帝都の夜は、繁栄の影で腐臭を放っている。
かつてド・ラ・メール家に仕え、真っ先に宰相へ寝返った男、バルトロ・モラン男爵は、今夜も行きつけの高級娼館で、横領した金と奪った爵位に酔いしれていた。
「……あ、ああ、なんて良い夜だ。あの堅物な伯爵がいなくなってから、風通しが良くていけねぇ」
肥満した体を揺らし、男爵は護衛を連れて路地裏を千鳥足で進む。彼が通り過ぎる石畳を、高い建物の屋根から見下ろす二つの影があった。
「お嬢様。ターゲットは、予定通り千鳥足の豚です。どう料理なさいますか?」
夜風に燕尾服の裾をなびかせ、ゼノがヴィクトリカの傍らに跪いた。
ヴィクトリカは、動きやすさを重視した漆黒のドレスに身を包み、腰にはゼノから贈られた細身の剣を帯びている。彼女の首筋にある『刻印』が、標的を前にしてドクドクと脈動していた。
「……彼には、私の両親が死の間際まで味わった『恐怖』と、信じていた者に背中を刺された『絶望』を、一秒でも長く味わってもらうわ」
「畏まりました」
ゼノが立ち上がり、ふわりと空中へ身を投げ出した。
重力を無視したその着地は、音もなく男爵の背後に落とされた。
「だ、誰だ!?」
護衛の男たちが剣を抜くより早く、ゼノの影が爆発するように広がった。
路地の壁、地面、そして男たちの影そのものが蛇のように鎌首をもたげ、護衛たちの手足を捕らえる。
「こんばんは。こんな汚い路地裏でダンスのお相手をお探しですか?」
ゼノが微笑む。それは三年前と同じ、無垢な残酷さを湛えた笑顔だ。
彼が指をスナップさせると、影の触手が護衛の一人の喉を無造作に締め上げた。
「ぎ、ぎぃ、が……ッ!」
「おっと、あまり大声を出さないでくださいね。主人の『復讐』という神聖な儀式に、雑音が混じっては興醒めですから」
ゼノの耳にあるピアスが、不気味に共鳴し始める。
チリ、チリと金属が擦れ合う音が響くたび、捕らえられた男たちの影が実体化し、彼らの肉体を締め上げ、骨を軋ませていく。
「さて。バルトロ・モラン男爵。あなたの『罪』のリストは、僕が既に読み上げておきましたよ。……どうぞ、あちらからお出ましです」
暗闇の向こうから、一歩ずつ、静かな足音が近づいてくる。
街灯の光の下に現れたのは、死んだはずの伯爵の令嬢――ヴィクトリカ・ド・ラ・メールだった。
「……う、嘘だ。お前は、あの夜に焼け死んだはずだ……!」
「残念だったわね、バルトロ。私は地獄に席がなくて、追い返されてしまったのよ」
ヴィクトリカの瞳には、冷徹な殺意が宿っていた。
彼女は腰の剣を抜き、震える男爵の喉元に突きつけた。
「待て、待ってくれ! 私は仕方がなかったんだ! 宰相閣下に命じられて、逆らえば家族が……!」
「あなたの家族を想う心が、私の家族を殺したのね。その美しい『慈愛』に、今から私が引導を渡してあげる」
ヴィクトリカが剣を振り上げた瞬間、ゼノの体が大きく揺れた。
彼の耳のピアスの孔から、ドロリとした鮮血が溢れ出し、白いシャツの襟を汚す。
「……あ、は、はっ! 素晴らしいですよ、ヴィクトリカ様! もっと、もっと僕を苛んでください! あなたの憎しみが、僕の魂を燃やしている……!」
ゼノは壁に手をつき、血を流しながらも歓喜に打ち震えていた。
彼にとって、契約者の殺意は極上の麻薬であり、ピアスを通じて流れ込む『罪の痛み』は、かつて天使だった彼が捨てたはずの「生の実感」そのものだった。
