その声で囁くな!

「もう、ちょっと......」

俺はあと少しで届きそうなコロッケパンに手を伸ばす。
だけどどれだけ頑張っても、あと少しで届かない。
毎度恒例、購買での食料争奪戦。人混みの中に俺の小さい体は完全に埋もれていた。

もう少し前に進めたらな......。
そう思うが、前を陣取る男子生徒の背中が俺の行く手を阻む。横に行こうにも後ろに下がろうにも、気づいたら四方を長身の男どもに囲まれ動くことができない。

後ろの生徒が、購買の食料を目指して突進してくる。それに押され、俺はよろけてこけそうになる。

「わっ......え?」

瞬間、大きな掌が俺の体を支えた。傾いた体を優しい仕草で立て直し、その腕がそのまま俺を包み込んだ。

背中に温かい温度が触れたと思ったら、頭上からとんでもなくいい声が降ってきた。

「大丈夫か? 一条」

この声は......! それだけで、俺は後ろにいる彼が誰なのか分かる。 

「倉峰......!」

首だけ振り向かせると、そこにはやっぱり倉峰がいた。
倉峰は俺の体に腕を回し、周りから守るようにギュッと抱きしめた。

「ちょっ......」

倉峰のおかげで感じていた圧迫感は消えたが、その腕にすっぽりと抱えられている状態だ。周りには沢山の生徒がいる。しかも至近距離に。俺は慌てた。

「お前、弁当だろ! なんでここにいるんだよ」
「教室にいなかったからここだと思って迎えに来た。そしたら一条が男に囲まれていたから......つい我慢できなくて」

倉峰が俺を見てゆっくりと微笑む。

「っ......」

普段は真顔な倉峰が笑うと、破壊力がすごい。
目の前でその笑顔を向けられ、俺はポッと赤くなる。俺だけでなく、倉峰の珍しい笑顔に、食料争奪戦を繰り広げていた生徒たち、果ては売店のおばさんまで、はにかむようなその笑顔に見惚れ動きが止まった。

倉峰はそんな周りに不思議そうにしながら、スマートな所作で届かなかったコロッケパンを取ると、俺に渡した。

「ほら、これが欲しかったんだろ」
「ありがと......」

その所作もすごくかっこよくて、さらに頬が熱くなる。胸がキュンとなるのを感じながら、倉峰にお礼を言った。

別にっ俺の腕が短いわけじゃないし、倉峰の腕が長いだけだし。
悔し紛れに言い訳をして、俺はありがたく会計を済ませる。

そんな俺を大事そうに腕の中に抱え、倉峰はとても嬉しそうに、やっぱり破壊力のある笑顔を浮かべていた。






「へ~練習試合」
「ああ、明日の放課後なんだが......」

中庭のベンチに座り昼ご飯を食べていたら、剣道部の練習試合があると倉峰が話し出した。

「剣道の試合......」

そういや倉峰が剣道部なのは知ってたけど、試合してるとこ見たことないな......。
試合をしているところというか、倉峰が剣道をしているところを俺は見たことがなかった。

