授業も終わり、放課後。
「............」
俺は図書室の前にいた。
ついに......来てしまった!
この扉の向こうに、あの声の主がいる。そう思うと、古ぼけた引き戸が、新たな世界を開く扉に見えて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
ホームルームが終わり、いつも通り帰宅の途に着こうとした。だけど、俺の足は気づけば勝手に図書室に向かっていて、気づけばこの場所に来ていた。
もちろん、お目当ては大好きな声の持ち主である『彼』だ。
今までは聞くだけで十分満足していた。
だけど、今日は特に癒し効果を強く感じ、声の主はどんな人なんだろう、と興味が湧いてしまった。
それに、彼は男性だ。同性同士なんだし、普通に知り合いぐらいにはなれるかもしれない。そしてあわよくば友達になることだってできる。
そうなったら......あの声聞き放題じゃん。
仲良くなって彼と喋っているところを想像し、にへへと頬が緩む。一頻りにやにやしてから、俺はハッと我に返った。
自分しかいない廊下で、きょろきょろと周りを見渡しコホン、と咳払いする。
いやいや! けっしてやましい気持ちはないぞ! 俺は純粋に彼の声が好きなんだから 下心なんて、ない......いや全くないかと言われると自信はないが。
深く息を吸い、気持ちを落ち着かせるように大きく吐き出す。
よし! いくぞ! 気合を入れ、そっと目の前の扉を開いた。
ガラガラという音を響かせ、緊張しながら図書室の中に入る。
古い本特有の、湿気を含んだ紙の匂いが鼻腔を擽る。普段は読書をする習慣はないが、図書室に来ると、どこかノスタルジックな懐かしい気持ちがするのは何故だろうか?
そんなことを考えながら、歩を進めた。
「あれ......?」
キョロキョロと周りを見渡すが、室内に人の気配がしない。
「お待ちしています」って言ってたから、いるはずなんだけど......
窓から差し込む夕方の陽光が、誰もいない貸出カウンターを柔らかく照らしていた。
離席中かな? 中の様子を伺うように、奥に並ぶ本棚の方に顔を向ける。
「あっ......」
その中に、『図書委員のおすすめ』というコーナーを見つける。
「これ......いつも放送で、紹介してるやつだ......」
自然と顔に笑顔が浮かぶ。俺は目を輝かせ本棚に近づいた。
棚の一番上にある、おすすめコーナーには、二十冊ほどの本が並んでいた。
あの人がすすめてた本ってどれだっけ......?
背表紙を見つめながら、昼の放送を思い出す。
「これかな?」
なんとなく、聞いた覚えのある本を見つけ手を伸ばす。だが、俺の身長ではギリギリ手が届かなかった。
「............」
小柄な自分の身長に、ため息を吐きながら、目当ての本に向かって思いっきり背伸びをする。指先が背表紙の端に触れた。
あ、もうちょっとで届きそう......もう一息と、グッと体を伸ばした。
「これか?」
「っ!」
耳元で男性の声が聞こえた。その声にビクッと体が反応し、胸が甘く高鳴る。
横から手が伸びてきて、取ろうとしていた本を軽々と本棚から引き出す。頭上を通り過ぎていく本を、無意識に視線で追っていると、体が大きく傾いた。
「わっ......!」
バランスを崩し、後ろに倒れそうになる。コケる! 俺は目を瞑った。
だが、来ると思っていた衝撃は来ず、なんだか温かいものが背中に触れる。それは俺をすっぽりと包み込んだ。
体に腕が回され、誰かに抱き留められていることに気づく。
「すっ、すみません!」
俺は慌てて謝ると離れようとした。
しかし、何故か回された腕が、引き止めるように俺をギュッと抱きしめる。
触れる相手の体はとても逞しく、布越しでもしっかりと筋肉がついているのが分かった。あまりに男らしい体に、同じ男ながらドキッとしてしまう。
「大丈夫か?」
再度聞こえた声に、鼓動が波打った。耳がその声を聞けて喜んでいるのが分かる。
脳の中に直接響いてくるような甘い声。気づいたら俺は、うっとりと目を閉じてそうになっていた。
低くて男らしい。でも優しく甘い、彼の声――。
この声! もしかして。
探していた『彼』が......そこにいる。
ドキドキと鼓動が鳴り響く。口から飛び出そうな心臓を押さえ、俺は意を決して後ろを振り返った。
そして。
「え..................?」
絶句した。
そこには、俺を怖がらせ、憂鬱な気分にさせた張本人。
倉峰大和がいた。
「えっ? 倉峰......?」
思いもよらない人物の登場に、口から戸惑いの声が漏れる。
ど、どうして! 倉峰がここに......!?
