黒羽のゼノ


 
 ​黄金の光が、網膜を焼き切らんばかりに爆ぜた。
 かつては『聖なる光』と崇めたであろうその輝きは、今のヴィクトリカにとっては、ただ二人を引き裂き、すべてを奪い去る死の劫火でしかなかった。

 ​「……っ、ああぁぁ!」

 ​ゼノが苦悶の声を上げる。影の障壁がウリエルの放つ神威に圧し潰され、その余波が彼の体を容赦なく打ちのめしていた。
 執事服はボロ布のように裂け、その下にある白い肌には、無数の斬撃のような光の傷が刻まれていく。だが、彼は一歩も退かなかった。ヴィクトリカを守る盾として、その場に縫い付けられたかのように立ち続けている。

 ​「無意味な抵抗だ、ゼノ。貴公の力は既に底を突いている。……神が与えし『痛み』を愛でるという倒錯も、死をもって終わらせてやろう」

 ​ウリエルが虚空を掴むと、そこから一本の巨大な光の槍が現れた。
 それは『神の審判』そのもの。一突きで魂の根源さえも消滅させる、天使の最終兵器だ。

 ​「ゼノ、もうやめて! 私を渡せば、あなたは助かるんでしょう!? 戻りなさいよ、あんな綺麗な空の上に!」

 ​ヴィクトリカが叫び、ゼノの背中にしがみついた。
 彼女の手は、ゼノの背中から溢れ出す黒い血で汚れ、首筋の刻印は今や彼女自身の意識を失わせるほどの熱量を放っている。

 ​「……あはは。戻る? 僕が?」

 ​ゼノが、血まみれの口元を吊り上げた。
 彼はヴィクトリカを背後へ突き飛ばすと、よろめきながらもウリエルの方へ一歩踏み出した。

 ​「勘違いしないでよね、ヴィクトリカ。僕は、君を助けてるんじゃない……君を美味しく食べるその瞬間まで、他の誰にも『横取り』されたくないだけなんだよ」

 ​その声は、かつてないほど冷たく、けれど狂おしいほどに情熱的だった。
 ゼノは、自らの背中に残る千切れた翼の跡に手をかけた。

 ​「ウリエル。君たちはいつもそうだ。上から目線で、魂の価値を勝手に決める……僕がこの子を選んだのはね、この子が世界で一番汚くて、一番美しい絶望を持ってたからだよ。天界の洗濯物みたいに真っ白なだけの連中には、一生理解できないだろうけどさ!」
 ​「……不浄。これ以上の対話は不要だな」

 ​ウリエルの槍が放たれた。
 光の速度で迫る一撃。死を覚悟したヴィクトリカの目の前で、ゼノは信じられない行動に出た。
 ​彼は避けるどころか、自らの体に突き刺さったままの黄金の矢を素手で掴み、それを自らの背中の傷跡へと深く突き立てたのだ。

 ​「――が、ああああああああっ!!」

 ​この世のものとは思えない絶叫が、崩壊した教会に響き渡った。
 自らの魂の傷口を、神の光で抉るという狂行。
 しかし、その激痛と引き換えに、ゼノの耳にあるピアスが、今までにない禍々しい黒い光を放ち始めた。

 ​「……痛みは、僕の糧だ……呪いは、僕の魔力だ……もっと、もっと壊してよ。君たちの天界の(ルール)が、僕の痛みに耐えきれなくなるまでさ!」

 ​ゼノの周囲の空気が、ドロリとした闇に変質する。
 光の槍がその闇に接触した瞬間、衝突の衝撃で教会の土台が粉々に砕け散った。

 ​「な……馬鹿な、神罰の槍を受け止めたというのか!?」

 ​初めてウリエルの無機質な顔に驚愕の色が走った。
 闇の中に立つゼノは、もはや少年の姿を保っていなかった。背中からは焼け焦げた黒い翼が無理やり再生され、耳のピアスは一つ、また一つと、内側からの魔力に耐えかねて弾け飛んでいく。
 ​ピアスが弾けるたび、ゼノの口から血が噴き出す。
 それは、彼を繋ぎ止めていた『理性の鎖』が千切れる音だった。

 ​「ゼノ、ダメ! それ以上やったら、あなたがあなたじゃなくなっちゃう!」

 ​ヴィクトリカは叫びながら、這いずって彼に歩み寄ろうとした。
 だが、解放された闇の魔圧が彼女を寄せ付けない。
 ​ゼノは、ゆっくりと振り返った。
 その瞳は、もはや銀色ではなく、すべてを飲み込む漆黒に染まっている。
 けれど、その口元に浮かんだ笑みだけは、狂おしいほど幸せそうで、残酷なほど無垢な笑顔のままだった。

 ​「……ねぇ、ヴィクトリカ。見てて。僕が、君を追い詰める神様を……全部、食べてあげるから」

 ​彼はそう言うと、残された最後の数個のピアスを、自らの指で引きちぎった。
 溢れ出した黒い霧が、黄金の光を飲み込み、夜の帳を強制的に引き戻していく。

 ​「貴様……正気を捨てたか、堕天使!」

 ​ウリエルの叫びも虚しく、ゼノの影が天に向かって巨大な(あぎと)を開いた。
 それは復讐者の執事でも、慈悲の天使でもない。
 主人の憎しみを糧に成長し、主人の未来を守るために己を捨てた、一頭の「怪物」の誕生だった。

 ​「あはは! 天界? そんな退屈な場所より、僕は彼女の隣で地獄を見る方がずっと楽しいんだ。……おいでよ、ウリエル。君の綺麗な翼、僕が全部毟ってあげる!」

 ​暗闇が爆発し、光の王座を引き摺り下ろす。
 ヴィクトリカは、その闇の中心で笑う少年の名を、ただ叫び続けるしかなかった。
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