かっこよさそう......。
そう思って俺はハッとした。

違うから! 倉峰じゃなくて剣道がかっこいいってことだから!
心の中で否定して、一人であたふたとする。
そんな俺に、隣にいる倉峰が不思議そうな表情を浮かべた。

だけど、倉峰が剣道をしているところを見たことがないのは事実で。
見てみたいかも......純粋にそう思った。

「一条」
「なに⁉」

自分の思いに浸っていた俺は、名前を呼ばれて大きい声を出してしまう。

「実は......お願いがあるんだ」

倉峰が神妙な面持ちになる。
間を置く倉峰に、俺はゴクリと唾を飲む。すると意を決したように倉峰が口を開いた。

「応援に来てくれないか......?」

不安げに俺を見つめる倉峰。大きい体に見合わない、伺うような視線が可愛くて、自然と頬が緩んだ。

「いいよ」
「ほんとか!」

俺が頷くと、倉峰は顔を輝かせた。

ちょうど見たいと思ってたし......。そう考えていたことは内緒にする。
すると倉峰がそっと俺の手を握りしめた。

「一条が見に来てくれるんだ。絶対に勝つ......」

気合満々というように、倉峰がギュッと握った手に力を込める。
包まれる温かい手の温度に、触れているのは手のはずなのに、なぜか胸がジワリと熱を持った。

「......別に勝たなくてもいいよ」
「え......」

俺はそう返事をする。
勝たなくてもいいと言われた倉峰は、戸惑いの声を上げた。

「そっ、それは......興味がないということか?」
「そうじゃなくて......」

シュンと肩を落とす倉峰に、慌てて否定する。

「絶対勝つとかプレッシャーになるだろ。お前なら勝てると思うけどさ......別に負けたっていいってことだよ! お前が強いことには変わりないんだから。気楽にいけってこと」

俺が見に行くことで、倉峰に変なプレッシャーをかけたくない。
練習試合とはいえ、勝敗が決まるのは確かだ。ただでさえ緊張する中、倉峰には気負わずのびのびと試合をしてほしい。

俺は倉峰が剣道をしているところを見られたら十分だ。
すると、倉峰はフッと笑みを零した。

「一条のそういう相手を思いやれるところ、すごく素敵だと思う。大好きだ......」
「......へーそう」

どこか眩しそうに俺を見つめ、倉峰が目尻を下げる。棒読みで返事をすると、俺はコロッケパンに齧りついた。
多分頬が赤くなっているが、気づかないふりをする。

そんな俺の手を、倉峰は嬉しそうに、にぎにぎと握りしめていた。






そして次の日の放課後。


わっ......けっこうギャラリーがいるな。
ホームルームを終えて剣道場に来てみると、すでに結構な人だかりができていた。
女子生徒がほとんどだが、ちらほら男子生徒もいる。

どこら辺で見ようかと、いい位置を探していると。

「一条先輩ですよね?」

剣道着を着た男子生徒に声をかけられた。
『先輩』と呼ばれたので、どうやら下級生のようだ。

「おう! そうだけど......」
「あの僕、剣道部員で武田って言います。どうぞこちらへ」

返事をすると、笑顔になった武田くんが自己紹介をしてくれる。そしてどこかに案内するように歩き出した。
不思議に思いながらも、どうぞと言われたので、俺は武田くんの後に着いて行った。

案内されるまま剣道場の中に入る。古さを感じるが中は清掃が行き届いて、どこか神聖な雰囲気が漂っていた。

木の床に部員たちが並んで座っている。そしてその端にパイプ椅子が置いてあった。
そこの前で、武田くんが足を止める。

「一条先輩の席はここです」
「へっ⁉」

椅子に向かって手を差し出され、俺は驚いた声を上げた。

俺の席......? って、え、どういうこと!?
ギャラリーはみんな、開いている扉から中を覗いているし、剣道部の部員たちも床に座っている。何故、俺にだけ椅子が用意されているのだろうか。

「倉峰先輩から聞いてます! 今日は俺の大切な人が見に来るからよろしくって」

武田くんはにこにこしながら、どうぞ~と椅子に座るよう促してくる。

「おれのたいせつなひと............」
「はい!」

されるまま、俺はストンと椅子に腰を下ろした。
だが、武田くんの言った言葉を理解して、一気に恥ずかしさがこみ上げた。

「ち、ちがうっ‼ 違うから‼」

今はお試し期間であって、恋人(仮)のままだ。慌てて否定する。

いやでも、(仮)だけど......倉峰が俺のことを好きなのは事実だし、大切な人っていうのはあってる、のか?

なんだか訳が分からなくなって、一人でうむむと唸っていると、武田くんにポンと肩を叩かれた。

「大丈夫、分かってますから」

何を⁉
含みのある顔で微笑まれ、俺は心の中で叫ぶ。だけど怖くて聞き返すことができない。
背中に変な汗が流れるのを感じた。

「ていうか......よく俺のこと分かったな」
「中庭でご飯食べてるの見たことあるので!」

あつあつですね~と武田くんがニヤッと笑う。

「あんな優しい倉峰先輩初めて見ました。まあ普段から優しい人なんですけど、一条先輩といる時は雰囲気が甘いというか」
「そ、そうかな......」
「そうですよ!」
 
武田くんは強く頷いた。
倉峰が自分に甘い自覚はあったけど、傍から見てもそう感じるなんて。

「そっかぁ......」

俺の中に嬉しさがじわじわと広がっていく。
あいつ俺といる時、そんな顔してるのか......。
くすぐったいけれど心がほんわかと温かくなっていく。俺はフフッとはにかんだ。

