その声で囁くな!

中庭のベンチに座り、俺は空を見上げていた。
冬特有の澄み切った空気の中、空は清々しいほどに晴れていて、ぽかぽかとした太陽の光が周囲を照らしている。
だけど、そんな空とは正反対に、俺の心はどんよりと曇っていた。

「どうした」
「えっ......?」

かけられた声に、俺はビクッと反応した。
隣にいた倉峰はとても心配そうに眉をひそめた。

昼休み、いつものように俺と倉峰は一緒にお昼を食べていた。

「目の下にクマができている。それにさっきからコロッケパンが進んでいない」

手元には一口齧っただけのコロッケパン。それは購買でボーッとしていたら、いつの間にか倉峰が手に入れてくれたものだった。

「う、ん…」
「......」

昨日は眠れなかった。色々考えていたら、気づいたら朝になっていた。

悩むくらいなら倉峰に聞けばいい。噂は本当なのかって。
いつもの俺なら、きっとすぐに聞いてすっきりさせるだろう。

「一条」

そっと倉峰が俺の頬に触れた。大きな掌がそのまま頬を包み込む。そして親指が俺の目の下のクマを労わるように優しく撫でた。
気遣わしげに、倉峰が俺の瞳を覗き込む。

「大丈夫か? 何かあったか?」

俺を見ている倉峰の方が、苦しそうな顔をしていた。
胸がツキンと痛む。

こんな顔をする倉峰が、遊びで俺と付き合う訳がない。そう頭では思っているのに。

でも、もし万が一、全部嘘だったら? お前のことなんか遊びだと言われてしまったら? 
俺はきっと立ち直れない。
それが怖くて、昨日のことを倉峰に聞けずにいた。

「倉峰......」

あまりに心配そうな瞳に、我慢ができず甘えた声が出てしまう。
ぼやっと視界が潤んでくる。すると我慢ができないというように、倉峰が俺を引き寄せた。

肩に頭を凭れさせ、俺をギュッと抱きしめる。

「俺でよかったら力になる。なりたい。なんでも話してくれ」

倉峰の声は真剣そのものだった。抱きしめる腕からも、気持ちが伝わってくる。
そっと顔を上げると、倉峰が俺を覗き込んでいた。

優しい視線。瞳の奥には、隠しきれない俺への愛に満ちていた。

「っ......」

また視界が潤んでくる。

「大丈夫、ゲームしすぎて寝るのが遅くなっただけだから」
「一条......」

だけど、やっぱり本当のことは言えなくて、視線を伏せながら答える。
すると倉峰が、本当か? と聞くように優しく背中を撫でた。

「もう少し、このままでもいい?」

もっと倉峰の温かさを感じていたくて、その肩に頭を預ける。

「......! ああ、もちろんだ。もう少しと言わず、何時間でもこうしててくれ」
「何時間って、昼休み終わっちゃうだろ」

身を預けてくる俺に、倉峰が興奮気味に答える。
それがあまりに倉峰らしくて、思わず笑みがこぼれた。笑うと心が少し軽くなる。

倉峰はずっと背中を撫でてくれた。
触れ合った体から、倉峰の心音が伝わってくる。それは、やっぱり早くて。
蕩けるような甘さが、俺の中に広がった。

何だか安心して、俺はさらに倉峰に体を預ける。
倉峰がハッと息を飲んで、さっきより強く俺の体を抱きしめた。

「もお......何だよ」
腕の力が強い、離れる気なんてさらさらないくせに、わざと抗議する。
するとますます、ギュッと引き寄せられた。

「可愛い一条! かわいすぎる。大好きだ......」
「倉峰......」
 
見つめる倉峰の熱い視線と、変わらない愛の言葉。
いつも通りの倉峰に、俺の顔に浮かんだ笑みが深くなる。

明るくなった俺の表情に、倉峰も嬉しそうに口元を緩めた。
穏やかな雰囲気の中で、俺たちは見つめ合う。


だけど、倉峰が俺の肩越しに何かを見つけたようにハッと息を飲んだ。

不思議に思った俺は、倉峰の視線の先を振り返ろうとする。でも倉峰の腕に力がこもってできなかった。
俺を守るように抱きしめ、倉峰が視線の先を睨むように目を細める。

「倉峰......?」

いつになく厳しい表情。名前を呼ぶと、ハッとしたように元の顔に戻った。

「いやなんでもない。今日はもう戻ろう」
「あ......うん」

倉峰は食べかけの弁当を片付けだす。俺も慌てて残りのパンを手に取った。

「行こう」

そっと倉峰が俺の背に手を添え、促すように歩き出した。それはまるで、一刻でも早くここから離れたいと言うようで。

俺は倉峰に気づかれないよう後ろを振り返る。
だけど、そこにはいつもの風景が広がっているだけで何もなかった。



それをきっかけに倉峰の様子がおかしくなった。



「あっ、倉峰!」
「一条」

廊下の先に倉峰を見つけ、笑みを浮かべて駆け寄る。
倉峰は俺に気づいて、嬉しそうにふわりと微笑んだ。
駆け寄ってきた俺に倉峰が手を伸ばす。その手が触れそうになった瞬間、ハッとするようにその手を下ろした。

