宰相の亡骸が転がる冷たい執務室に、朝焼けの紫色の光が差し込んでいた。
しかし、その光は祝福ではない。闇の住人であるゼノにとっては、この世からの消滅を促す残酷な裁きの光だ。
「ゼノ……! 嘘よ、嫌よ! どこにも行かないで!」
ヴィクトリカは、霧となって霧散していくゼノの胸元へ、必死に手を伸ばした。
だが、触れる感触はもう、朝靄のように実体がない。彼の燕尾服も、かつて彼女を抱き上げた力強い腕も、粒子となって空に溶けていく。
「……あはは……泣かないでよ、ヴィクトリカ。……君に泣かれると、僕の『痛み』が……全部消えちゃうじゃないか……」
ゼノの顔も、今はもう半分が透けていた。
耳のピアスの痕からは、絶えず黒い火花が散っている。彼は最期の力を振り絞り、ヴィクトリカの首筋にある刻印へと、透き通った指先を這わせた。
「さあ……約束を、果たそうか……君の魂を……僕が、全部食べてあげる……」
ゼノの声は、微かな吐息となってヴィクトリカの耳を打った。
契約の執行。
ゼノの輪郭が、最期の閃光を放つ。彼はヴィクトリカを抱きしめるようにその首筋に牙を立てようとした。本来ならば、ここでヴィクトリカの意識は断絶し、彼女の魂は堕天使の糧となって、二人は『死』という名の終焉を迎えるはずだった。
「――っ!?」
牙が肌に触れた瞬間、ヴィクトリカの視界が真っ白に染まった。
しかし、流れ込んできたのは『死』の静寂ではなかった。
ドクン、と。
彼女の心臓の奥底で眠っていた「聖遺物」が、かつてないほど激しく、狂おしいほどに拍動したのだ。
(何……これ……。温かい……?)
ヴィクトリカの中に、濁流となって流れ込んできたのは、ゼノの記憶だった。
天界で孤独に魂を量り続けていた退屈な日々。
人間の醜さに絶望しながらも、それでも彼らを救いたいと願って翼を焼かれた瞬間の激痛。
そして、三年前のあの夜、灰の中で出会った一人の少女に、初めて自分の痛みを肯定された時の、震えるような歓喜。
「……あぁ、そうだったのね、ゼノ」
ヴィクトリカは、光の中で悟った。
ゼノが彼女の魂を食べようとしたのは、空腹を満たすためではなかった。
彼は、ヴィクトリカが背負ったすべての憎しみ、すべての罪、そしてすべての苦しみを、自分の中に引き取って、彼女を自由にするために、この契約を結んだのだ。
「自分のことなんて、ちっとも考えてなかったくせに……! 慈悲の天使なんて、大嫌いよ!」
ヴィクトリカは、光の中で叫んだ。
彼女の中の聖遺物が、ゼノの深い慈愛に強く、強く反応する。
神の奇跡とは、本来、無機質な法則に従うもの。しかし、今、ヴィクトリカという『人間の意志』と、ゼノという『堕天使の愛』が、その法則を内側から食い破ろうとしていた。
「私の魂は、私のものよ! 誰にも……神様にだって、渡さない!」
ヴィクトリカは、消えゆくゼノの首筋を逆に強く抱きしめた。
聖遺物から溢れ出す純白の輝きが、ゼノの纏う漆黒の霧と混ざり合い、マーブル模様を描いて旋回する。
「私の半分をあなたにあげる! だから、あなたの半分を私にちょうだい! 契約を書き換えるわよ、ゼノ! 捕食者と獲物じゃない……二人で一人として、生きていくのよ!!」
「……ヴィクト、リカ……? 君、何を……バカな……そんなことしたら、君の人間としての運命が……」
ゼノの瞳が、驚愕に揺れる。
聖遺物の光は、ゼノを消滅させる『裁きの光』から、彼の存在をこの世界に繋ぎ止める『楔』へと変質していった。
バキィィィィィィィン!!
虚空で、見えない鎖が粉々に砕け散る音がした。
天界がゼノを縛り付けていた法理が、ヴィクトリカの魂の叫びによって完全に拒絶されたのだ。
「ゼノを、一人の男として私に返しなさい!!」
ヴィクトリカの絶叫と共に、光が爆発した。
官邸の窓ガラスがすべて砕け、帝都の夜明けを白銀の奔流が飲み込んでいく。
光の渦の中で、ゼノの輪郭が急速に密度を増していった。
透けていた腕に、確かな熱が宿る。
霧となって消えていた脚が、大理石の床を再び踏みしめる。
そして、彼の耳で絶えず疼いていたピアスの痕から、不浄な黒い霧が完全に吸い出され、聖遺物の光によって浄化されていった。
光が収まった時、そこには静寂だけが残されていた。
ヴィクトリカは、自分の胸の中に重みを感じて目を開けた。
そこには、気を失い、ぐったりと彼女に体重を預けているゼノの姿があった。
「……ゼノ?」
彼女がおそるおそる彼の耳に触れる。
そこにはもう、赤い光を放つピアスも、黒い霧もない。
ただ、長年の拷問の証である無数の小さな傷跡だけが、白い肌に残されていた。
そして、ヴィクトリカ自身の首筋にあった黒い刻印も、跡形もなく消え去っていた。
「……はぁ、……はぁ、……」
ヴィクトリカは、彼を抱きしめたまま、その場にへたり込んだ。
心臓の奥の聖遺物は、もう光っていない。すべての力を使い果たし、ただの体の一部として、彼女の鼓動を刻んでいる。
窓から差し込む朝陽は、もうゼノを焼くことはなかった。
彼はただ、安らかな寝顔で、ヴィクトリカの腕の中で呼吸を繰り返している。
「……あは、は……本当に……欲張りなんだから……」
ヴィクトリカの頬を、一筋の涙が伝った。
それは憎しみの涙ではなく、三年前、彼女が失ったはずの人間としての涙だった。
復讐は終わった。
契約も終わった。
そして、呪われた堕天使と復讐者の物語も、ここで幕を閉じた。
夜明けの光の中、ヴィクトリカは、重たくなった彼を離さないように、さらに強く、その体を抱きしめ続けた。
