最初の復讐を終えてから数日。帝都の追っ手を逃れるようにして、二人は海沿いの崖に佇む古い廃教会に身を寄せていた。
かつては多くの信徒が祈りを捧げたであろう聖堂は、今や天井が崩れ、剥き出しの夜空から冷ややかな月光が降り注いでいる。
ヴィクトリカは祭壇の近くで、手入れの行き届いた剣の刃を布で拭っていた。
傍らでは、ゼノが慣れた手つきで野営の準備を整えている。彼は燕尾服のジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖を捲り上げていた。
「お嬢様、今夜は少し冷えます。粗末な場所ですが、火の側を離れないでくださいね」
丁寧な口調。穏やかな微笑。
だが、その耳にある無数のピアスは、月光を反射して冷たく疼いているように見えた。
「……ねぇ、ゼノ。もういいわ」
ヴィクトリカが剣を鞘に納め、彼を真っ直ぐに見つめた。
「執事のふりは、もうやめて。ここには私と、あなたしかいない。……三年前、灰の中で出会ったあの時のように、本当のあなたで話しなさい」
ゼノを動かしていた見えない糸が、ふつりと切れた。
彼は持っていた薪を床に置くと、ふぅ、と長く、場違いなほどに子供っぽい溜息を吐いた。
「……あーあ。せっかく格好つけてたのに。ヴィクトリカは相変わらず、可愛げがないね」
声のトーンが一段下がり、丁寧な敬語が剥がれ落ちる。
彼は祭壇の階段に腰を下ろし、長い足を投げ出した。その姿は、高潔な執事ではなく、どこか厭世的な、けれどひどく孤独な少年のものだった。
「いいよ。どうせ偽物の礼儀なんて、僕も肩が凝って仕方なかったんだ」
ゼノは自分の耳に手をやり、一番大きなピアスを指先で弄んだ。その仕草に、ヴィクトリカは密かな痛みを覚える。そのピアスが、彼を苛む鎖であることを知っているからだ。
「教えて、ゼノ。あなたは以前、自分を『迷子』だと言ったわね……あなたは、本当はどこから来たの? その翼は、誰に焼かれたの?」
月明かりが、ゼノの背中に落ちる。
シャツの背中には、大きな切り傷のような、あるいは焼印のような醜い痕跡が二筋、翼の形に広がっている。
ゼノは夜空を見上げ、銀色の瞳を細めた。
「……天界。君たちが『神の庭』と呼ぶ、反吐が出るほど退屈で、光に満ちた場所さ」
彼の口から漏れたのは、故郷への郷愁ではなく、深い拒絶だった。
「僕はね、あそこで『慈悲』を司る天使の一人だったんだ。神様が決めたルールに従って、価値のある魂だけを選別して、天国へ導く……それが僕の仕事だった」
「慈悲……あなたが?」
ヴィクトリカの脳裏に、数日前、男爵を玩具のように弄び、狂ったように笑っていた彼の姿が浮かぶ。
「意外かな? でも本当だよ。僕は誰よりも人間が好きだった。だからこそ、神様のやり方が気に入らなかったんだ」
ゼノは立ち上がり、壊れたステンドグラスの破片を拾い上げた。
「神様は言う。『清らかな魂だけを救え』って。でもさ、ヴィクトリカ。本当に救いが必要なのは、泥にまみれて、誰かを恨んで、地獄に落ちるしかないほど絶望している魂だと思わない? 綺麗なだけの連中なんて、放っておいても勝手に幸せになるのに」
彼はステンドグラスを指先で弄り、わざとその鋭利な角を自分の指に押し当てた。
ぷつり、と赤い血玉が浮かぶ。
「僕は、天界が『無価値』だと切り捨てた人間の魂を、勝手に救おうとしたんだ。絶望の底にいる連中の手を取って、光の方へ引き揚げようとした……それが、あっちの連中の逆鱗に触れた。僕の翼は焼かれ、地に落とされたんだよ」
「それが……堕天の理由なのね」
「そう。でも、ただ落とされたわけじゃない。これが、その時のプレゼントさ」
ゼノが自嘲気味に自分の耳のピアスを指し示した。
「これは『監視の杭』。僕が力を使うたびに、僕の精神を内側から削り取るためのもの。そして、僕が救おうとした人間の罪を、僕自身が直接痛みとして味わい続けるための呪いだ」
ゼノはヴィクトリカに歩み寄り、彼女の首筋にある刻印を、愛おしそうに指でなぞった。
「君との契約もそう。君が憎しみを抱き、誰かを殺せば、その罪はピアスを通じて僕の神経を焼く……皮肉だよね。人を救いたくて堕ちた僕が、今は君の復讐を助けて、一緒に地獄へ落ちようとしているんだから」
「……後悔しているの?」
ヴィクトリカの問いに、ゼノは短く「まさか」と笑った。
その笑顔は、執事としての仮面を被っていた時よりも、ずっと脆くて、透き通っていた。
「後悔なんてしてないよ。だって、あの退屈な雲の上で誰かの魂を秤にかけるより、こうして君の隣で、君のドロドロした憎しみを分かち合っている方が……ずっと生きてるって感じがするんだ」
ゼノはそのまま、ヴィクトリカの肩に頭を預けた。
冷たいはずの彼の体が、この時だけは、微かに震えているように感じられた。
「ねぇ、ヴィクトリカ。最後には僕が君を食べるっていう約束……忘れてないよね?」
「……ええ。忘れてないわ」
「嘘だ。君の心臓の音が、少しだけ揺れたよ……本当は、僕を憐れんでるんでしょ?」
ゼノは彼女の耳元で、少年らしい意地悪な声で囁いた。
「いいかい。憐れみなんて、僕には一番毒になる。君はただ、僕を便利に使って、僕を痛めつけて、最高の絶望を僕に味合わせてくれればいいんだ。それが、僕に翼を失わせた世界への、唯一の仕返しなんだから」
ヴィクトリカは、何も答えなかった。
ただ、彼の背中にある焼けた跡を、そっと服の上から撫でた。
天使だった彼をここまで変えてしまったのは、神の冷酷さか、それとも人間の愚かさか。
(ゼノ……私はあなたの魂を、ただの食べ物にはさせないわ)
彼女は、密かに心に誓った。
彼がすべてを背負い、痛みに笑うというのなら、自分はそれをただ受ける側ではいたくない。彼が壊れる前に、自分が彼を守れる強さを手に入れなければ。
「……重いわよ、ゼノ。いつまで寄りかかっているの」
「えー、いいじゃん。これくらい、執事の残業代として認めてよ」
ゼノは顔を上げると、再びあの、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。
廃教会の外では、潮騒が激しく岩を打っていた。
月光の下、二人の影は長く伸びて、一つに重なっている。
それは、救済と復讐、光と闇が混ざり合った、歪な物語の休息だった。
「……明日から、また稽古をつけて。剣術だけじゃなくて、あなたが使う『影』の扱い方も、少しは教えてもらうわよ」
「はは、欲張りだね。でも、いいよ。君が強くなるほど、僕が壊れるのも早くなる……最高の結末になりそうだ」
ゼノは再び、落ちていた薪を拾い上げた。
今度は『執事』としてではなく、運命を共にする『相棒』としての、どこか晴れやかな顔で。