「......ん?」

なんか視線を......。感じると思い、横を向く。
すると綺麗に整列を組んで床に座っている剣道部員たちが、興味津々といった様子でこちらを見つめていた。

「あの人が倉峰先輩の? え......なんか普通じゃね?」
「......とても愛らしくて可愛い人だって言ってたよな......どこら辺が......モガッ!」

ひそひそと話す後輩の口を、武田くんが手で塞いだ。

「バカ! 見た目じゃないんだよ! ハートだよハート!」
「............」

話していた二人を武田くんがたしなめる。

「一条先輩! 気にしないでください! ほら倉峰先輩って俺たち後輩の憧れだから、恋人さんって聞いて興味があるだけで! 先輩は十分素敵な人です!」

一生懸命弁解してくれてるけど、自分が一番俺の心を抉っていることには気づいていないらしい。

「......お気遣いなく」

俺はハハハと乾いた笑いを零した。自分が何の特徴もない、平凡顔なのには自覚がある。
そう返すと、武田くん含め後輩たちはホッと胸を撫でおろすように息を吐いた。

ていうか......倉峰の奴! 俺のどこが可愛くて愛らしいんだっ! 
そもそも倉峰が変なことを言うから、余計なところで変な汗をかく羽目になった。
まさか色んなところで言いまわってたりして......あいつ寡黙じゃなかったのか?

侍みたいな見た目のくせに、愛情表現はもはやスペイン人も真っ青だ。
向けられる後輩たちの、興味と羨望が混ざった視線を受け止めながら、俺は襲い来る羞恥心に堪える。

「先輩、始まりますよ」

武田くんに声をかけられ、視線を前に向ける。すでに両校が並んで整列していた。

倉峰を探すと、一番奥にその姿があった。
倉峰は俺を見つめていて、ドキンッと胸が跳ねる。

剣道着を身に纏った体は逞しく、背筋を伸ばした堂々とした姿は、立っているだけで絵になっている。思わず口からほうっとため息が漏れた。

倉峰は俺と目が合うと、口元を柔らかく緩め微笑んだ。
頑張って......! 俺は応援の念を倉峰に送る。

両校はお互いに礼をすると一番最初に戦う選手を残し、控えの場所に戻っていった。

「あれ? 倉峰が一番奥にいるってことは......あいつ大将なのか」
 
横に座っている武田くんに話しかけると強く頷いた。

「当たり前です! 倉峰先輩が一番強いんですから」

武田くんは倉峰の試合姿が見られるのが嬉しいらしく、今からすでに興奮気味だ。その興奮に釣られて、俺の胸もドキドキと高鳴ってくる。

倉峰が大将......俺、見に来てよかったのかな。
それと同時に、そんな心配が湧き上がる。
倉峰は『絶対勝つ』と言ってた、俺は気負って欲しくなくて勝たなくていいと答えたけれど......。
俺が見に来ていること自体が、倉峰の負担になっていたら?
心の中を過った心配が不安に姿を変えて、どんどん大きくなってくる。

うぅ......緊張してきた......。俺はギュッと膝の上で拳を握りしめる。
始まった試合を固唾を飲んで見守った。



試合は手に汗を握る展開だった。
まさに一進一退、二勝二敗で大将戦を迎え、これに勝った方が今日の勝者となる。

こ、こんな大事な場面で倉峰に......。
自分のことではないのに、俺の心臓は爆発寸前だ。祈るように手を組み、ジッと倉峰の姿を見つめる。

面をかぶった倉峰が前に出て、向かい合った両者がお互いに向けて礼をした。

倉峰が竹刀を構える。
一瞬俺の方に視線を向けた倉峰は、祈るように手を組む俺を見て、軽く頷いたような気がした。
まるで、大丈夫だと、俺を安心させるように。

すぅーと倉峰が息を吸う。

「始め!」

主審の声が響いた瞬間、倉峰の雰囲気が変わった。

体から立ち昇るように気迫が溢れ出し、空気がビリッと震える。その迫力に相手だけでなく、その場にいる皆が息を飲んだ。

飲み込まれまいと相手が竹刀を振り上げ、大声を出しながら斬りかかった。
それを倉峰が音も立てず、舞うような美しい仕草で華麗に避ける。相手は片足を踏ん張ると、すぐに倉峰の方に向き直った。

