黒羽のゼノ


 「……あはは! 見てよ、ウリエル。これが君たちが僕に植え付けた『痛み』の本当の姿だ」

 ​ゼノの声は、もはや一人の少年のそれではない。地底の底から響き渡るような、何重にも重なった異形の残響を伴っていた。
 ​自らの手で引きちぎられたピアスの孔からは、赤い血ではなく、ドロリとした濃密な「闇」が絶え間なく溢れ出している。それは教会の瓦礫を飲み込み、周囲の木々を腐食させ、ウリエルが放つ黄金の神威をどす黒く塗り潰していった。

 ​「……正気を疑うぞ、ゼノ。自ら『鎖』を壊し、自我を闇に明け渡すとは。もはや貴公は堕天使ですらない、ただの『災厄』だ」

 ​ウリエルの顔に、初めて明確な忌避感が浮かんだ。
 天使にとって、闇とは単なる属性ではない。それは秩序の欠如であり、世界のバグだ。ウリエルは再び十数本の光の槍を形成し、一斉にゼノへと放った。

 ​「無駄だよ」

 ​ゼノが指を一薙ぎする。
 放たれた光の槍は、彼の周囲に渦巻く闇の壁に触れた瞬間、パリンと硝子のように砕け散った。神の法理(ルール)が、この空間では通用しなくなっている。

 ​「僕を縛るピアスは、僕を監視するためのものだった……でも同時に、僕の魔力が外へ漏れ出さないように、僕自身の魂を守るための『蓋』でもあったんだ。それを壊した今、僕の中にある『無限の慈悲』が……すべてを飲み込む『無限の飢え』に変わる」

 ​ゼノの背中から、千切れていたはずの六枚の翼が、漆黒の粘液を纏って異様に膨れ上がった。
 一枚の翼が羽ばたくたびに、帝都の夜空に亀裂が走る。

 ​「消え去れ、異端が!」

 ​ウリエルが自ら光の剣を手にし、超高速で肉薄する。
 天使と怪物の激突。
 黄金の剣筋と漆黒の爪が交差するたび、衝撃波で大気が燃え、周囲の廃墟は砂へと還っていく。

 ​「あはは! 痛い、痛いよウリエル! でも、もっと欲しいんだ! 君が僕を刻むほど、ヴィクトリカの憎しみが僕を強くする!」

 ​ゼノは斬られることを厭わず、自らの肉体を餌にウリエルの懐へ潜り込んだ。
 黄金の剣がゼノの胸を貫く。
 だが、ゼノは狂おしいほどの笑顔を浮かべ、その剣を自身の肉体で固定したまま、ウリエルの翼をその細い両手で掴み取った。

 ​「――捕まえた」
 ​「……なっ! 放せ、離れろ汚らわしい!」
 ​「逃がさないよ。……君のその綺麗な『正義』、僕が全部ぐちゃぐちゃにしてあげる」

 ​バリ、という不吉な音が響いた。
 ゼノは笑いながら、ウリエルの白い翼を根元から力任せに引きちぎった。
 天界の住人であるウリエルが、生まれて初めて「苦痛」という概念に直面し、喉が裂けんばかりの絶鳴を上げる。

 ​「ぎ、が、あぁぁぁぁぁぁっ!!」
 ​「どう? 痛い? 素敵だよね、痛いって! 僕が今まで何百年も味わってきたこの感覚、君にもたっぷり分けてあげるよ!」

 ​ゼノの影が蛇のようにウリエルに絡みつき、その純白の法衣を黒く染め上げていく。
 空の上から降り注いでいた黄金の光は、今やゼノというブラックホールに吸い込まれ、夜は一層深さを増していく。

 ​「ゼノ!! もうやめて!!」

 ​瓦礫の陰から、ヴィクトリカが必死に叫んだ。
 今のゼノからは、かつての完璧な執事の面影も、自分を気遣ってくれた相棒の温もりも感じられない。そこにいるのは、ただ破壊と苦痛を撒き散らす、空っぽの虚無だ。
 ​彼女の首筋の刻印は、熱を通り越して、魂が凍りつくような冷気を放ち始めていた。
 ピアスがすべて失われたことで、契約のラインが暴走しているのだ。

 ​「ゼノ、私の声が聞こえないの!? 目を覚ましなさい!!」

 ​ヴィクトリカが闇の渦へと駆け寄ろうとするが、ゼノの影が彼女を拒絶するように弾き飛ばす。

 ​「……ヴィ、クトリカ……?」

 ​ゼノが、ちぎり取った天使の羽を握りつぶしながら、ゆっくりと首を傾げた。
 その漆黒の瞳に、わずかな光が戻る。しかし、それは瞬時に闇に飲み込まれていく。
 
 ​「……あ、そうか……食べなきゃ……君の、一番美味しいところ……今なら、全部食べられる……」

 ​ゼノの視線が、ウリエルからヴィクトリカへと移った。
 それは慈愛でも忠誠でもない、純粋な「捕食者」の眼差しだった。
 ​封印を解いた代償。
 彼は今、人間としての意識も、ヴィクトリカとの記憶も、すべてを痛みと空腹の濁流に流されようとしていた。

 ​「来るな……来ないで、ゼノ……!」

 ​ヴィクトリカは後退りする。
 背後には、闇に呑まれて崩壊する世界の果て。
 目の前には、愛したはずの、自分を愛してくれたはずの、狂った笑顔の怪物。
 ​ウリエルは瀕死の体で、その光景を冷笑するように見つめていた。

 「……言ったはずだ……堕天使に……救いなど、ないのだと……」
 ​「黙りなさい!!」

 ​ヴィクトリカは、腰に差したままだった短剣を抜いた。
 ゼノに向けてではない。
 彼女は、自らの左胸――聖遺物が眠るその場所へと、刃を突き立てた。

 ​「――っ!?」

 ​ゼノの動きが、ピタリと止まった。
 契約の「痛み」の共有。ヴィクトリカが自らを傷つけた瞬間、その何倍もの衝撃が、闇に溶けかかったゼノの意識を叩き起こした。

 ​「……ヴィクト、リカ……君、何を……」
 ​「聞こえる、ゼノ!? 私の心臓の音が……! あなたに食べられる前に、私が自分で壊してやるわ! 私がいなくなれば、あなたの契約も、この痛みも、全部終わるのよ!!」

 ​ヴィクトリカの胸元から、闇を切り裂くような、純白とは異なる「人間らしい」温かな光が溢れ出す。
 聖遺物が、彼女の自己犠牲の決意に共鳴し、暴走する闇を中和し始めた。

 ​「嫌だ……そんなの……ダメだ……」

 ​ゼノが頭を抱えて蹲る。
 闇の翼が霧散し、彼の耳から溢れていた黒い液体が止まる。
 彼は再び、少年の姿へと戻り始めていた。しかし、その代償として、引きちぎられたピアスの跡からは、今度は彼の生命そのものが零れ落ちようとしていた。

 ​「……あは、は………結局、僕は君に……救われちゃうんだね……」

 ​ゼノは力なく微笑むと、そのまま崩れるように地面へと倒れ伏した。
 ​黄金の光も、漆黒の闇も消え去った後には、ただ冷たい月光と、ボロボロになった二人の姿だけが残されていた。
 空の上では、ウリエルを回収するための別の『光』が近づいている。
 ​物語は、復讐の終焉を前に、最大の危機へと向かおうとしていた。
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