水野くんが理系からやってきた

 夏休みが開け、少しずつ空気が涼しくなってきた頃。高校生活最後の体育祭がやってきた。

 一昨年、昨年も大いに盛り上がっていたが今年のクラスの盛り上がりは高校生活において最高潮を迎えていた。
 今年のクラスTシャツは真ん中に担任の芥川を可愛いイラストにしてデザインした蛍光ピンクのTシャツだ。それはイラストを描くのが好きな女子がデザインを施したのだという。届いたそれに早速袖を通した水野はとても嬉しそうに見えた。
 体育祭までまだ日があるというのに、クラスTシャツに袖を通した一同は教室の中で大きな円陣を組む。
「水野も早く」
 どうすればいいのかわからずおどおどとしている水野の手を依田が引いた。隣にいた奴を適当に押しのけてそこに水野をねじ込んでやると肩を組む。水野も最初は躊躇っていたが、依田に倣って水野も腕を伸ばすと左右と肩を組んだ。
「三年一組ー!」
 先陣を切って大声を上げたのは依田だ。突然隣から聞こえてきた大声に驚いて水野が依田を見る。水野の視線に気づいた依田は、白い歯を見せて二ッと笑ってやった。
「ファイト、オー!」
 依田の掛け声に合わせて円陣を組んだみんなが大声を上げた。水野は声を合わせるタイミングを完全に失ってしまっていたが、それでも楽しそうな笑みを浮かべていた。
「こんなに楽しい体育祭は一年以来だ」
 と水野が言った。その言葉に依田は首をかしげる。
 高校に入学して初めての体育祭ということで一年の時も大いに盛り上がった記憶がある。それは二年の時も変わらず、このクラスは同じような盛り上がりを見せていたと依田は記憶していた。
「去年もあっただろ」
 水野は首を横に振って見せる。
「理系特進は勉強が一番だから行事を本気でやる奴がいないんだよ」
 その言葉に、なんだその地獄のようなクラスは、と依田が絶望して見せれば水野がまた笑う。
「クラスの中で部活も本気でやってるのは俺くらいで、クラスメイトの他の奴らは放課後はすぐに予備校に行くがり勉ばっかりだったよ」
「それじゃあ今年は飛び切り楽しい体育祭にしてやるよ!」
 な! と依田がクラスメイト達に呼び掛ければすぐに威勢の良い返事が返ってきた。
 みんなと冗談を言い合い大声で笑う依田を見て水野も笑みを浮かべた。



 体育祭でクラスは優勝こそ逃したが、それでも大熱狂の中無事に終了した。
 中でも男子サッカー競技での水野の活躍と男子バレー競技での依田の活躍は大きかった。



 依田と水野は帰りの電車に揺られていた。
「体育祭楽しかったなー」
「ああ」
 二人は未だ体育祭の余韻に浸っていた。
 いよいよ受験本番が近づいてきたこともあり、すっかり運動不足に陥っていた二人は既に程よい筋肉痛に包まれていた。
明日からはまた勉強漬けの一日が始まる。そう愚痴を零す依田を水野は笑いながら慰めていた。
 その時、混雑している車内で小さな叫び声が聞こえた。依田は瞬時に周囲を見渡すとドアの隅に押し付けられている女子生徒の姿を見つけた。
 二人とは違う高校の制服を着た彼女を隅に押し付けているのは鼻息を荒くしたスーツ姿の男だった。人ごみでよく見えないが男の手が彼女の制服に触れていた。
 その光景に水野は躊躇う。しかしその一方で依田は人ごみを掻き分けると彼女の元へと一目散に向かって行った。
「おい」
 努めて低い声で唸り、男の肩を力強く掴む。その男はバレー部の依田よりも随分と背が低かった。派手な茶髪をした男子高校生に見下ろされてその男はさぞ恐怖しただろう。
 依田は電車が止まるとすぐ、次の駅で男を引きずり下ろし、駅員に突き出した。被害者の女子高生は何度も何度も依田に頭を下げお礼を言いながら無事帰っていった。
 水野はそれをずっと隣で見ていた。
 全てが終わった頃にはすっかり日も沈んでしまっていた。
「あ! 予備校!」
 駅の時計を見て、弾かれたようにそう言ったのは依田だった。それにつられて水野も時計に目をやる。確かに依田の言う通り、いつもなら放課後、予備校で授業を受けている時間になっていた。
「依田、今日予備校だったっけ?」
 水野がそう言えば依田が首を横に振って水野を指差す。
「俺のじゃねえよ、お前だよ」
 そう言われて水野は、あっと声を上げた。
 学校行事があっても予備校の予定は変わらない。今日も毎日通っている予備校の日だった。
 何度時計を見てももう授業は始まっている時間だ。きっと今頃講師が厳しい言葉を掛けながら皆が問題に取り組んでいる頃だろう。
 みんなが苦しみながらも授業を受けている時に自分は好きな人とこうして駅で駄弁っている。
 そのことがなんだが嬉しくて水野は思わず、ははっ、と声を上げて笑った。
「なんだよ」
 突然笑い出した水野を依田が訝しがる。
「今から電車に乗って間に合うか?」
 次の電車は十分後と表示されている。
 必死になって時間を計算し始める依田を水野が止める。
「いいよ、今日はサボるから」
 そう言うと水野は楽しそうに笑った。
 水野が予備校の予定を忘れるなどこれが初めてのことだった。
「せっかくだからどこかで遊んで時間潰して帰ろうか」
 ゲーセンでもカラオケでも。水野の提案するその遊びを教えたのは依田だ。笑いながら遊びを提案する水野に依田が言いにくそうにようやく声を上げた。
「なあ水野。俺のために無理してねえ?」
「無理? してないよ」
 三年になって水野が文系普通クラスに編入してきた時には彼はあまりにも真面目過ぎる男だったのだ。それが今では大事な予備校をサボり、依田を遊びに誘うまでになっていた。
 そうしたのは依田だ。
 依田は自分が優等生の水野に悪影響を及ぼしてしまったと心配していた。
 文系普通クラスでも水野は変わらずトップを取っている。当然依田よりもずっと頭が良い。
 予備校でもいつも帰りに一緒に帰ってはいるが彼が授業の内容に悩んでいる素振りを見たことは一度もない。むしろたまに他の生徒に勉強を教えている様子を見ることがあるほどだ。
 それでも、きっと水野の勉強時間は以前よりもずっと減っているはずだ。
 今日の体育祭も昨年は単語帳を片手に過ごしていたという。依田と話して過ごしている車内も前まではずっと参考書を読んでいたと聞いている。休みの日もたまにだが水野は依田の気分転換に付き合ってくれさえいる。



「なんでお前みたいな凄い奴が文系普通クラスなんかに来たんだよ」



 春先に聞いた問いを依田はまた水野に尋ねた。