黒羽のゼノ


 
 ​平穏は、あまりにも唐突に、そして暴力的な「光」と共に破られた。
 ​帝都郊外、二人が身を隠していた廃教会の静寂を切り裂いたのは、落雷のような轟音ではない。それは、耳の奥を直接かき毟るような、高純度の音色だった。

 ​「……っ、この嫌な気配……!」

 ​図書室で古文書を読んでいたヴィクトリカが、椅子を蹴って立ち上がる。
 首筋の刻印が、かつてないほど激しく脈動し、肌が焼け落ちるような熱を発していた。それは警告だ。自分たちの存在を根底から否定する何かが近づいているという、魂の叫びだった。

 ​「お嬢様、僕の背後に!」

 ​執事服のまま、ゼノが影の中から滑り出すようにして彼女を庇った。
 彼の顔からは、いつもの余裕ある笑みが完全に消え去っている。耳にある無数のピアスは、今や真っ赤に発熱し、彼の皮膚を焦がしながら不気味な旋律を奏でていた。
 ​直後、廃教会の屋根が、巨大な光の柱によって跡形もなく消し飛ばされた。
 ​降り注ぐのは、夜を昼に変えるほどの黄金の光。
 その中心に、彼はいた。
 ​純白の法衣を(まと)い、背中には雪のように白い六枚の翼を広げた異形。
 その顔には、人間のような感情の起伏はない。ただ、すべてを計量し、不必要なものを排除するためだけの、冷徹な理知だけが宿っている。

 ​「――見つけたぞ、ゼノ。あるいは、汚らわしき『落とし子』と呼ぶべきか」

 ​その声が響いた瞬間、周囲の酸素が凍りついたかのような圧迫感が二人を襲った。

 ​「久しぶりだね……ウリエル。わざわざ雲の上から、僕を笑いに来たのかい?」

 ​ゼノがヴィクトリカを背中に隠したまま、低い声で応じる。
 彼の足元からは、ドロリとした重油のような影が広がり、黄金の光を必死に押し返そうとしていた。

 ​「笑う? 滅相もない。我ら天軍にそのような無駄な機能はない。私はただ、放置されていた『紛失物』を回収しに来たに過ぎない」
 ​「紛失物……?」

 ​ヴィクトリカが、ゼノの肩越しにその天使を睨みつける。
 ウリエルと呼ばれた天使の視線が、ゆっくりと、けれど確実にヴィクトリカの胸元――その心臓の奥へと向けられた。

 ​「左様。その娘の心臓に宿る、神の欠片(ピース)……我らが『聖遺物』と呼ぶ奇跡の種が、あろうことか堕天使の残滓と共鳴している。これは天界における重大な汚染だ」

 ​ヴィクトリカは息を呑んだ。
 自分の心臓に、そんなものが宿っていたなんて。両親が殺されたあの日、絶望の中で命を繋ぎ止めたのは、自身の意志だけではなく、その『聖遺物』の力だったというのか。

 ​「彼女はただの人間だ。聖遺物なんて関係ない。……さっさと帰れよ、鳥野郎」

 ​ゼノがため口で吐き捨てる。
 その瞬間、ウリエルの周囲に浮かぶ黄金の剣が、一斉にゼノを指した。

 ​「言葉を慎め、罪人。貴公がその娘を使い、復讐という私怨のために聖遺物の力を汚し続けているのは明白だ。そのピアスが物語っている……貴公はもはや、痛みを感じることでしか自らの存在を証明できぬ、壊れた玩具に過ぎない」

 ​ウリエルが細い指をヴィクトリカへ向ける。

 ​「その娘を殺し、聖遺物を浄化して回収する。それが主の御心だ。ゼノ、貴公がその女を差し出すならば、今一度、天界の牢獄で贖罪の機会を与えてやろう」
 ​「……あはは、傑作だね」

 ​ゼノが、肩を震わせて笑い始めた。
 それは先日の戦闘で見せた狂気の笑いではない。腹の底から、目の前の神聖さを嘲笑(あざわら)うような、深い侮蔑(ぶじょく)の笑いだ。

 ​「牢獄で贖罪(しょくざい)? 綺麗なだけの世界で、また心を殺して生きろって? ……断るよ。僕はね、ウリエル。この子が憎しみに燃えて、僕の耳を激痛で壊してくれるこの瞬間が、何よりも愛おしいんだ」

 ​ゼノが右手を振り上げると、影が巨大な鎌の形を成した。

 ​「彼女は僕の主人で、僕の獲物だ……指一本、触れさせないよ」
 ​「……(なげ)かわしい。では、等しく滅ぶがいい」

 ​ウリエルの合図と共に、天から無数の光の矢が降り注いだ。
 教会全体が、光の暴力に呑み込まれていく。

 ​「ヴィクトリカ、僕から離れるな!」

 ​ゼノが背中の黒い翼の名残を無理やり広げ、影の障壁を展開する。
 光と闇が激突し、凄まじい衝撃波が館を粉砕した。
 ​ヴィクトリカは、必死にゼノの服を掴んでいた。
 目の前で戦っているのは、もはや人間同士の争いではない。世界を創り、壊す者たちの、文字通りの『神話』だった。
 ​だが、彼女の心にあるのは恐怖ではなかった。
 ゼノの背中から伝わる、震えるような鼓動。そして、ピアスの共鳴によって彼が味わっているであろう、魂を引き裂くような激痛。

 ​(このままじゃ、彼が死ぬ……!)

 ​ウリエルの圧倒的な神威の前に、ゼノの影はジリジリと削られていく。
 光の矢が一本、ゼノの肩を貫いた。

 ​「ぐっ……あぁぁぁぁっ!!」
 ​「ゼノ!!」
 ​「来るな……ッ! 立て、ヴィクトリカ! 君は、復讐者だろう!? こんなところで、神様に跪いて終わるつもりかよ!!」

 ​ゼノが吐血しながら叫ぶ。
 その瞳には、絶望など微塵もなかった。
 あるのは、神への反逆と、ただ一人の少女を守り抜くという、天使時代には決して持ち得なかった執着だけだった。
 ​黄金の光が、二人の視界を白く染め上げる。
 第四段階の崩壊が始まり、廃教会が完全に消失する中、ヴィクトリカは自らの心臓が、ゼノの叫びに応じるように熱く、激しく、光り始めるのを感じていた。