言葉のない世界

 中学2年生の竹内雫は、今日もまた教室の隅で静かに座っていた。周りのクラスメイトたちは楽しそうに会話を交わしているが、雫はただただ窓の外を見つめていた。心の中では何度も「声を出さなきゃ」と思っていたのだが、どうしても言葉が出てきてはくれなかった。
それは、小学校の高学年になった頃から、雫が次第に人前で話せなくなっていたからだ。最初は少しの緊張から始まり、次第にそれが大きな不安に変わり、今では学校ではほとんど口を開けられなくなってしまった。原因、そしてなぜ声を発せないのかが分からなかったので一度病院に行って医者に診断してもらうと、「雫さんは、ストレスや緊張などが原因で場面緘黙という疾患にかかっているようです。」と告げられたのだった。
担任の先生も心配してクラスメイトに伝えてくれたようだ。クラスメイトは気を使って簡単に受け答えができるように気軽に話しかけてくれるが、その優しさがかえって重く感じられる。誰かに話しかけられるたびに、喉が締め付けられるようで、無言でうなずくことしかできなかった。
放課後、私は家に帰ると安心する。ここでは、誰も雫に話しかけることはない。ただ静かな時間が流れ、心が少しずつ落ち着いていく。家で声を出すことはできるが、母親とも必要最低限のことしか話さない。しかし、そんな生活に雫は少しずつストレスを感じてきていた。母親は心配そうに見守っているが、どうしても言葉にできない不安が胸に重くのしかかっていた。
 ある日、学校帰りに公園で一人の少女と出会った。その少女は雫より少し年上のようで、ベンチに座って何もせずにぼんやりと空を見上げていた。雫は思わずその静けさに引き寄せられ、隣に座った。
「こんにちは」
思わず声をかけてしまった。自分でも驚くほど自然に言葉が出た。少女はこちらに顔を向けて微笑み、
「こんにちは」
と答えた。何も言わずに、二人はそのまま静かな時間を過ごしていた。
 ある程度時間が経ち、空が橙色や紫色になってくると雫は帰らないとお母さんに心配されてしまうかもと思い始めた。でも雫は何故か「帰りたくない」と思っていた。するとその心を見透かしたように少女が言った。
「まだ帰らなくても良いの?そろそろ帰らないと両親が心配してしまうよ?」
少女にその質問をされた時、不思議と雫はこの人となら一緒に話せる気がし、少し声を出してみた。すると雫は声を出すことができた。学校じゃないからかな?などと思いつつ、雫は彼女の質問に答えた。
「私はまだ帰りたくない。帰ってもお父さんは5年以上外国に行っていていないし、お母さんには負担をかけてしまうだけだから…。」
すると少女は言った。
「そうなのね。ごめんなさい。私には親がいないからその感情は理解できないわ。でも、これだけは確実に言える。あなたの声はどれだけ小さくてもきっと誰かに届くわ。だからそんなに心配しないで。」
と。それを聞いた雫はさっきまであった帰りたくないと言う感情が吹き飛んで帰って母親に話したいと思うようになった。
そして元気が出てきた。雫は少女に「私、帰る。帰ってしっかりお母さんと話してみる。助言してくれてありがとう。またこの公園で会いましょう!」
そして雫は家に帰る道を進もうとした。すると少女は
「ちょっと待って、言い忘れていたことがある!」
と言った。そして雫に向かって
「あなたが自分を信じている限り、あなたは決して一人じゃない。」
そう言った。
それを聞いた瞬間、その言葉は深く雫の心の中に入りこんできた。少女は続けて、
「あなたが言葉を使う勇気を出した時、あなたに力を与えてくれるよ。力を信じて、少しずつでもいいから、言葉を出してごらん。あなたの言葉が、誰かの心に届く力になると思うから。」
雫は歩きながら、何故彼女の前では普通に話すことができたのかを考えていた。でも雫はいくら考えても答えに辿り着くことができなかった。そうこうしているうちに家に着いたので、雫は立ち止まり、
「私ならば大丈夫!頑張ったらきっと成功する!」
と言い、玄関を開けた。雫が玄関を開けると母親は玄関前でうろうろと歩き回っていた。そして雫が視界に入るなり、
「こんな時間までどこにいたの?心配したじゃない」
と怒ったような表情をしながらも抱きしめてくれた。そのときに雫は思ったのだ。「私がみんなから離れようとしていたから気が付かなかっただけで、ただ母親に心配をかけているだけじゃなかったのかもしれない」と。それが少しわかると雫は今が話し合いをするチャンスだと思った。だから雫は母親に、
「ちょっと話したいことがあるからリビングで話さない?」
