそのまま食えるな。それにしてもまさかお前が作ってるなんて思わなかった」
「僕、童顔だけど力はあるからね。幹っち、僕より身長はあるのに華奢だよね。僕の方が腕太いんじゃない?」
 ほらほら、と村上は腕を差し出してきた。恐る恐る触ってみるとなるほど、顔に似合わず筋肉質な腕をしている。
「レモン鍋ってのもあるんだよ。食べたことある?」
 俺が首を振ると、村上は嬉しそうに笑う。
「一度食べてみて! 美味しいから!」
 その笑顔が眩しく見え、胸の鼓動が早まる。この感覚には覚えがあった。レモンのように酸っぱくて――いやいや、出会ってばかりのやつにそんなわけない!
 
 背伸びをしながらヘルメットを被り、そろそろ行くかとサドルに跨る。すると俺の方を見ながら村上が聞いてきた。
「そう言えばどこに宿、とったの?」
「えっ」
「……まさかと思うけど、幹っち日帰りのつもりだった?」
 俺が頷くと、村上はふうとため息をついた。レンタサイクル店の店員と同じように、日帰りはキツイよと諭される。そんなこと言われたって宿なんて予約してないし、と俺はふてくされた。
「仕方ないなあ。ウチに泊まる?」
「えっ! 今日出会ったばかりでそんな……」
「まあまあ。一人暮らしだし。おいでよ」
 村上の家は田舎によくある一軒家だった。夕飯はコンビニ弁当。村上いわく、島の住人だからって自炊が得意な訳ではないらしい。確かにコンビニ弁当とこの一軒家が似合わない。俺が笑ってると、ますます頬を膨らませていた。
「俺の方が料理出来るかもしれないな。食堂でバイトしてるから」
 弁当を食べながら俺がそう言うと村上は目を丸くしていた。
「えっ、意外!」
「どういう意味だよ」
 夕飯を食べ、風呂に入り寝るまでの間お互いの話をした。村上は大学一年生。島から大学に通っているようで、休みの日はレモン栽培の手伝いをしているらしい。俺の住む県は隣だけど百キロくらいの距離がある。島に住む彼と都会に住む俺の共通点は『付き合っている人がいない』ということだった。どっちが早く恋人ができるか競争しようなどと高校生みたいなことを言いながら、お互いの連絡先を交換する。こんな出会いもあるんだなと思いつつ。――昼に村上に感じた酸っぱさは、レモンのせいだったということにして俺は用意された和室で眠りについた。

 翌朝起きると、身体中が筋肉痛で今日自転車漕げるか? ってレベル。這うようにして布団から出ると、襖の向こうから、村上の元気な声が聞こえた。
「幹っち、ちゃんと起きてる?」
 三歳違うとこんなにも体力に差があるのか……。よろよろとする体を押さえ襖を開けようとしたら、廊下からスパーンと勢いよく開けられて、俺の情けない格好を見た村上はプッと笑う。
「……なんだよ」
 腰を持ったまま俺は村上を睨む。
「幹っち、車に自転車積んでレンタサイクル屋さんまで送るよ。そんな状態だったら家に帰れなくなっちゃう」
 車で送ると言われて正直ホッとした。俺は借りていた寝巻きから着替えをしながら村上に聞く。
「助かる」
「全く世話が焼けるなあ。今度来るときは体力つけて来てよね」
  ――今度、そっか。また来てもいいんだ。村上のさりげない一言が嬉しくて、俺は口元を緩めた。

 てっきり乗せてくれる車は軽トラか、軽自動車だと思ってたのに。俺の前に来た車はまさかの真っ赤なスポーツカー。
「これ、自転車積める?」
「大丈夫、大丈夫」
 ツーシーターの車に無理矢理詰め込んで、出発する。昨日あんなに頑張って走った道。キラキラした海も――
「あっという間だなぁ」
 窓を少し開けて、外を眺めながら呟くと村上はそうだねと答えた。
「で、人生初の長距離サイクリングはいかがでしたか?」
 村上が運転しながら聞いてきた。きっと昨日、あの道端で、こいつに会わなければあのまま帰っていただろう。それまで見た景色も忘れて、疲れただけだったな、と行ったことを後悔してたかもしれない。
 あのとき、村上が話しかけてくれたからこの島を堪能できた。坂道の上の景色も、レモンの味も。そして何より、村上の笑顔も。
「あちこち連れてってくれたから楽しめたよ。ありがとうな」
 運転している村上の横顔が少し照れていたように見え、胸がキュッとした。――俺のこの惚れっぽい性格、どうにかしないとな……