突然現れた倉峰に、頭の中が真っ白になる。俺の頭の中から『彼』のことが、一瞬で抜け落ちた。
目が合い条件反射で、睨まれるっ! と身構えた。
だけど、それとは裏腹に、倉峰は俺を見て嬉しそうに笑った。
「俺の名前......知ってくれていたんだな。一条」
「一条」――そう呼ばれて、びっくりする。
そっちこそ! なんで俺の名前知ってるんだよ!
そう言いたいが、喜びを顔に浮かべて、目を細める倉峰に慣れなくて声が出せない。
呆然と見つめ返していると、倉峰が本棚から取った本を差し出した。固まっていた俺は、ハッとしてそれを受け取る。
「ありがと」
今度はどうにか返事を返せてホッとする。
「それ、おもしろい。俺のおすすめだ」
「ああ......そうなの?」
倉峰がトン、と本の表紙に指先で触れた。
「そうだ」
「......そう」
なんと返したらいいか分からず、とりあえず頷く。
よく分からないが、倉峰は機嫌が良さそうだ。自分のおすすめの本に、他人が興味を示したのが嬉しいのだろうか? 理由が分からず心の中で首を傾げた。
そして、倉峰は俺を見つめたまま黙り込んだ。
二人の間に沈黙が流れる。
......この状況はまずいのではないだろうか?
今までは辛うじてすれ違うだけで済んでいたが、まさかこんな場所で鉢合わせするなんて。しかもこんな二人きりの状況で。
どうにかこの場を無事にやり過ごし、すぐにでも逃げ出したい。だが、倉峰は俺の前に立って全然どいてくれない。
「えっっと......あの......」
こうなったら強行突破しかない! 俺は倉峰の体と本棚の間から、抜け出そうとした。
「っ......!」
しかし動こうとした先に、倉峰の腕が伸びてくる。まるで行く先を塞ぐように、本棚に手をついた。
え? と思っているうちに、もう片方の手も本棚につかれる。
俺は倉峰の両腕に挟まれ、逃げ場を失ってしまった。
「ちょっ? 倉峰......?」
行く先塞がれた⁉ 口から焦った声が出る。
不自然な倉峰の行動に、タラリと背中に汗が流れた。
上を見上げると、倉峰がいつもの獲物を狙う肉食獣の瞳でこちらを見ていた。それに本能的な恐怖がこみ上がる。
「こんなところで......二人きりになれたのも、何かの縁だ」
「倉峰? え、ちょっと待って......!」
低くなった声に、反射的に後ずさる。
だけど、すぐに本棚が背に当たり、これ以上後ろに下がれないことを悟る。
「待てない」
焦れるように倉峰は、離れた分だけ距離を詰めた。
ちょっと! うそ! 待って待って待ってぇ~~
本棚と倉峰の体に挟まれ、俺は完全に捕食されるのを待つだけになってしまった。
傍から見れば、イケメンに壁ドンをされているという、女子なら一度は体験してみたい状況だろう。
だけど、肉食獣に睨まれるウサギ状態(しかも逃げ場なし)の俺からしたら、恐怖以外の何物でもなかった。
「一条......」
呼ぶ声に、揺さぶられるように鼓動が跳ねる。
目の前に倉峰の顔があった。こんなに近くで顔を見たのは初めてだ。
ヨーロッパの絵画のように、綺麗に整った容貌。
倉峰の顔は、イケメンという言葉が陳腐に感じられるほど造形美に溢れていた。
迫力のある美貌に、今の状況を忘れ見入ってしまう。
切れ長の瞳は意思の強さを秘めていて、一度目が合うと、視線が逸らせなくなるような吸引力を持っていた。男らしさを感じさせる端正な顔立ちに、同性でありながら、胸がドキドキと激しく音を立てるのを止められない。
倉峰の瞳に、どこか熱が浮かんでいるのに気づいて、俺はその場に貼り付けられたように動けなくなる。
「好きだ」
「え......?」
一瞬、何を言われたのか分からない。
好きって、何を......?
