その声で囁くな!

倉峰剣道場と書かれた看板がかかった堂内で、一心不乱に竹刀を振る男の姿があった。

俺――倉峰大和は自宅にある剣道場に一人立っていた。
何故、就寝前にも関わらず、竹刀を振っているのか。それには訳があった。

愛用の竹刀を握りしめ、精神を統一する。
瞳を閉じ、静かに呼吸を繰り返した。

「ふんっ......!」

気合の入った声を出し、俺は竹刀を振り下ろす。切っ先に集中し素振りを繰り返した。
小さい頃から剣道をしている俺にとって、素振りは日課の一つだ。
今日の分はもうとっくに終わらせていた。

そんな俺が、竹刀を握っている理由はただ一つ。

ああ......一条、なんて可愛らしい!

俺の脳裏に、先程電話の向こうにいた一条の可憐な姿が浮かぶ。

明るく小気味よい返事に、ころころと変わる表情。そのすべてが俺にとって好ましく、愛らしくて堪らない。
一条の笑顔を思い浮かべ、ほうとため息が漏れた。

古い木の香りがするここは、俺の実家にある剣道場だ。家族も、母親以外は剣道を嗜んでいる。昔は門下生などを取っていた時期もあったが、父親がサラリーマンの職に就き、忙しくなってからはそれもなくなった。
今はもっぱら俺の練習か、たまに剣道教室を開いたりするくらいになった。

俺は剣の道とともに、祖父に礼儀と礼節を叩き込まれた。
常に冷静に、どんなときでも動じない強靭な精神。剣道の腕が成長するとともに、俺はそれを手に入れたと思っていたが。

「..................」

気を抜くとすぐに、一条のことを考えてしまう。
特にここ数日で、今まで知らなかった一条の一面や表情を多く見ることができて、胸のときめきが抑えられない。

特に先ほどの電話。
あれは反則だ......。

好きな人との初めての電話。貴重なパジャマ姿。そのすべてに胸が高まって、止まる様子がない。思い出すだけで胸がじわりと熱くなり、竹刀を握る手まで熱を帯びる。

煩悩まみれの思考を少しでも落ち着かせるため、俺はこうやって竹刀を振っている。

でも、仕方ない......。
素振りに集中しようとするが、頭の中はすぐに可愛い一条が占拠する。
 
ずっと好きだったんだ......一条のことが。

思い続けた相手と、お試しとはいえ付き合えていることが、とてつもなく嬉しい。
信じられないぐらい幸せだ。

俺は動きを止めて、息を吐く。
額に滲んだ汗を拭いながら、初めて一条と会った日のことを思い出していた。






 * * *






困った......。

入学式も終わり、俺は家に帰ろうとしていた。
だが、もう少しで校門に辿り着く......その一歩手前で足を止めていた。

その原因は。

「倉峰くぅ~ん、高校も一緒になれて嬉しい」

俺の右手に腕を回し妙に高い声を出す彼女が、俺を捕まえてずっと離してくれないからだった。

「いや......あの......離れてくれると助かるのだ......」
「なぁに~倉峰くん!」

俺の言葉は、張り付いたような笑顔を向ける彼女の声に遮られる。

彼女は中学も同じ同級生だ。俺に好意を寄せてくれているらしい。
こんな面白味のない自分に、好感を持ってくれるなんてありがたいことだと思う。

「このあと一緒にお茶でもどうかな?」
「すまん。俺は帰って日課の素振りを......」
「えーそんなのいいじゃんー」

だが彼女は如何せん押しが強く、俺の話を全然聞いてくれない。
毎日欠かさず続けている鍛錬を、そんなのと言われ俺は密かにため息を吐いた。

どうも......苦手だな。

中学の頃からこの手の誘いは何度も受けているが、彼女は自分の要求や話ばかりを押し付けて、俺の予定などお構いなしだった。
何度も付き合うことはできないと、俺なりに傷つけないよう伝えてきたつもりだ。
それでも彼女は一向に聞く耳を持ってくれなかった。

絡められている腕を解きたいが、力づくで振り払うわけにもいかない。昔から祖父に、男たるもの女性には優しくするべし、と教えられている。
何かいい方法はないかと、周りを見渡して頭上に咲く花に目を向けた。