「......倉峰?」
「いや......」

倉峰は下ろした手を手持ち無沙汰に握りしめると、どこか歯切れ悪く目を逸らした。

「......今日さ、一緒に」
 
不思議に感じながらも、剣道部に寄ろうと思っていたことを話そうとした。
しかし。

「すまん......一条。......先を急いでいるから」
「あ、ごめん」

何かを気にするように、倉峰の視線が周りに走らされる。
倉峰は名残惜しそうに、俺を見つめてから足早に去っていった。

「............」
その背中を、俺は無言で見送る。

先日の昼休みから、倉峰の様子がおかしい。

学校で会ってもよそよそしく、すれ違っても目を合わせようとしない。
その上、忙しいというのを理由に、お昼ご飯まで一緒に食べなくなっていた。
ここ最近ずっと倉峰と過ごしていたし、いつも倉峰が側にいたので、正直言ってとても寂しい。

だけどその代わりに、家に帰ってからの電話やメッセージの回数が増えた。
そちらの方は相変わらずいつもの倉峰で、それがさらに俺を混乱させた。

あの噂を聞いてからだ......。
三宅が現れたのも、倉峰の態度が変になったのも。

倉峰のこと信じたいのに、こんなんじゃ......。
スマホでのやり取りも嬉しい。でも本音は倉峰ともっと一緒にいたかった。
あの鬱陶しいぐらいの愛の囁きが聞きたい、側にいて俺を安心させて欲しい。

ずっと不安を抱えている俺の心は、今にも押しつぶされそうだった。



帰り道、廊下を歩いていたら道着姿の倉峰が立っていた。
剣道着姿の倉峰はやはりとてもかっこいい。

そうだ、剣道部に寄ろうと思ってたんだった。せっかくだから一緒に行こう。
何の気なしに、倉峰に近づいて俺は声をかけようとした。

「倉......」

そして、名前を呼ぼうとして息を飲んだ。
倉峰の横には、先日俺の前に現れ、宣戦布告のような宣言をして去って行った。
三宅が立っていた。

「っ......」
並んでいる二人を見て、俺の胸が苦しくなる。

「一条!」
気づいた倉峰が俺の名前を呼んだ。苦しそうに胸を抑える俺に、倉峰が心配そうに眉を寄せる。

「大丈夫か?」

倉峰が駆け寄ろうとする。だが、それを三宅が倉峰の腕を掴んで止めた。

「どこいくの~倉峰くん」
「......」

先日俺に向けた冷たい声とは正反対の、甘えた猫なで声で三宅は倉峰の腕を引っ張った。
耳障りな声に、倉峰が三宅に厳しい表情を向ける。

「ていうか、一条くん何の用?」
「用って......いう、か」

二人が一緒にいた事実に気持ちがぐらぐらと揺れる。
だけど同時に、言いようのない気持ちにも襲われた。

倉峰と付き合ってるのは俺なんだから......! 三宅が倉峰の腕を掴んでいるのが、嫌だと感じる。
俺はキュッと唇を引き結ぶと、顔を上げた。

「今日剣道部に顔を出すから、倉峰と一緒に行こうと思って」

倉峰を見つめてそう言った。俺の言葉に倉峰が顔を綻ばせる。
うんと頷こうとした倉峰を、また三宅が引っ張った。

「残念、私の方が先約なの」
三宅が見つめ合う俺と倉峰の間に割って入る。

「ねー倉峰くん!」
「......」

三宅が先約だと言うのを、倉峰は否定しない。三宅を見る倉峰の視線は冷たいものだった。だけど、掴まれた手を倉峰は振り払わない。

それは三宅の言っていることを、肯定しているように俺には見えた。

「くらみね......」

ショックを受けた俺の口から、小さな声が零れ落ちた。

「一条!」
「そっかぁ......じゃあ俺はこれで」
「待ってくれ......一条!」

倉峰が歩み寄ろうとする。だけど俺は、それを振り切るように走り出した。



校門まで駆けてくると、一気に体の力が抜けた。門に背を預け、上がった息を整える。
冬の寒さに冷やされた門より、俺の心の方が冷たく冷え切っていた。

倉峰の口から、三宅の方が先約だと聞くのが嫌で逃げ出してしまった。
胸がズキズキと痛む。

倉峰は三宅の手を振り払わなかったし、否定もしなかった。
まさか......あの噂は本当で......倉峰は最初から、俺のことなんて好きじゃなかった?

浮かんだ考えが、重く体にのしかかってくる。
苦しくて苦しくて堪らない。こんなに苦しいなら、恋なんて知らないままでよかった。

俺は肩からずれた鞄を抱え直す。

どうしようもなく痛む胸を抱えたまま、一人帰り道を歩いて行った。



その日の夜。何度も何度も倉峰から電話がかかってきた。
だけど俺は、その電話に出る気になれなかった。倉峰の声を聞いたら泣き出してしまいそうで。

「............」

今もスマホが、倉峰からの着信を知らせている。潤んだ瞳で、俺は画面をずっと見つめていた。

程なくして着信を知らせるバイブが止まる。それを寂しく思いながら、どこか安心していた。
時間稼ぎなことは分かっていても、倉峰から真実を聞くのが怖い。

その時、ブブッとスマホが震えた。
おそるおそる画面を見ると、倉峰からメッセージが届いていた。

『一条すまない。もう少しだけ待ってくれ』

画面にはそう表示されていた。

「待ってくれって何をだよぉ......」

意図が分からないメッセージにうるうると瞳が潤む。だけど気遣うような言葉がふわりと心を包んで。
俺はスマホを胸に抱きしめた。