言葉としては分かるけど、どういう意味で倉峰が言っているのかが分からなくて首を傾げる。呆然と目を瞬かせていると、倉峰が俺の手を取り、甲にくちづけた。
「愛してる。一条......」
「っ......」
どくんと大きく鼓動が高鳴った。
熱がこもった言葉に、脳がくらりと揺れる。これが自分に向けての愛の告白だと自覚して、大きく息を飲んだ。
手の甲に言葉とともに倉峰の息がかかって、俺はビクッと肩を跳ねさせた。
倉峰の唇が触れた場所が急激に熱くなっていって、顔がどんどん赤くなるのが分かる。
不意に倉峰の手が、そっと俺の頬を包み込んだ。
愛しげに目を細め、優しく微笑む。
「俺と結婚を前提に付き合ってくれ」
耳に心地いい、低音の甘い声でとんでもないことを囁かれる。
脳の中に直接響くようなその声に、胸がキュンと甘くなった。
思わずうっとりと頷きそうになり――思いっきりハッとした。
結婚を前提に......付き合う⁉ 俺たちまともに話したの今日が初めてなのに? ていうか、こいつ俺のこと......愛してるって......‼
「え? えぇっ......ええええええぇーーーー‼」
静まり返った図書室の中に、困惑と戸惑いに満ちた俺の叫び声が大きく響いた。
図書室には人影が二つだけ。
一つの人影は呆然と目の前の人物を見上げ、もう一つは両手を本棚につき、見上げる人影を腕の間に閉じ込めていた。
窓の外は日が傾きだし、そろそろ夕暮れの終わりを告げている。
冬の風に葉を落とした木の枝は揺れ、校庭からはかすかに部活動に励む生徒たちの声が聞こえてくる。
窓の外にあるのは、いつも通りの日常の風景。
だけど俺は今、自分の身に起こっていることが信じられずにいた。
「ど、どういうこと......?」
純粋に訳が分からなくて、倉峰に疑問を投げかける。
「一条のことが好きだと言っている」
「すき? おれを?」
「そうだお前のことが好きだ」
「っ~~」
何度も好きだと繰り返されて、じわじわと倉峰に告白されている現実を受け止める。
自覚した途端に羞恥がこみ上げ、俺はあっという間に赤くなった。
すると、倉峰が嬉しそうに目を細める。
「赤くなった一条も、可愛いな」
もっと見たいというように、倉峰が顔を近づけてくる。間近でとんでもないイケメンにストレートに可愛いと言われ、俺は堪えられず俯いた。
倉峰に告られた......んだよな? しかも結婚前提で......。
えっ? 結婚前提!? あまりの状況に俺はパニックに陥る。
全身が心臓になったように、大きな音で鼓動が鳴り響く。
俺は真っ赤になりながら、気持ちを落ちつかせようと深く息を吸う。
「いちじょう......?」
「ぴゃぁっ......」
動かなくなった俺を不思議に思い、倉峰が耳元で名前を呼んだ。告白の余韻が残る無駄に熱っぽい声に、変な叫び声が漏れた。
低く凛とした倉峰の声。
俺の大好きな『彼』の声に、今日はとんでもない甘さが含まれている。
そう思った自分にハッとした。
この声......やっぱり!
