黒羽のゼノ


 ​​帝都の政変から数年が経った。
 かつて国を揺るがした『宰相暗殺事件』の真相を知る者はいない。公式の記録では、野心に燃えた宰相が、過去に陥れた貴族の遺恨によって討たれたとされている。その夜、官邸で目撃されたという『漆黒の怪物』や『白銀』の光の噂も、今では酒場の酔客が語る御伽話のひとつに過ぎなかった。
 ​帝都から遠く離れた、緑豊かな山あいの村。
 朝露に濡れた草原が銀色に輝き、遠くの山々が青く霞むその場所に、小さな石造りの家が建っている。
 ​ヴィクトリカ・ド・ラ・メール――いや、今はただの「ヴィクトリカ」は、窓辺に置かれた木製の椅子に座り、柔らかな日差しを浴びていた。
 彼女の手元には、かつての復讐の刃ではなく、刺繍の施された白いハンカチがある。

 ​「ふぅ……」

 ​彼女が針を休め、ふと窓の外へ視線を投げた。
 庭の小さな畑では、色とりどりの野菜が育ち、風が吹くたびにハーブの爽やかな香りが室内に流れ込んでくる。かつての彼女が見れば、信じられないほど退屈で、けれど痛いほどに眩しい、穏やかな日常。
 ​あの日、帝都の官邸で起きた『奇跡』。
 聖遺物の力と二人の想いが共鳴し、契約が上書きされた瞬間、この世界から『魔法』の残滓(ざんし)は消え去った。ヴィクトリカの中にあった神の欠片も、ゼノの中にあった堕天使の力も、すべては互いを守るための代償として燃え尽き、相殺されたのだ。
 ​今、彼女の首筋に黒い刻印はない。
 鏡を見るたびに、そこにあるのは滑らかな、ただの白い肌だ。

 ​「ヴィクトリカ。いつまでぼーっとしてるの? せっかくの朝食が冷めちゃうよ」

 ​キッチンから、聞き慣れた、けれど以前よりもずっと温かみのある声が響いた。
 ヴィクトリカは口角を緩め、椅子から立ち上がった。

 ​「わかっているわよ、ゼノ。今、行くわ」
 ​
 ​キッチンへ向かうと、そこにはエプロンを身につけた「彼」がいた。
 ゼノは、かつての完璧な執事のような動きではなく、少しだけ不器用そうに、けれど心を込めて朝食の準備を整えていた。
 ​燕尾服はもう着ていない。
 洗いざらしの白いシャツの袖を捲り上げ、パンを切る彼の姿は、どこにでもいる幸せな青年そのものだ。

 ​「ほら、座って。今日はリンゴが手に入ったんだ。近所の農家の奥さんに、パンのお裾分けでもらったんだよ」

 ​ゼノがリンゴを手に取り、ナイフを当てる。
 ヴィクトリカは、彼の横顔をじっと見つめた。
 彼の背中には、もう黒い翼の痕跡はない。シャツ越しに見えるその背中は、かつての痛々しさを感じさせない、ただのしなやかな人間の体躯だ。
 ​そして、彼の耳。
 かつて無数のピアスが刺さっていたその場所には、もう金属の輝きはない。
 代わりに、月の光のような淡い白さを持った小さな傷跡が、いくつも並んでいる。
 ​それが、彼がかつて天使であり、一人の少女のために神に抗ったという、唯一の(あかし)だった。