「桜......」
「え⁉ ああ、きれいね~」

俺はわざと話を逸らす。
彼女の注意が桜に向いた隙に、素早く体を離した。

「それじゃあ」
「ちょっ! 倉峰くん‼」
そう言って踵を返そうとする。だけど彼女が俺の鞄を掴んだ。

「え~どこ行くの~」

掴んだ鞄を彼女が乱暴に引っ張る。可愛い声を出しているが目が笑っていない。

さすがにここまできたら迷惑だな......。

そう思うが、女性と付き合ったこともなく免疫もない俺は、上手い対処法が思いつかない。どうしたらいいか分からず、深いため息を吐いた。

その時。

「いや~ごめんごめん!」

後ろから男性の声が聞こえた。そちらを振り向くと、俺と同じ制服を着た少年が立っていた。

「待たせた? 悪かったな」 

彼は笑いながら、俺と彼女の間に入ってきた。その拍子に彼女の手が鞄から外れる。

「ちょっと俺、こいつに用事があるんだよね~だから今日はごめんね」

彼が手を合わせて彼女に謝る。急に現れた男に、あっけに取られ彼女の動きが止まった。

その隙に彼が俺の手を掴み、顔を寄せる。

「困ってるんだろ、俺に合わせて。この隙に逃げるぞ」

小さな声で彼がそう言った。

「じゃっ!」

屈託のない笑顔を浮かべると、彼は俺の手を握りしめる。

「走れ」

呟いた彼の声とともに、一緒に走り出した。
校門を抜け、駅とは反対方向に曲がる。彼に手を握られたまま、俺は走り続けた。

学校から少し離れた場所に公園があって、そこで彼は足を止めた。

「ここまできたら大丈夫かな......」

言いながら彼は額に滲む汗を拭い、ハアハアと荒い息を吐く。対して少しも息が切れていない俺に。彼はハハッと笑った。

「すごいな、結構走ったのに息切れてないじゃん。なんか鍛えてんの?」

そう聞かれるが、俺は彼が握った自分の手をジッと見つめていた。

「どした......?」

彼が不思議そうに視線を向ける。
だけど、俺の手を握りしめていることに気づいて、パッと手を離した。

その頬が赤く染まる。

「ご、ごめん......」

恥ずかしそうに彼が手を引っ込める。
離れた手に、何故か寂しいと感じた。

「あのさー」

雰囲気を変えるように、彼がコホンと咳払いする。

「あんたイケメンだからモテるのも分かるし、はっきり断らないのは優しさなのかもしれないけど」

彼がまっすぐに俺を見つめる。小柄な彼が俺を見つめると自然と上目使いになって、それがとても可愛い。
胸がとくんと鼓動を刻んだ。

「本当に相手のためを思うなら、しっかり振って区切りつけてやらないと! 次に進めないだろ」
「............」

彼の言葉が、ストンと俺の心に落ちてくる。

「分かった?」

念を押すような彼に、俺は素直にうんと頷いた。

「よしっ」

俺の返事に彼が明るい声を出す。
小柄な彼が背伸びをし手を伸ばした。自然と近づいた距離にドキッと胸が跳ねた。

彼は腕を伸ばして俺の頭を撫でた。
そして、ふわりと笑顔になった。

「っ......」

俺は息を飲む。まるで雷に打たれたような衝撃が体に走った。
驚いたような俺の反応に、ハッとして彼が慌てて手を引っ込めた。

「あっ俺、下に妹がいるからつい......」

自分の行動に照れたように、彼が頭の後ろを掻く。

「とりあえず、そういうことだからっ! じゃあな」
「あ、......」

それだけ言うと彼は俺に背を向けて、来た道を走っていった。

俺は一人その場に残される。

礼を言えなかった......。
彼が走り去っていった道の先をジッと見つめる。困っていた俺を、彼は気を利かせて助けてくれた。なのに自分は、礼も伝えられなかった。

軽く波打つだけだった心臓が、今は激しく音を鳴り響かせている。
名前も聞きたかったな......。

優しく頭を撫でる彼の手の感触と、ふわりと笑った笑顔が蘇る。それを思い出し、胸の奥深くに初めての感情が点った。

それはとても温かく、とても大事にしたい気持ちだった。

彼の言葉を、心の中で繰り返す。