俺は倉峰に確認しようとする。
「どうした? そんな可愛い声出して......」
「~~~~」
だが引き続き耳元で囁かれ、俺は漏れそうな叫びを必死で堪えた。
これはもう倉峰に聞くまでもない。
間違いなく『彼』の正体は、今目の前にいる倉峰大和だ。
嘘だ! そんな......倉峰が声の主だったなんて......。
衝撃的事実の発覚に動揺が走る。
混乱する俺をよそに、倉峰は何が嬉しいのか、ずっと微笑をたたえている。
「一条?」
相変わらず耳の近くで喋る倉峰。勝手にうっとりしそうになり、慌てて耳を両手で塞いだ。
「可愛い声なんて出してない! それで言ったらお前の声の方がっ......!」
息も絶え絶えに言い返す。
「ん......? 俺の声がどうかしたか?」
だからだめだって‼ 優しげに覗き込まれ、俺は心の中で叫び声を上げた。
顔を上げたら目の前には整った美貌が広がり、喋られたら胸が勝手にキュンとしてしまう。
もはやどうしたらいいか分からなくなった俺は、一旦倉峰から離れようと考える。
「一条......」
「ちょ、倉峰......一回離れて!」
耳を押さえながら叫ぶ。
「..................」
どこか落ち着かない様子の俺を、捕食前の獲物を品定めするように、倉峰が上から下まで見つめる。
そして、押さえた両手の隙間から見える、真っ赤な俺の耳に気づいて口元をさらに緩めた。
「一条、もしかして......俺の声が、好きなのか?」
いきなり核心を突かれ、動揺で飛び上がりそうになった。
「ち、違う!」
慌てて否定するが、倉峰は納得するように頷いた。
「いや、違わない。一条は今、耳元で聞こえた俺の声に照れている。ずっと見てきたんだ。俺が一条の反応を間違えるわけがない」
真面目な顔で話す倉峰に、言われた通り照れてしまい、ますますどうしたらいいか分からなくなる。
「もうっいいから! いい加減離れろよ‼」
とうとう俺は恥ずかしさのあまり、手足をじたばたと暴れさせた。本人から声が好きだという事実を突きつけられ、半ば涙目になる。
だけどそんな俺に、倉峰は整った顔を崩れさせた。
「とても可愛い。一条が俺の声を好きだと言うなら、いくらでも愛を囁こう」
「~~~~~~」
しまいには、とんでもないことを倉峰が言い出す。
声が聞けるのは嬉しい。図書室に入る前は、彼と話せたらいいな、なんて思っていた。
だけど! 俺が想像してたのは、会話であって、愛の言葉ではない!
何だか話が通じない。これは本当に、あの穏やかでクールな倉峰大和なのだろうか。
今の倉峰はもはや、ブレーキを失った暴走列車のようだ。
埒があかない。俺は力づくで倉峰を離そうとする。
目の前の体を力いっぱい押し返すが、ピクリとも動かなかった。
それもそのはずである。倉峰の体は服の上からでも分かるほど逞しい筋肉に覆われていて、その腕は俺の倍ほどに太かった。
くそ! さすが剣道都大会一位......無駄に鍛えやがって‼
そのあまりに見事な筋肉に、一瞬状況を忘れ、俺は惚れ惚れとしてしまう。
「可愛い、好きだ、一条......心から愛している」
だが次の瞬間、宣言通り愛を囁きだした倉峰に、すぐ見惚れたことを後悔する。
「なんでだよお前! 俺のこと嫌いなんじゃないのかよっ‼」
頭上から降ってくる甘い声に、ときめきが致死量を超えそうになり、俺は必死で言い募る。すると倉峰は心底不思議そうに首を傾げた。
「何故だ? 嫌ってなんかいない。嫌いなわけがない。愛してるとさっき言ったのに伝わっていなかったか?」
「だって! 渡り廊下ですれ違うたび、俺のこと睨んでるだろ......!」
俺はなけなしの気力を振り絞って、倉峰をキッと睨みつけた。
毎週毎週、飽きもせず俺を睨んでくること! 忘れたとは言わせないからな!
だが、それにも倉峰は怪訝そうに眉を寄せる。
「睨む......? 何のことだ。俺は可愛い一条を目に焼き付けたくて、必死で見つめていただけだ」
「............」
その言葉に、俺は驚愕する。
まさかあれって......睨まれてたんじゃなくて、見つめられてたのか?
