さいかい

 その日、今木秋絵は早足で足元を見ながら帰路に着こうとしていた。すれ違う赤の他人を見たくなかったからだ。どんな人間でも暗い過去はある。誰にも言えず平静を装い何とか生きている。決して人の生き地獄は数えてはいけない。数える事に喜びを覚え習慣になってしまえば昔の自分に戻れななくなる。しかしその日彼は何故か危ない思考を離そうとしなかった。自分勝手に悲劇の主人公になっていた。この世の中で自分だけが家族仲が悪く優しくしてくれる恋人も親しい友人も居ない。自分は誰だろう。秋絵は足で狂ったリズムを刻みながらふと女物の靴先を見つけ歩を止めた。直ぐに居なくなるカラフルな他の靴と違い地味でしかし仕立ての良い焦げ茶の靴は頑として彼の前から退こうとせず確固たる意志を感じた。彼はのろのろと視線を上げた。そこにはまだ若い女性が彼を見据えていた。そして表情とは裏腹の冷え切った声を発した。「お久しぶりです」覚えてる、と。