黒羽のゼノ


 ​その夜、空から降っていたのは雨だけではなかった。
 燃え上がる伯爵邸の屋根から剥がれ落ちた。黒い(すす)と灰が、雪のように音もなく降り積もっていた。

 ​「お父様! お母様……っ!」

 ​ヴィクトリカ・ド・ラ・メールの声は、パチパチと爆ぜる火粉の音にかき消された。
 わずか十二歳の少女が、その細い腕で必死に動かそうとしているのは、崩れた(はり)の下敷きになった父親の手だ。かつて彼女の頭を優しく撫で、異国の物語を読み聞かせてくれたその大きな手は、今はもう、石造りの床を汚す鉄錆色の液体に浸り、氷のように冷たくなっている。
 ​数時間前まで、そこには幸福という名の日常があった。
 誕生日の前夜祭として飾られた大広間のシャンデリア。銀食器の触れ合う音。母が奏でるピアノの旋律。それらすべては、たった一軍の暗殺者たちによって蹂躙(じゅうりん)された。

 ​「……に、逃げなさい……ヴィクトリカ……」

 ​足元から漏れたのは、瀕死の母親の、喘ぐような掠れ声だった。
 ヴィクトリカは、瓦礫(がれき)の隙間から母親の青ざめた顔を見つけた。美しかった金髪は焼け焦げ、頬には深い裂傷(れっしょう)がある。

 ​「嫌、置いていかないわ! お願い、目を開けて!」
 「行きなさい……あなたは、生きて……」

 ​それが、母の最期の言葉となった。
 母親の瞳から光が失われ、ただの硝子玉のような虚無(きょむ)が宿る。ヴィクトリカの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。視界が涙と煙で歪み、呼吸をするたびに熱い肺が焼けるように痛む。
 ​背後で、冷酷な革靴の音が近づいてきた。
 ヴィクトリカは震える体で振り返る。そこには、返り血を浴びた漆黒の鎧を纏う男たちが立っていた。彼らの胸に刻まれているのは、父が信頼していたはずの『宰相(さいしょう)』の紋章。

 ​「いたぞ。生存者はこの娘だけか」
 「伯爵の娘だ。生かしておけば後の災いになる。ここで始末しろ」

 ​男の一人が、無造作に剣を抜いた。
 炎の照り返しを受けて、白銀の刃が不気味にぎらりと光る。ヴィクトリカは逃げる気力さえ失い、両親の遺体のそばでうずくまった。冷たい石の床、雨の匂い、そして鼻を突く血の臭い。

 ​(ああ、私もここで死ぬんだわ)

 ​彼女はゆっくりと目を閉じた。
 不思議と、恐怖はなかった。あるのは、ただ底知れない『無』と、自分たちを裏切り、踏みにじった者たちへの、言葉にできないほど暗く、重い感情だけだった。

 「さよなら、ヴィクトリカお嬢様。天国でパパとママによろしくな」

 ​男が剣を振り上げた、その瞬間だった。
 ​突風が吹き荒れた。
 燃え盛る炎を押し戻すほどの、凍てつくような冷たい風。
 それと同時に、夜空を覆う暗雲よりも深い漆黒の影が、天から真っ逆さまに落ちてきた。

 ​「ギャアアアッ!」

 ​断末魔の叫びが響く。
 ヴィクトリカが恐る恐る目を開けると、先ほどまで彼女に剣を向けていた男の喉元に、一羽の巨大なカラスが食らいついていた。いや、それはカラスと呼ぶにはあまりにも巨大で、不吉なほどに美しい鳥だった。
 ​カラスは男の喉を食い破ると、羽を大きく広げ、ヴィクトリカと追っ手たちの間に立ちはだかった。
 黒い羽が舞い散る。その羽の一枚一枚が、まるで意志を持っているかのように空中を浮遊し、残された暗殺者たちの視界を奪う。

 ​「な、なんだ、この鳥は! 撃て! 撃ち落とせ!」

 ​暗殺者たちが狼狽(ろうばい)し、(いしゆみ)を構える。
 しかし、その矢が放たれるよりも早く、カラスの輪郭が陽炎のように歪んだ。
 ​黒い霧が渦を巻き、炎の赤を飲み込んでいく。
 霧の中から現れたのは、鳥ではなく、一人の少年の姿だった。
 ヴィクトリカよりも少し年上に見える、華奢な体躯(たいく)。背中には焼けただれたような黒い翼の名残があり、その耳には、夜の闇を凝縮したような無数のピアスが、不気味な光を放って揺れている。
 ​少年は、足元に転がる死体など目に入らないかのように、ゆっくりとヴィクトリカの方へ振り向いた。
 ​雨に打たれ、返り血で頬を汚しながらも、彼はこの世のものとは思えないほど美しい微笑を浮かべていた。それは救済の光というよりは、全てを終わらせる死神の口づけに近い、無垢で残酷な笑みだった。

 ​「ねぇ。随分と酷い顔をしてるね、お嬢さん」

 ​少年の声は、鈴の音のように透き通っていた。
 ヴィクトリカは、目の前の存在が人間ではないことを本能で悟った。だが、彼女は目を逸らさなかった。絶望の底で、彼女が求めていたのは神の奇跡ではなく、この暗闇に等しい『何か』だったからだ。
 ​周囲の炎が、少年の登場によって意志を失ったように鎮まっていく。
 しとしとと降る冷たい雨が、ヴィクトリカの頬を伝う涙と混じり合った。

 ​「……あなたは、誰?」

 ​震える声で問いかけるヴィクトリカに対し、少年は一歩、また一歩と距離を詰め、彼女の前に膝をついた。彼は細い指先で、ヴィクトリカの顎を優しく持ち上げる。

 ​「僕は君の絶望に呼ばれてやってきた、ただの迷子さ」

 ​彼はそう言うと、さらに深く、甘く、そして狂気を含んだ笑みを深めた。
 そこには、地獄の淵で手招きする悪魔のような、(あらが)いがたい誘惑があった。
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