「契約成立だ(チェックメイト)……ああ、嬉しいな。これから君がどんな地獄を見せてくれるのか、楽しみで仕方ないよ」
ゼノの声が、雷鳴の轟きに混じってヴィクトリカの鼓膜を震わせた。
彼は彼女の細い手を握ったまま、引き寄せるようにしてその距離をゼロにする。燃え盛る屋敷の熱気の中で、ゼノの体温だけが異常なほどに低く、死者のような冷気が彼女の肌を刺した。
「じゃあ、仕上げをしようか。忘れないように、君が僕のものであるという『印』を付けてあげる」
ゼノが自由な方の手を持ち上げた。
白く細い指先が、ヴィクトリカの震える喉元から、うなじにかけてゆっくりと這い上がる。それは愛撫というにはあまりにも無機質で、毛虫が肌を這うような忌まわしさと、抗いようのない神聖さが同居していた。
「……っ!」
ヴィクトリカの喉が鳴った。
彼の指先が触れた場所から、氷を押し当てられたような感覚が広がり、直後に、焼けた鉄を押し付けられたような激痛が走った。
「あ、あああ……っ!!」
悲鳴が漏れる。ヴィクトリカはたまらずゼノの肩を掴み、その胸に顔を埋めた。
彼女の白い首筋、その柔らかな皮膚が、まるで見えない針で刺し貫かれているかのように、じりじりと黒く変色していく。肉の焼ける嫌な臭いと、皮膚の下で何かが蠢くような感覚。
刻まれていくのは、一対の『黒いピアス』の形をした、呪いの紋章。
だが、異変はヴィクトリカだけに起きたのではなかった。
「……ぁ、はっ、……あ、はは! いいね、これだよ……!」
ゼノの口から、苦悶とも歓喜ともつかない、歪な吐息が漏れた。
同時に、彼の両耳に並んだ無数のピアスが、生き物のように震え、鮮血のような赤光を放ち始めた。
キィィィィィィン――。
鼓膜を突き破らんばかりの高周波が周囲を支配する。
ピアスの接合部からゼノの血が溢れ出し、彼の白い頬を伝い落ちる。ヴィクトリカに刻印を刻むという行為は、ゼノ自身にとっても、己の魂を削り取るような『痛み』を伴う儀式だったのだ。
「ゼ、ノ……? あなた、血が……」
ヴィクトリカが痛みに耐えながら顔を上げると、そこには目を剥き、恍惚とした表情で血を流す少年の顔があった。
彼は自らの耳から流れる血を指で拭うと、それを自分の唇に塗り、さらにヴィクトリカの首筋に刻まれたばかりの『印』へと塗りつけた。
「痛いだろう? ヴィクトリカ。でも、この痛みこそが僕と君を繋ぐ鎖だ。君が誰かを恨み、その憎しみが深まれば深まるほど、この印は熱を持ち、僕のピアスを……僕の体を苛む」
彼はヴィクトリカの首筋に顔を寄せ、熱のこもった声で囁き続ける。
「だから、お願いだよ。僕をもっと、痛めつけて。君の憎悪で、僕をめちゃくちゃに壊してほしいんだ……そうすれば、僕は君から離れることなんて、絶対にできないから」
その言葉は、救いようのないほどに狂っていた。
通常、契約とは主が従を支配するものだ。しかし、彼らの契約は、ヴィクトリカの『悪意』そのものがゼノという怪物を縛り付ける枷になるという、共依存の地獄だった。
「ひ、ひぃっ……化け物だ! 本物の悪魔だ!」
今まで腰を抜かしていた暗殺者の一人が、ついに理性を失って逃げ出そうとした。
泥を跳ね飛ばし、燃え盛る庭園へと背を向ける男。
ゼノはヴィクトリカを抱きしめたまま、その視線だけを男へと向けた。
彼の瞳にある赤い光が、一瞬だけ鋭さを増す。
「逃がさないよ。君たちは、今日この日から『僕の主』の敵になったんだから」
ゼノがパチンと指を鳴らす。
すると、ヴィクトリカの首筋の刻印がカッと熱を帯びた。
それに応じるように、周囲の影が意志を持って立ち上がり、逃げる男の足首を掴み取った。
「あがっ!? ぎゃああああああ!」
男は引きずり戻され、地面に叩きつけられる。影は蛇のように男の体に巻き付き、その骨を一本ずつ、ゆっくりと時間をかけて砕いていく。
雨音に混じって響く、骨の折れる鈍い音。
ヴィクトリカは、その光景を冷徹な目で見つめていた。
数分前までの彼女なら、あまりの残酷さに目を背けていただろう。だが今の彼女は、首筋に刻まれた『呪い』のせいか、あるいは魂の半分をゼノに預けたせいか、その叫び声を心地よい音楽のように感じている自分に気づいていた。
「……終わり? これで、全部?」
ヴィクトリカが静かに問いかける。
ゼノは彼女の首筋から顔を離し、満足そうに微笑んだ。彼の耳のピアスは、今や鈍い赤色の残光を放ちながら、静かに鎮まっている。
「いいえ。これはまだ、前菜の前のアミューズに過ぎないよ、ヴィクトリカ」
ゼノは優雅に一礼し、彼女の前に跪いた。
炎に包まれた伯爵邸は、もはや崩壊を待つだけの骸と化している。しかし、その廃墟の中で、一人の少女と一人の堕天使だけが、異質な輝きを放って立っていた。
「さあ、行こうか。地獄の果てまで、君をお供するよ……僕の、愛しい小さな復讐者」
ゼノが差し出した手。
ヴィクトリカは今度こそ、迷うことなくその手を握りしめた。
首筋の刻印は、もう熱くない。ただ、冷たい雨の中で、そこだけが彼女の生を証明するように、確かな存在感を主張していた。
降り積もる灰。
燃え上がる記憶。
二人の影は、燃える屋敷を背に、闇の向こうへと消えていった。
それが、血の色から始まる『救済』の第一歩であることを、まだ誰も知らない。
