水野くんが理系からやってきた

「お前急になんなんだよ!!!!」
 静かな文系棟四階の廊下に依田の叫び声がこだまする。
 依田の突然の大声に驚きながらも、さも自分は無実だというように水野は両手を上げて見せていた。
 依田のあまりの大声に誰もいなかった四階廊下に人が集まり始める。
「なんだなんだ!?」
 廊下を駆け上がってきたのは依田と水野とは違うクラスの生徒たちだった。しかし彼らの顔を依田は皆知っている。彼らは依田の友人たちだ。
「なんだよ依田かよ。お前うっせーぞ」
「って水野!? なんで水野が文系棟にいるんだよ!?」
「依田、部活の時より声出てんじゃん」
「え!? 理系の水野くんがいる!?」
 どこからやってきたのか二人集まってきた生徒たちにあっという間に囲まれていた。
「だー! お前らうっせえ! 集まってくんな!」
「あんたが先に大声出したんでしょ! 一階まで聞こえてきて何かと思って駆けつけてきたんだから!」
 散れ散れ、と手を払って周囲を追い払おうとする依田を女子生徒の一人が睨みつける。
 なんで文系棟に理系の水野がいるのか、そう聞かれてもそれを聞きたいのは依田の方だった。
 知らない、と言い続けてもいつまで経っても離れようとしない彼らに依田はため息をつく。当事者である水野は表情を変えることなく、それでいて彼らの問い答えるそぶりさえ見せない。
 このままでは埒が明かない。そう判断した依田は水野の手を取ると無理やり輪の中から脱出する。
 背後から二人を呼ぶ声がするが振り返ることはしない。二人は早足で四階の廊下を通り抜けていった。
 その間ずっと依田は水野の手を握ったままだ。
 ふいに繋がれた手に水野は表情をほころばせていた。




 気付くと二人は一階まで降り、文系棟と理系棟を繋ぐ渡り廊下までやってきていた。二つの棟を行き来するのは教師ぐらいなので渡り廊下にもひと気はない。
 周囲をきょろきょろと見渡し、二人を追いかけてくる姿がないことを確認してから依田はようやく水野から手を離す。ほっと一息つくと依田はいよいよ水野に本題を切り出した。
「それで、理系トップがなんで三年のこんな時期に文系に来たんだよ」
 言いたくなかったらいいけど、と一応前置きをして尋ねる。
 教室でも四階廊下でも皆に尋ねられていても水野は頑なに答えようとはしていなかった。もしかしたら話しにくいことなのかもしれない、という依田の気遣いだ。
「進学先を文系に変えたのか?」
「いや、大学は最難関の理系国公立に変わりないよ」
 依田の問いに対して水野はあっけらかんと答えた。
 理系から文系に来たのだから進路変更したと思うのが普通だ。しかし彼は進路を変えたわけではないらしい。そうなるとますます彼がわざわざ理系特進クラスから文系普通クラスに来たのか依田には分からなかった。
「それじゃあなんで文系に来たんだよ? 頭のいい奴の考えることは意味分かんねえ」
 依田は雑に頭をガシガシ掻いて見せる。一方で水野は依田を真っすぐに見つめていた。
 水野が口を開く。
「依田と一緒にいたくて」
「……は?」
 水野の言葉に依田は目を見開くと水野と対峙する。水野の頬は僅かに紅潮しているように見えた。
「俺、依田が好きなんだよ」
 水野が言った。
「は? あ? なんで? 俺?」
 水野の突然の告白に依田は照れるよりも疑問、不信感を募らせていた。
「お前、今まで俺と接点あったっけ? 俺は理系特進にすっげー頭がいい奴がいるって水野の名前くらいは聞いたことがあったけど。知ってたのは名前だけで会ったこともなかったし、校舎も違うし部活も室内と室外で会う機会なかっただろ」
「俺がサッカー部だった、って知ってるんだ?」
 あからさまにぱっと表情を明るくする水野に依田は照れる。まさかそんなことだけでそんなに喜ばれるとは思ってもみなかったのだ。
「ばっ! クラスの女子たちが騒いでるのを見ただけだっつーの」
 教室の窓から見える校庭で、体育の授業でサッカーをする理系クラスに黄色い声を上げて騒ぐ女子たちの姿を依田は本当にたまたま見ていただけだったのだ。
 大勢の男子生徒の中で彼女たちが騒ぐ水野を見つけることは当然できなかったし、どれが水野かと尋ねる気もなかったので依田が知っている水野はあくまで彼女たちからのまた聞きだ。
 理系特進で一番頭がいい。サッカー部でサッカーが上手い。
 依田が知っている水野の情報はたったそれだけだった。


「俺は依田が好きだから文系に編入してきた」


 水野は至って真剣な表情でそう言った。その言葉に依田は酷く驚いていた。
 だって最難関の理系国公立に進学を希望しているのなら猶更彼は理系特進クラスにいるべきなのだ。それなのに彼はこの大事な時期に依田が好きだからという理由で文系普通クラスに編入してきたのだという。


 知らぬ間に依田は水野の人生の選択を変えていたのだ。


「なっ……んで俺なんかを……」
 俺なんか、と首を横に振る依田に水野は依田の言葉を否定するために首を横に振った。
「理系の俺から見ても、依田は目立っていたよ」
 水野はそう言うと、大勢の輪の中心で楽しそうに笑う依田の姿を思い出して微笑んだ。