黒羽のゼノ


 廃教会の夜が明けても、ヴィクトリカの胸に沈んだ重りは消えなかった。
 ゼノが語った、慈悲の天使としての過去。そして、彼の耳で醜く震えるピアスが、天界による拷問そのものであるという事実。

 ​(あいつは、私の憎しみを喰らって生きているんじゃない。私の代わりに、罰を受けているだけなんだわ)

 ​朝露に濡れる森の空気の中、ヴィクトリカは一人、館の裏手に広がる荒れ地へ向かった。
 手には、昨夜ゼノが手入れしたばかりの細身の剣。
 ゼノはまだ、館の中で朝食の支度をしているはずだ。執事としての彼は、目覚める主人のために最高の紅茶を淹れることに心血を注いでいる。だが、今のヴィクトリカにとって、その献身こそが、彼の魂を削る刃に見えて仕方がなかった。

 ​「……っ、ふん!」

 ​ヴィクトリカは剣を振り抜いた。
 空を切る音はまだ弱く、鋭さに欠ける。彼女が狙うのは、帝都の権力者たちだ。彼らは強固な私兵を抱え、魔法の守りさえ持っている。ゼノの影の力に頼り切れば、彼の耳のピアスは再び熱を持ち、彼を死の淵へと追いやるだろう。

 ​「あんな風に笑いながら、血を流させるのは……もう、嫌なのよ」

 ​剣を振り下ろすたびに、あの夜のゼノの表情が蘇る。
 男爵を殺した時、彼は「痛みを分かち合っている」と言った。けれど、それは分かち合いなどではない。ただの身代わりだ。

 ​「おや、朝の散歩にしては、少々物騒な獲物をお持ちですね」

 ​不意に、背後から声がした。
 振り返ると、そこには完璧に整えられた執事服に身を包んだゼノが立っていた。手には銀の盆があり、その上には温かいミルクの入ったグラスが載っている。

 ​「ゼノ……起きていたのね」
 ​「主人が冷たい寝所を抜け出せば、気づくのが従者の務めですから……それにしても、ヴィクトリカ。君、その構えじゃ相手の喉元に届く前に、自分の腕を折っちゃうよ?」

 ​ゼノが盆を近くの切り株に置き、からかうような笑みを浮かべた。
 今の彼は、昨夜の『孤独な少年』の顔をうまく隠している。だが、ヴィクトリカはもう騙されなかった。

 ​「……教えて、ゼノ。私にも、あなたの『影』のような力が使えるようになる?」

 ​ヴィクトリカの問いに、ゼノは意外そうに眉を上げた。

 ​「影? あれは堕天使の……つまり、呪われた僕の魔力だよ。人間である君が触れれば、精神が焼き切れてしまう。剣術ならともかく、魔道は勧められないな」
 ​「それでもよ。あなたが力を使うたびに、あのピアスがあなたを壊すんでしょ? なら、私にできることは全部やる……私は、あなたを便利な道具だなんて思いたくない」

 ​ヴィクトリカの瞳には、かつての復讐心とは異なる、強い「意志の光」が宿っていた。
 それは、絶望から立ち上がった者が持つ特有の輝き。
 ​ゼノはしばらく無言で彼女を見つめていたが、やがて、深く、重い溜息を吐いた。

 ​「……はぁ。本当に、君って子は。僕がせっかく『代わりに痛がってあげる』って言ってるのに、どうしてそう、面倒な道を選びたがるかな」

 ​彼は歩み寄り、ヴィクトリカの手から無造作に剣を取り上げた。
 そして、その剣先を地面に向け、自らの影をゆっくりと広げた。

 ​「いいかい、ヴィクトリカ。これは執事としての忠告じゃなく、君と地獄へ堕ちる相棒としてのアドバイスだ……影っていうのはね、闇を操るんじゃない。自分の中にある『欠落』を形にするんだ」

 ​ゼノの声から、再び敬語が消えた。
 彼の足元から伸びた影が、触手のように蠢き、ヴィクトリカの足を優しく、けれど逃れられない強さで絡め取る。

 ​「影を操りたければ、君の憎しみをただ燃やすだけじゃダメだ。その憎しみを冷やして、硬めて、自分の一部として飼い慣らせ……ほら、やってみて。僕の影を、君の意志で押し返してみなよ」

 ​ヴィクトリカは集中した。
 首筋の刻印が熱くなるのを待つのではない。心臓の奥にある、あの夜の『冷たい静寂』を思い出す。
 両親の亡骸の前で感じた、あの底なしの虚無。