「ゼノ、しっかりなさい!」
ヴィクトリカが叫ぶが、彼女の手もまた、憎しみの高揚感で震えていた。
男爵は必死に這いつくばり、逃げようとする。だが、その足首をゼノの影がむんずと掴んだ。
「あはは! 人間の絶望する顔って、どうしてこんなに綺麗なんだろう! ねえ、見てくださいよ、ヴィクトリカ様! この豚の脂ぎった顔が、恐怖で真っ白に染まる様を! まるで、枯れかけた花が最後に咲き誇る瞬間みたいだ!」
ゼノが狂ったように笑い転げる。
彼は痛みに悶えながらも、同時に男爵を玩具のように弄ぶことを止めなかった。影の針が、男爵の指先を一本ずつ、丁寧に、ゆっくりと貫いていく。
「ぎゃあああああああ!!」
「いい声だ! その悲鳴、もっと聞かせてよ! 僕が感じているこのピアスの痛みなんて、君が味わうべき絶望に比べれば、微々たるものなんだからさ!」
ゼノの笑い声は、もはや少年の無邪気さを超え、奈落の底から響く悪魔の咆哮のようだった。
ヴィクトリカは、その光景に一瞬だけ恐怖を感じた。
(この男は……ゼノは、本当に楽しんでいるの? それとも、こうして笑うことで、私の罪を肩代わりして狂いそうな自分を繋ぎ止めているの?)
男爵の意識が混濁し始めた頃、ヴィクトリカは剣を握り直した。
「……もういいわ、ゼノ。止めを刺す」
「ええ、それが一番の慈悲でしょうね」
ゼノが影を解くと、男爵はボロ布のように地面に転がった。
ヴィクトリカは一歩踏み出し、両親を裏切った男の心臓に、真っ直ぐに剣を突き立てた。
肉を貫く感触。
男爵の瞳から光が消え、静寂が路地裏を支配した。
その瞬間、ヴィクトリカの首筋の刻印が、火傷をしたように激しく熱を持った。
それと連動するように、ゼノがその場に膝をつき、激しく吐血した。
「……ゼノ!?」
ヴィクトリカは剣を放り出し、崩れ落ちる彼の体を抱きとめた。
ゼノの耳にあるピアスは、今や熱を帯びた鉄のように赤熱し、彼の肌を焼いている。
「はぁ、はぁ……、大丈夫、ですよ…………ふふ、初陣にしては、満点……以上の出来です……」
ゼノはピアスの激痛に顔を歪めながらも、ヴィクトリカの顔を見上げ、あの穏やかな執事の微笑みを浮かべようとした。だが、その口元から流れる血が、彼の苦痛を雄弁に物語っていた。
「どうして……どうしてこんなに苦しむの? あなたが殺したわけじゃない、私が殺したのよ!」
「それが……契約ですから……あなたが……『黒』に染まるたび、僕は……それを洗い流す、器になる……」
ゼノが震える指で、ヴィクトリカの頬に触れた。
彼の指に残った男爵の返り血が、彼女の肌に筋を引く。
「泣かないで、ヴィクトリカ……復讐者は……美しくなければ、ならない……」
彼はそう言い残すと、そのまま意識を失い、ヴィクトリカの腕の中でぐったりと重くなった。
雨も降っていないのに、ヴィクトリカの視界は滲んでいた。
路地裏に転がる死体。血まみれの執事。そして、復讐を一つ果たしたはずなのに、少しも満たされない自分の心。
「……ゼノ。私、まだ止まれないわ」
ヴィクトリカは彼を抱きしめ、夜の闇を見据えた。
これから始まるのは、一人の男を殺して終わる物語ではない。
自分たちを地獄へ突き落としたこの帝都そのものを、そしてこの歪な「痛み」を強いる運命そのものを、焼き尽くすまでの旅なのだ。
夜明け前の帝都に、遠くで鐘の音が響く。
それは、新たな亡霊たちの誕生を祝福するような、不吉な調べだった。
