黒羽のゼノ


 天界の審判を退けた代償は、あまりにも大きかった。
 崩壊した廃教会の跡地から、這い上がるようにして帝都へ向かった二人の姿は、もはや美しき復讐者とその執事といった風情ではなかった。
 ​ヴィクトリカは、聖遺物の輝きに焼かれた胸元を抑え、足を引きずりながら歩く。
 そして彼女の隣には、ゼノがいた。
 ピアスをすべて失った彼の耳からは、絶えず黒い霧が漏れ出し、その輪郭は夜風に吹かれる陽炎のように淡く透けている。

 ​「……ねぇ、ヴィクトリカ。そんなに悲しい顔をしないでよ。せっかく、大詰めの舞台(ステージ)なんだから」

 ​ゼノの声は、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。
 それでも、彼はヴィクトリカを支えるようにその肩に手を回し、普段通りの軽口を叩こうとしていた。その口調からは執事としての恭しさは消え、運命を共にする幼馴染のような、剥き出しの親愛だけが残っている。

 ​「喋らないで、ゼノ……体、半分消えてるじゃない」
 ​「あはは、本当だ。足の感覚が全然ないや。でも大丈夫。君が最後の一人を殺すまで、僕の影は君を離さない……絶対だよ」

 ​帝都の心臓部、宰相官邸。
 今夜、ここで帝国の未来を決める秘密会合が開かれている。両親を殺し、領地を奪い、ヴィクトリカの人生を地獄に変えた張本人――宰相アルカディア。
 ​官邸を囲む近衛兵たちは、闇から現れた二人の異様な姿に息を呑んだ。

 「な、なんだ貴様ら! 止まれ、止まらなければ――」
 ​「退いて……今の私は、あまり気が長くないの」

 ​ヴィクトリカが剣を抜く。
 かつてはゼノの力を借りなければ振るえなかったその刃は、今や彼女自身の聖遺物の光を宿し、白銀に輝いていた。

 ​「お嬢様の邪魔をしないでくれるかな? 掃除の時間(タイム)なんだ」

 ​ゼノが指を鳴らそうとする。だが、力が入らない。
 彼は苦笑しながら、自らの左胸――かつて翼があった場所を強く握りしめた。

 「……出ておいで、僕の『(かげ)』」

 ​彼の影が、地面を這う黒い泥となって兵士たちの足首を掴む。
 しかし、その影は以前のような鋭さはなく、使い古されたボロボロの鎖のようだった。ゼノが影を使うたび、彼の指先が、腕が、霧となって夜空に溶けていく。

 ​「ゼノ、もういいわ! 影を使わないで!」
 ​「……ダメだよ……僕がいなきゃ、君は……」
 ​「私なら大丈夫! 見て、あなたの言った通り、憎しみを冷やして、剣に込めたわ!」

 ​ヴィクトリカは、ゼノの援護を待たずに官邸の門を蹴破った。
 彼女は流れるような剣筋で兵士たちの武器を弾き飛ばし、最短距離で最深部の執務室へと突き進む。背後では、ゼノがふらつきながらも、必死に彼女の背中を守るように、残された魔力で追手を足止めしていた。
 ​ついに、大理石の扉が跳ね飛ばされる。
 部屋の奥、豪華な椅子に座っていたのは、白髪の老人――宰相アルカディアだった。

 ​「……ド・ラ・メールの生き残りか。しぶとい小娘だ」

 ​宰相は慌てる様子もなく、手にしたワイングラスを傾けた。

 「だが遅かったな。聖遺物の回収に失敗した天使どもは去ったが、既にこの国の全権は私の掌中にある。お前一人が現れたところで、何が変わるというのだ?」
 ​「何も変わらなくていいわ。……私はただ、あなたが地獄へ行くのを見届けに来ただけよ」

 ​ヴィクトリカの剣が、宰相の喉元に突きつけられる。

 「待て! 命を助ければ、爵位を返してやろう。金も、領地も望むままだ! お前の両親だって、死にたくて死んだわけではないだろう。全ては帝国の繁栄のための犠牲だ……理解できるはずだ、お前なら!」
 ​「……理解? ええ、よく理解できたわ」

 ​ヴィクトリカの脳裏に、あの灰の降る夜の光景が鮮明に蘇る。
 血に染まった父の手。母の最期の願い。
 そして、隣で共に血を流し続けてくれた、一人の堕天使の笑顔。

 ​「あなたが守りたかった『繁栄』のために、私たちがどれだけの涙を流したか……その重さを、今ここで教えてあげる」

 ​ヴィクトリカが剣を振り上げた。
 その時、宰相の後ろの影から、ゼノがふらりと姿を現した。

 ​「……ねぇ、宰相さん……君の魂、あんまり不味そうだから、僕は食べないことにしたよ」

 ​ゼノは透けかけた手で、宰相の肩を掴んだ。

 「……その代わり、君が今まで踏みにじってきた連中の『叫び』……僕が全部、君の耳に届けてあげる」
 ​「な、なんだ……この化け物は! 離せ、離せぇ!!」

 ​ゼノが最期の力を振り絞り、自身の耳に残っていたピアスの破片を、宰相の耳へと押し当てた。

 「あはは! 痛いよね、これ……でも、僕のヴィクトリカが味わった絶望は、こんなもんじゃないんだよ!」

 ​宰相が狂乱の叫びを上げ、耳を押さえてのたうち回る。
 その隙を、ヴィクトリカは見逃さなかった。

 ​「――お父様、お母様。終わったわよ」

 ​白銀の閃光。
 剣は正確に、宰相の胸を貫いた。
 野望と汚職にまみれた老人の命が、冷たい床に散る。
 ​復讐は成し遂げられた。
 だが、ヴィクトリカの顔に歓喜の色はない。
 彼女は、崩れ落ちるように膝をついたゼノの方へ、狂ったように駆け寄った。

 ​「ゼノ!!」
 ​「……あは、は………やったね、ヴィクトリカ……最高、だったよ……」

 ​ゼノの体は、今や胸から下が完全に消え、黒い霧となって部屋中に漂っていた。
 顔も半分が透け始め、あの美しい銀色の瞳も、光を失いかけている。

 ​「嫌よ、消えないで! 契約は終わったんでしょ!? あなた、私の魂を食べるって言ったじゃない! 私の全部をあげるから、だから、勝手に行かないでよ!!」

 ​ヴィクトリカは、実体のなくなりかけたゼノの体を抱きしめようとした。
 けれど、彼女の手は空しく空を切り、彼を通り抜けてしまう。

 ​「……約束、だもんね……食べなきゃ、いけない……んだけど……」

 ​ゼノは、消えゆく指先でヴィクトリカの頬をなぞろうとした。

 「……ダメだ……今の君、あまりに綺麗すぎて……僕には、もったいなくて食べられないや……」

 ​窓の外では、夜明け前の紫色の空が広がり始めていた。
 復讐の夜が明け、新しい朝が来ようとしている。
 しかし、その光は、闇から生まれたゼノを完全に消し去ろうとする合図でもあった。
 
 ​「ゼノ!! 私の魂を持っていきなさい! 私を置いていかないで!!」

 ​崩壊する帝都の喧騒の中で、ヴィクトリカの叫びだけが虚しく響く。
 ゼノはただ、狂おしいほど幸せそうで、悲しいほど優しい笑顔を浮かべていた。

 ​「……さよなら、僕の…………世界で一番、素敵な……復讐者……」

 ​ゼノの体が、一際強い黒い霧となり、ヴィクトリカを包み込んだ。
 それはまるで、最後にして唯一の、彼からの抱擁のように。
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