と聞いてみた。すると母親は、とても驚いたような顔をしてから嬉しそうに
「ええ、もちろんよ」
と言った。そして母親は先にリビングへと歩いて行った。その様子を見た雫は「あぁ、私はやはりお母さんにとても心配をかけていたのか」と少し罪悪感に襲われた。だが雫は、「過ぎてしまったものはどうしようもない。だから今からお母さんと話をして少しずつそれを埋め合わせていこう」そう思って自分もリビングに行き、座ってお母さんへと一つ一つの言葉を紡ぎ始めた。
 雫はお母さんへ、自分がこんな時間までどこで何をしていたのか、そして学校で自分がどう思っているのかを時間はかかってしまったが全て話すことができた。母親は雫がたくさん話しているのを久しぶりに見て、驚きつつも安堵の表情を浮かべていた。そして雫に
「あなたはこの一日でとても成長したのね。その公園で会った少女のおかげかしら?それから私はあなたが場面緘黙症になってからずっと悩んでいたことに気付くことができなかったわ。心配はしていたけれど、どうしたらいいのかがわからなくてただただ見守っているだけしかできなかった。でも本当は二人の時間を持って話し合ったら良かったのかもしれないわね。」
と言った。雫はその言葉を聞いて
「それは違う。私は見守ってくれていた方が気が楽で良かったから。私はその気遣いがとても嬉しかったんだよ。ありがとう!」
それを聞いた母親は、
「雫自身からまたそのような言葉を聞けるようになったのはとっても嬉しいわ!私こそありがとう!」
と言った。そしてこの後も二人で話をたくさんして、雫と母親は雫が場面緘黙症になる以前のようなあたたかく穏やかな関係を取り戻していった。
 お母さんとたくさん話をした後も雫は何度もその公園に通い、少女に会うようになった。初めて会った時程は少女と言葉を交わすことはあまりなかったが、ただ一緒にいる。それだけでも雫の心は少しずつ楽になっていった。言葉を交わさなくても、その存在が心を温かく包んでくれるような気がした。そして雫は勇気を出して教室で声を出してみることにも試してみた。最初は全く声を出せなかったが、毎日少しずつ頑張ってみた。それから2週間ほど経ったある日、雫は小さいながらも少しだけ声をだすことができたのだ。雫は家に帰るなり、すぐに母親の元へ行き、声をだすことに成功したと報告する。すると母親は
「よかったね!最初は少ししか声を出せなくても、いつかきっと前のように話すことができるわよ!」
と言ってくれた。それを聞いた雫は自分の心の中で「お母さんはずっと応援してくれてたんだ!だから私もその期待に答えられるようにさらに頑張ろう!」
そう思えた。雫は、胸の中にふわっと温かい光が灯るのを感じた。学校でほんの少しだけれど声を出せた自分。それを自分事のように誰よりも喜んでくれたお母さん。それだけで世界が少しだけ優しく見えた。「今日はあの子に伝えたいかも。」そう思った雫は
「お母さん!ちょっと行ってくる!」
そう言ってゆっくり歩き出した。空は少し曇っていたが不思議と雫の心は晴れていた。
そして、雫は公園に行った。雫は学校での出来事を話そうと思った。だが、どう話し始めたらいいのかがわからず、少し戸惑っていた。すると、少女は何か察したのか雫に言った。
「ねぇねぇ雫?あなたは最近学校で上手くいっているの?」
その言葉を聞いたときに雫は「この少女は私の心を読めるのかな?」と思った。
少女はふと空を見上げて、ぽつりと言った。
「言葉ってね、すごく不思議なんだよ。なくても伝わることがあるし、あっても伝わらないことがある。でも、あなたはちゃんと頑張ってる。伝えようとしている。それだけでね、すっごく偉いことなんだよ。」
その言葉を聞いて、雫は目を見開いた。少女は何も言わずに、雫が抱える不安を理解してくれていた。その優しさが、雫にとっては大きな支えとなった。 
 次の日、雫は少しだけ教室で声を出してみた。最初はほんの小さな声だったが、毎日少しずつ練習をしていくとだんだん言葉が出てくるようになった。クラスメイトが声をかけてくれると、雫は笑顔を見せ、少しだけ答えることができるようになった。
その日から、雫は少しずつ、自分の中で言葉を取り戻していったと感じられるようになっていた。学校での緊張は完全にはなくならなかったけれど、少しずつ自分を受け入れることができ、他人との繋がりを恐れることがなくなっていった。
 たまに言葉は恐ろしいものだと感じるときがある。けれど、それは同時に、私たちを繋げる力にもなる。雫はそのことを少しずつ理解していき、場面緘黙症になる前の話す楽しさを少しずつ思い出していった。