高く竹刀を構えた倉峰に対し、開いている脇腹を狙って相手が胴を放つ。

勝負は一瞬だった。

その切っ先より早く、目にも止まらぬ速さで、相手の懐に上段を構えた倉峰が踏み込む。

「面――‼」

声とともに、倉峰が竹刀を相手に向かって振り下ろした。
あまりの速さについていけなかった相手は、無防備にも見えるほど簡単に竹刀を頭に受け、面の強さに膝をついた。

シンと周りが静まり返る。

「一本!」

主審から勝敗を決める言葉が出る。それをきっかけに拍手が響き渡った。

試合終了とともに、倉峰から立ち上がっていた殺気のような気迫が消え、いつもの穏やかな表情に戻る。手を差し伸べると、倉峰は膝をついた相手を起こした。

「さっっすが倉峰先輩~~‼ かっこよすぎます‼」

大きな拍手を送りながら、後輩が小さい声で興奮して呟く。

「ねっ、一条先輩! ......先輩?」

声をかけられるが俺は返事を返せない。いやできなかった。

かっこいい......。
心が掴まれて、ずっと倉峰から目が離せなかった。

気迫が溢れる姿、華麗すぎる面一本。まるで本物の侍のような美しすぎる太刀さばき、そのすべてに声も出せないまま見惚れていた。

さっきまでの不安なんて、ただの杞憂でしかなかった。そう痛感するほど、倉峰は強かった。

いつのまにか両校の挨拶が終わり、各々が防具を脱いでいた。

俺の視線は相変わらず倉峰を追う。倉峰は面の紐を解き、それを脱いだ。
汗で張り付いた髪を、頭を軽く振って払う。
額にはうっすらと汗が浮かび、まだ気迫の余韻が残る真剣な表情が露わになる。

先ほどの剣さばきと同じぐらい美しく、端正な男らしさに、ますます俺の瞳は釘付けになった。

倉峰はすぐに俺の方に視線を向けた。
バチッと目が合って俺は慌てた。

あ......見惚れてたのバレる......。

目が合うと、倉峰はとてもとても嬉しそうに微笑んだ。

「っ......」

今までにないぐらい、全身にときめきが駆け抜ける。
射抜くような瞳に見つめられ、俺は視線を受け止めきれず俯いた。

胸が......。
苦しいぐらいに高鳴っている。

ふと、誰かが近づいた気配がする。

「一条」

呼ばれた声に、それが誰だかすぐに分かる。
穏やかで凛とした大好きな声。その声に、隠しきれない甘さが溶けている。

顔を上げると、声に負けないぐらい、愛しさを瞳に浮かべた倉峰がいた。
倉峰はしゃがむと、俺と目線の高さを合わせる。

そしてそっと俺の両手を包み込んだ。

「応援ありがとう。一条がいてくれたから、いつも以上に実力が出せた」

くしゃっと目を細め、照れるように倉峰が笑った。
ふわっと優しい空気が倉峰から流れて、それが俺を包む。

なんで......こんなに優しいんだ。
きっと俺がいなくても勝てた。俺がいるせいで負けたらどうしよう、なんていう不安も自惚れ以外のなにものでもなかったのに。

だけど、倉峰は言ってくれるんだ。
俺がいたから、勝てたって――。

ときめきはいつまでも収まらない。それどころかどんどん俺の中で広がっていくようだった。
心が切ないのに、温かい。

目の前の世界が、目の前の倉峰が、一気に色づいてキラキラと輝きだす。


俺、倉峰のことが......好きだ。


倉峰の手をギュッと握り返した。うんと頷いて、倉峰に笑顔向ける。

倉峰の瞳が甘く蕩けて、俺たちはまるでお互いしか見えないように見つめ合っていた。



それを見つめている人影があることに気づかないまま。