少年の指先は、凍りつくように冷たかった。
顎を持ち上げられ、強制的に視線を合わせられたヴィクトリカは、その瞳の奥に広がる深淵を見た。少年の瞳は、燃える炎の色を反射しながらも、その芯には光を一切通さない絶対的な夜が潜んでいる。
「……絶望に、呼ばれた?」
ヴィクトリカの声は、自分のものではないように掠れていた。
背後では、生き残った暗殺者たちが怯えながらも、包囲を狭めようとしている。だが、少年は彼らの存在などこの世に存在しない石ころか何かのように無視し、ヴィクトリカの絶望だけを慈しむように見つめている。
「そうだよ。君の魂から溢れ出した黒い雫が、僕の喉を酷く乾かしたんだ。これほど純粋な憎しみと悲しみの混濁は、滅多にお目にかかれない」
少年は、歌うような調子で言葉を紡ぐ。その耳で揺れる無数のピアスが、チリ、と小さな金属音を立てた。その音はヴィクトリカの脳を直接揺さぶり、周囲の怒号や火の粉の音を遠ざけていく。
「ねぇ、死ぬ前に僕と遊ばない?」
突飛な提案だった。
両親が殺され、家を焼かれ、自らの命も風前の灯火であるこの状況で、「遊ぼう」と彼は言ったのだ。その無垢な笑顔は、あまりにも状況と乖離していて、ヴィクトリカの心にひび割れた笑いのような衝撃を与えた。
「遊ぶ……? 私は、もうすぐ殺されるわ。あなたも、あいつらに……」
「あはは! あんな木偶の坊たちが、僕を? 面白い冗談だね」
少年は愉快そうに肩を揺らした。
その時、暗殺者の一人が恐怖に耐えかねて叫び声を上げ、剣を振り下ろした。
「化け物め、死ねぇ!」
鋭い金属音が響くはずだった。
しかし、ヴィクトリカが目撃したのは、物理法則を無視した異様な光景だった。
少年の背中から、意志を持つ影が黒い触手のように伸び、男の腕を空中で固定したのだ。男は空中で静止したまま、目を見開いて硬直している。
「静かにしてよ。今、僕は彼女と大事な話をしてるんだ」
少年が指先を小さく弾くと、男の体はそのまま見えない力で吹き飛ばされ、激しく燃える大黒柱に激突して動かなくなった。他の男たちはその圧倒的な力の差に絶望し、腰を抜かして後退りする。
少年は再びヴィクトリカに向き直った。その仕草はどこまでも優雅で、まるで舞踏会のパートナーを誘う紳士のようだった。
「さて、邪魔が入らなくなったところで、続きを話そうか。ヴィクトリカ。君は、このまま無力な小鳥として、両親の後を追ってゴミのように死にたい? それとも――」
彼はヴィクトリカの耳元に顔を寄せ、密やかな熱を帯びた声で囁いた。
「君をこんな目に遭わせた世界を、その手でズタズタに引き裂いてやりたい?」
その言葉は、ヴィクトリカの心の奥底、凍りついていた憎悪の塊に火をつけた。
そうだ。死にたくないのではない。殺したいのだ。
愛してくれた父を、優しかった母を、私たちの未来を、政治の駒として使い捨て、踏みにじった連中を。一人残らず地獄に引きずり下ろさなければ、死んでも死にきれない。
「私は……やり返したい。あいつらに、同じ痛みを……いえ、もっと酷い絶望を、与えてやりたい」
少女の瞳に、赤い炎が宿った。
ゼノは、待っていましたと言わんばかりに、今日一番の輝かしい笑顔を見せた。邪気のない、しかしどこか壊れた美少年の笑み。
「いい顔だ。最高だよ、ヴィクトリカ! その目が欲しかったんだ……じゃあ、契約を始めよう」
彼は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
「君の復讐を、僕が手伝ってあげる。君の剣になり、盾になり、君が望むならその手を汚す掃除人にもなろう。君がその憎しみを晴らし、頂点へ登り詰めるまでの間、僕は君の最忠実な犬でいてあげる」
「……その代わり、あなたは何を求めるの?」
ヴィクトリカは震える手を伸ばそうとして、踏みとどまった。
悪魔との契約に、無償の愛など存在しないことくらい、賢明な彼女は理解していた。
ゼノは唇に指を当て、いたずらっぽく片目を瞑った。
「報酬は、最後にもらうよ。君の復讐が終わったその時――君の、一番美味しいところを僕にちょうだい。君の魂、君の人生、君が積み上げてきたすべて。それを僕が美味しく平らげてあげる……どうかな? 悪い話じゃないだろう?」
最後には死ぬ。だが、その過程で望むものをすべて手に入れられる。
ヴィクトリカにとって、それは救済に等しい提案だった。
もう、失うものなど何一つ残っていないのだ。
「わかったわ。その契約、受けるわ」
ヴィクトリカがその細い手を、少年の冷たい手に重ねた。
その瞬間、周囲の空気が一変した。
雨は激しさを増し、雷鳴が轟く。少年の耳にある無数のピアスが、血のような赤い光を放ち始め、共鳴を始める。
「契約成立だ……ああ、嬉しいな。これから君がどんな地獄を見せてくれるのか、楽しみで仕方ないよ」
ゼノは彼女の手を引き寄せ、その手の甲に丁重にキスをした。
その時、ヴィクトリカは気づかなかった。
彼の背後に一瞬だけ見えたのは、千切れた翼の跡と、彼を縛り付ける無数の『見えない鎖』だった。
「さあ、まずはこの汚い羽虫たちをお掃除しちゃおうか。ヴィクトリカお嬢様、命令を」
ゼノが振り返り、震える暗殺者たちを『獲物』として見つめる。
ヴィクトリカは立ち上がり、ドレスの裾を握りしめた。彼女の首筋には、熱い痛みが走り始めていた。契約の証、黒いピアスの刻印が刻まれようとしていた。
