黒羽のゼノ


 ​灰の降る夜から、三年の月日が流れた。
 ​かつて燃え落ちた伯爵邸の惨劇を知る者は、今や帝都の片隅で囁かれる不吉な噂話の中にしか存在しない。かつての『ド・ラ・メール伯爵家』は、公式には火災による一家心中として処理され、その広大な領地と財産は、速やかに宰相派の貴族たちによって分割・吸収された。
 ​だが、帝都の喧騒を離れた霧深い森の奥、地図にも記されていない古い館には、死に損なった亡霊たちが息を潜めていた。

 ​「――背筋が三ミリほど曲がっていますよ、ヴィクトリカ様」

 ​鋭く、けれどどこまでも甘やかな声が、静謐な図書室に響いた。
 ​ヴィクトリカ・ド・ラ・メールは、頭上に厚い魔導書を載せたまま、指先ひとつ動かさずに冷徹な視線を前方に固定していた。かつてのあどけない少女の面影は、今や冷たい硝子細工のような、人を寄せ付けぬ美貌へと昇華されている。

 ​「……五時間よ、ゼノ。もう、首の感覚がないわ」
 「おや、たったの五時間ですか? 社交界という戦場では、淑女は十時間以上も、その華奢な首で重い王冠や宝石、そして醜悪な男たちの視線を支え続けなければならないというのに」

 ​背後で、衣擦れの音がした。
 完璧な夜色の燕尾服を纏ったゼノが、音もなく彼女の隣に並ぶ。彼は手にした銀のトレイから、湯気の立つティーカップをテーブルへと置いた。その所作の一つひとつが、王宮に仕える最高位の執事ですら顔を青くするほどに洗練され、無駄がない。

 ​「復讐者は、誰よりも美しくあるべきです。醜い感情を抱く者ほど、外装は眩いばかりの光で塗り固めなければならない。敵があなたの美しさに目を眩ませた瞬間……その時こそが、喉笛を食いちぎる絶好の機会(チャンス)ですからね」

 ​ゼノが細い指先で、ヴィクトリカの顎を軽く持ち上げる。
 彼の指は、三年前のあの夜と変わらず、死者のように冷たい。

 ​「さあ、お茶にしましょう。今日の出来は……及第点といったところでしょうか」

 ​ゼノが指を鳴らすと、ヴィクトリカの頭上の本がふわりと宙に浮き、本棚の元の位置へと吸い込まれていった。ヴィクトリカは小さく息を吐き、強張っていた体を解いた。
 ​テーブルに用意されたのは、最高級のダージリンと、宝石のように繊細なマカロン。
 かつて泥水をすすり、灰を噛んで生き延びた日々が嘘のような、優雅なティータイム。だが、この贅沢はすべて、ゼノがどこからか調達してきた『血の代価』によって成り立っていることを、ヴィクトリカは知っていた。

 ​「……ねぇ、ゼノ。マナーやダンス、歴史学に毒物学。これらすべてが、本当にあの男を殺すために必要なの?」
 「もちろんですとも」

 ​ゼノは彼女の対面に座ることなく、傍らに直立したまま、楽しそうに目を細めた。
 彼の両耳に並ぶ無数のピアスが、室内のシャンデリアの光を反射して、チリチリと不吉な輝きを放つ。

 ​「ただ殺すだけなら、僕が今夜にでも宰相の寝所に忍び込み、その心臓を庭の肥やしに変えてきてもいい。ですが、それでは復讐にはならない。そうでしょう?」
 「ええ。……あいつらが築き上げた栄光、名誉、そして最も大切にしている『権力』。それらすべてを私の手で剥ぎ取り、地を這いずらせながら、死以上の屈辱の中で絶命させなければ意味がないわ」

 ​ヴィクトリカは、ティーカップの中の琥珀色の液体を見つめた。
 そこには、三年前の燃えるような憎しみを、冷たく硬い刃へと研ぎ澄ませた女の顔が映っていた。

 ​「よろしい。その意気です、お嬢様」

 ​ゼノは満足げに微笑むと、ヴィクトリカの肩に手を置いた。
 その瞬間、ヴィクトリカの首筋にある刻印が、微かな熱を帯びる。

 ​「では、ティータイムの後は、今日のメインディッシュ……『慈悲(じひ)の捨て方』の講義を始めましょうか」

 ​ゼノが影を操ると、図書室の床から這い出した黒い霧が、ひとつの歪な形を形作った。それは、宰相の密偵としてこの館の周辺を探っていたところを、昨夜ゼノに捕らえられた男の姿だった。男は猿ぐつわを噛まされ、恐怖に目を見開いて震えている。

 ​「この男は、あなたの両親を直接手にかけたわけではありません。ただ、命令に従って情報を流していただけの、いわば末端の羽虫です。……さあ、ヴィクトリカ様。この無害そうな隣人を、あなたはどう料理しますか?」

 ​ゼノがヴィクトリカの手に、装飾の美しい短剣を握らせる。
 ヴィクトリカの手は、わずかに震えていた。まだ、彼女の魂には人間としての痛みが残っている。

 ​「……殺さなければ、ならないの?」
 「殺さなくても結構ですよ。ただし、生かしておけば彼は再びあなたの喉元を狙うでしょう。復讐という道を選ぶということは、道端に咲く花を()(にじ)る権利を捨てる代わりに、牙を持つすべての獣を(ほふ)る義務を負うということなのです」

 ​ゼノは彼女の背後から抱きしめるようにして、短剣を持つ手に自らの手を重ねた。
 彼の耳のピアスが、ヴィクトリカの迷いに共鳴するように、鈍い赤色に明滅する。

 ​「大丈夫です。痛みも、罪も、すべて僕が半分持ってあげますから。……さあ、僕にあなたの覚悟を味見させてください」

 ​ゼノの声は、毒を塗った蜜のように甘く、ヴィクトリカの理性を溶かしていく。
 ヴィクトリカはゆっくりと瞳を閉じ、再び開いたとき、その瞳から一切の迷いが消えていた。

 ​「わかったわ、ゼノ。……これが、私の選んだ地獄だもの」

 ​ヴィクトリカが短剣を突き立てる。
 男の悲鳴が図書室に響き渡り、それと同時にゼノの口から「あはは!」という、子供のように無邪気で残酷な笑い声が弾けた。
 ​彼の耳のピアスから、一筋の血が流れる。
 ヴィクトリカが罪を犯すたび、ゼノは激痛に苛まれる。しかし、彼はその痛みをこの世で最も贅沢な蜜であるかのように、頬を染めて受け入れていた。

 ​「素晴らしい……最高ですよ、ヴィクトリカ! あなたが暗闇に染まるほど、僕の鎖は心地よく食い込んでくる……!」

 ​こうして、美しき復讐者と、彼女の痛みを喰らう執事の、歪な日常は続いていく。
 すべては、帝都を真っ赤な復讐の色で染め上げる、その日のために。