そうか......相手を思うなら、はっきりと断ること。それが本当の優しさか。

心の底からハッとした。
傷つけないことが優しさだと思っていた俺には、とても考えさせられる言葉だった。

彼は助けてくれた時も、俺にも彼女にも配慮をした対応をしてくれた。
さっきの言葉を伝える時も、俺の気持ちを考えて前置きを置いてから伝えてくれていた。

とても相手のことを考えられる人なんだな......。
 
そしてとても、可愛い人、だった。
彼の笑った顔が忘れられない。

もっと色んな顔が見たい。もっと触れてみたい。
そう思った自分にびっくりする。

誰かにこんな気持ちを抱いたのは初めてのことだった。

春の風が心地よく頬を撫でていく。緑と花の瑞々しい香りが、とても心地いい。
それはまるで、新しくスタートを切る俺を祝福しているようで。

波打つ心臓を抱えたまま、彼と繋いでいた方の手を俺はギュッと握りしめた。


 
 * * *



古い木の匂いがする剣道場で、昔を思い出していた俺の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。

あれから彼にもらった言葉をしっかり考え、はっきりと彼女に付き合うことはできないと伝えた。
彼女はショックを受けていたが、ちゃんと伝えることこそが相手への礼儀だと、俺は彼の言葉から学んだのだ。あとは彼女が前に進めることを祈ることしかできない。
 
そして俺は彼を探した。

同級生だということが分かっていたので、彼の姿はすぐに見つけることができた。視線で追っているうちに、名前もすぐに知ることができた。

一条桃哉。
彼の名前を知れた時は本当に嬉しかった。

いつも明るくて、ころころと表情の変わる一条を見ているのはとても楽しかった。どれだけ見ていても、見飽きることがない。
 
一条を見ているだけで微笑ましくて温かい気持ちになる。
それと同時に胸が熱くなり、ドキドキと鼓動が高鳴る。

一条のことを好きだと自覚するのに、そんなに時間はかからなかった。

何度も声をかけようと思ったが、一条を前にすると緊張して動けなくなる。
だけど話したくて触れたくて堪らない。
恋愛経験ゼロの俺には、どうやって距離を縮めたらいいか分からず、何もできないまま一年が過ぎ二年になった。

たまたま部室に荷物を取りに行った帰りに、本校舎から歩いてくる一条を見つけて、この時間に彼がここを通ることを知った。

これは......! 話しかけるチャンスかもしれない。
そう考え、翌週三時間目が終わると部室に身を潜めた。そして部室から出てくるフリをして、一条の横を通り過ぎた。

しかし声をかけると、心に決めて挑んだのに、至近距離で一条を見たら可愛すぎてドキドキして、見惚れているうちに横を通り過ぎてしまった。

次こそは!と、同じことを繰り返したが、何度横を通っても声をかけることはできなかった。

好きな人を目の前にすると、剣道で身に着けた強靭な精神も、まったく役に立たない。
このままでは、ただ時間が過ぎていくだけだ。俺は内心焦りを感じていた。

だから、図書室で一条の姿を見つけた時は、気持ちを抑えることができなかった。
自分でもあんな大胆なことができたんだと驚いた。 

そして今、思い続けた一条と俺は付き合っているのだ。
 
顔が自然とにやける。俺は竹刀を握り直し、ぐっと顔を引き締めた。
再度精神を統一すると素振りを開始する。

本当に夢のようだ。
そして一条を知る度に、もっともっとと欲が深くなる。
もっともっと俺のことを好きになって欲しい。

自分がこんなに欲深い人間だったなんてな......。
だが、同時に一条のことを可愛がって大切にしたい。どんなことからも守りたい、という愛おしい気持ちも止まらなくて。

これが人を愛するということか......!

俺は一心不乱に竹刀を振り続ける。

「一条......好きだ! 絶対身も心も手に入れてみせる......」

結局どれだけ竹刀を振っても、俺の煩悩まみれの思考は止まることがなかった。