 ​「……っ!」

 ​ヴィクトリカが足元に力を込めると、彼女自身の影が微かに波打った。
 それはほんの一瞬、小さなさざ波のようなものだったが、ゼノの影を押し留める確かな抵抗を見せた。

 ​「……あは、やるね。やっぱり君は面白いや」

 ​ゼノがパッと影を収める。
 ヴィクトリカは膝を突き、激しい呼吸を繰り返した。たったそれだけのことで、全身の体力を奪われたような疲労感が襲う。

 ​「でも、今のままじゃ自滅だよ。いい? ヴィクトリカ。影を使うってことは、自分の魂の一部を削り取って武器にするってことだ。使いすぎれば、君自身が空っぽになっちゃう」

 ​ゼノは彼女の前にしゃがみ込み、その乱れた前髪を優しく整えた。

 ​「僕が代わりに痛がるのは、君に空っぽになって欲しくないからなんだよ。君が綺麗なままで、憎しみだけを僕にぶつけてくれれば、僕はそれで満足なのに」
 ​「綺麗なんて、もう関係ないわ……私は、あなたを失うのが怖いの」

 ​ヴィクトリカの口から漏れた本音に、ゼノの指が止まった。
 彼の耳のピアスが、微かにチリ、と鳴った。

 ​「……失う? 僕は死なないよ。君が僕を食べるその日まで、僕は君の影の中にずっといる。それが契約だ」
 ​「契約だからじゃない! 私が、あなたと一緒にいたいのよ!」

 ​ヴィクトリカはゼノのシャツの胸ぐらを掴み、彼を引き寄せた。
 驚きに目を見開くゼノ。
 至近距離で見つめ合う二人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。

 ​「ゼノ、私の魂を食べるまで死なないで……いいえ、その後もよ。私が死ぬとき、あなたも一緒に連れて行くわ。だから、勝手に一人で壊れるなんて許さない……これは、主人としての命令よ」

 ​ヴィクトリカの断固とした言葉。
 それは、愛というにはあまりにも重く、呪いというにはあまりにも温かい誓いだった。
 ​ゼノは呆然とした後、やがて噴き出すように笑った。
 それは、偽りの執事の微笑でも、狂ったような処刑人の高笑いでもない。
 ただの、等身大の少年が漏らした、心からの笑いだった。

 ​「……あはは! 本当、君には勝てないな。天使をやってた頃の僕が見たら、今の僕をなんて言うかな。人間に救われてどうするんだって、きっと馬鹿にするよ」

 ​ゼノはヴィクトリカの手を優しく解き、その手の甲に、今度は契約の証としてではなく、一人の男としての、深い敬意を込めたキスをした。

 ​「わかったよ、ヴィクトリカ。君がそこまで言うなら、僕も少しは自分を大事にするよ。……でも、影の特訓は地獄だよ? 途中で泣いてもやめてあげないからね」
 ​「望むところよ」

 ​二人は、朝露に光る荒れ地で立ち上がった。
 かつては復讐という名の、一本道しかなかった物語。
 けれど今、そこには二人の歩幅が刻まれる、新しい道が生まれ始めていた。

 ​「さあ、お嬢様。まずは冷めたミルクを飲み干してください。健康な肉体にこそ、強固な憎しみは宿るものですから」

 ​ゼノが再び執事の顔に戻り、銀の盆を持ち上げる。
 ヴィクトリカは不機嫌そうにグラスを受け取り、一気に飲み干した。

 ​「……ぬるいわよ、ゼノ」

 ​「おや、それは失礼いたしました。次はお嬢様の熱意に負けないくらい、熱いココアでも用意しましょうか?」

 ​軽口を叩き合いながら館へ戻る二人の後ろ姿を、朝陽が長く照らしていた。
 彼らの耳と首筋にある紋章は、今は静かに眠っている。
 けれど、運命の歯車は確実に、天界の監視者たちを呼び寄せる準備を進めていた。
 ​二人の絆が深まるほどに、その『異端』の輝きは、空の上からでもはっきりと見えるようになっていく。

 ​「ゼノ、あなたの影……さっき、少しだけ温かかったわ」
 ​「気のせいだよ。影に温度なんてないさ……たぶんね」

 ​ゼノは密かに、自分の耳に触れた。
 痛みは消えていない。けれど、その痛みの中に、今まで感じたことのない、淡い光が混じっているような気がして。
 彼はそれをヴィクトリカには隠したまま、彼女の半歩後ろを、誇らしげに歩き続けた。