 ​「……ゼノ、もう一度見せて」
 ​「え? また? 毎日見てるじゃないか」

 ​ゼノは苦笑しながらも、リンゴを剥く手を止め、彼女の方へ顔を寄せた。
 ヴィクトリカは、震える指先で、彼の耳たぶにある小さな白い痕をなぞった。

 ​「……ねぇ、もう本当に痛くないの?」
 ​「うん。全然。……むしろ、あまりに静かすぎて、たまに耳が聞こえなくなったのかって不安になるくらいだよ」

 ​ゼノは冗談めかして笑った。
 あの残酷な無垢さはもうそこにはない。
 あるのは、朝陽を反射する湖の水面のような、深く、穏やかな慈愛の笑み。

 ​「前はね、君が少しでも暗いことを考えると、ここが焼けるように熱くなった……でも今は、君の心臓の鼓動だけが、トクトクって、世界で一番綺麗に聞こえる……不思議だよね。魔法を失ってからの方が、世界がうるさく感じるんだ」

 ​ゼノはヴィクトリカの手を優しく取り、自分の頬に寄せた。
 その手は、あの日官邸で感じたような、確かな人間の体温を持っていた。
 ​
 ​二人は、焼きたてのパンとスープ、そして剥き立てのリンゴを囲んで朝食を摂った。
 他愛もない会話。

 「明日は裏山の薪を拾いに行こう」とか、「そろそろ窓の建付けを直さなきゃいけない」とか。
 かつて帝都で命のやり取りをしていた二人とは思えない、平和の極致のような言葉たち。
 ​ヴィクトリカは、リンゴを一口かじり、その瑞々しい甘さに目を細めた。

 「……美味しいわね、ゼノ」
 ​「だろう? 僕も、リンゴがこんなに味がするなんて知らなかった。天使だった頃の僕は、たぶん味覚さえも半分眠っていたんだと思う」

 ​ゼノは自分の分のリンゴを口に運ぶと、幸せそうに頬を緩めた。

 「君と一緒に食べるからかな。何を口にしても、全部が『特別』なんだ」
 ​「……馬鹿なこと言わないで」

 ​ヴィクトリカは照れ隠しにスープを啜った。
 かつて復讐だけを糧に生きていた頃、彼女にとって食事は単なる栄養補給でしかなかった。だが今は違う。誰かと食卓を囲み、美味しいと感じること。その積み重ねが『人生』というものなのだと、彼女は今、一歩ずつ学んでいる。

 ​「ゼノ。あなた、本当に……後悔していないの? 全てを失って、ただの人間になったこと」

 ​ふとした瞬間に、かつての不安が顔を出す。
 彼は天使だった。永遠の命を持ち、世界の理を司る高潔な存在だったのだ。それを、自分のような人間のためにすべて捨てさせてしまった。
 ​ゼノは食事を止め、ヴィクトリカの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 ​「ヴィクトリカ。何度も言わせないでよ……僕はね、あの日、君の首筋に牙を立てた瞬間、本当は死ぬほど怖かったんだ」
 ​「怖かった……?」
 ​「そう。君を食べて、君という存在が僕の一部になってしまったら……もう、こうして君の怒った顔を見ることも、不器用な刺繍を笑うこともできなくなる。それは、僕にとって天界から追放されることより、何万倍も恐ろしいことだったんだ」

 ​ゼノはテーブル越しに身を乗り出し、彼女の額にそっと唇を寄せた。

 ​「君が僕に奇跡をくれた時、僕は初めて神様に感謝したよ……僕を、君と同じ『弱い生き物』にしてくれてありがとうって。壊れてもいい、明日死んでもいい……ただ、君と同じ時間を、同じ速さで生きていける。それ以上に価値のある奇跡なんて、この世には存在しないよ」

 ​ヴィクトリカは、視界が熱くなるのを感じた。
 復讐を果たした時も、彼女は泣かなかった。
 けれど今、この平和なキッチンの、リンゴの香りが漂う中で、彼女の目から一筋の涙が溢れ、パンの上に落ちた。

 ​「……卑怯だわ、あなた。そんなこと……天使の頃には言えなかったくせに」
 ​「あはは、そうだね。ため口にも慣れてきたし、どんどん人間らしくなってる自覚はあるよ」

 ​ゼノは笑いながら、ヴィクトリカの涙を親指でそっと拭った。