確かに倉峰は姿を現した瞬間から、すれ違うギリギリまで俺を見つめていた。
でもまさか、好きだから俺を見つめてたなんて.....思うわけないだろ‼
色んなことが一気に起こりすぎて、頭の中の処理が追いつかない。
こんなに短い時間で、感情が大きく動くのは初めてで。もはや考えることを放棄しそうだ。
「一条......」
あたふたしていると、倉峰に名前を呼ばれて俺はビクッと体を跳ねさせる。
恐る恐る顔を上げると、倉峰の意志の強い瞳が、俺を正面から見つめていた。
その目には、隠しきれない俺への愛が浮かんでいて。
「で、俺と結婚を前提に付き合ってくれるか?」
至極、真剣な瞳で倉峰がそう告げる。
学校一のイケメンから、人生初の壁ドンをされ、人生初の愛の告白をされた。
しかも結婚前提というオプション付き。
どんな状況だよ、これ......? そう思うけれど。
俺にお付き合いを申し込む倉峰の瞳が真剣で、声があまりにも魅力的で、心が勝手に甘くときめいてしまう。
「と、とりあえずお試しで......」
気づいたら、そう言っていた。
俺の返事に、倉峰は弾けるように満面の笑顔になった。
俺は平凡を絵に書いたような男子高校生だ。
漫画のように華やかな高校生活に憧れながらも、身の程は弁えているので、ありきたりな学園生活を自分なりに楽しんでいた......はずだった。
まさか自分に、こんな天変地異のようなことが起こるだなんて――。
教室のスピーカーから流れてくるだけだった些細な彩り。それが今、息遣いさえわかる距離で愛を囁く。
倉峰大和が、これから俺の世界を鮮やかに染め変えていくことに、
この時の俺は、まだ気づいていなかった。
俺は無事に、探していた大好きな声の主『彼』を見つけ出すことができた。
それと同時に、その『彼』と、友達をすっ飛ばし、恋人(仮)になった。
こうして俺たちのお試し交際が始まった。
「............」
俺は図書室の前にいた。
ついに......来てしまった!
この扉の向こうに、あの声の主がいる。そう思うと、古ぼけた引き戸が、新たな世界を開く扉に見えて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
ホームルームが終わり、いつも通り帰宅の途に着こうとした。だけど、俺の足は気づけば勝手に図書室に向かっていて、気づけばこの場所に来ていた。
もちろん、お目当ては大好きな声の持ち主である『彼』だ。
今までは聞くだけで十分満足していた。
だけど、今日は特に癒し効果を強く感じ、声の主はどんな人なんだろう、と興味が湧いてしまった。
それに、彼は男性だ。同性同士なんだし、普通に知り合いぐらいにはなれるかもしれない。そしてあわよくば友達になることだってできる。
そうなったら......あの声聞き放題じゃん。
仲良くなって彼と喋っているところを想像し、にへへと頬が緩む。一頻りにやにやしてから、俺はハッと我に返った。
自分しかいない廊下で、きょろきょろと周りを見渡しコホン、と咳払いする。
いやいや! けっしてやましい気持ちはないぞ! 俺は純粋に彼の声が好きなんだから 下心なんて、ない......いや全くないかと言われると自信はないが。
深く息を吸い、気持ちを落ち着かせるように大きく吐き出す。
よし! いくぞ! 気合を入れ、そっと目の前の扉を開いた。
ガラガラという音を響かせ、緊張しながら図書室の中に入る。
古い本特有の、湿気を含んだ紙の匂いが鼻腔を擽る。普段は読書をする習慣はないが、図書室に来ると、どこかノスタルジックな懐かしい気持ちがするのは何故だろうか?
そんなことを考えながら、歩を進めた。
「あれ......?」
キョロキョロと周りを見渡すが、室内に人の気配がしない。
「お待ちしています」って言ってたから、いるはずなんだけど......
窓から差し込む夕方の陽光が、誰もいない貸出カウンターを柔らかく照らしていた。
離席中かな? 中の様子を伺うように、奥に並ぶ本棚の方に顔を向ける。
「あっ......」
その中に、『図書委員のおすすめ』というコーナーを見つける。
「これ......いつも放送で、紹介してるやつだ......」
自然と顔に笑顔が浮かぶ。俺は目を輝かせ本棚に近づいた。
棚の一番上にある、おすすめコーナーには、二十冊ほどの本が並んでいた。
あの人がすすめてた本ってどれだっけ......?
背表紙を見つめながら、昼の放送を思い出す。
「これかな?」
なんとなく、聞いた覚えのある本を見つけ手を伸ばす。だが、俺の身長ではギリギリ手が届かなかった。
「............」
小柄な自分の身長に、ため息を吐きながら、目当ての本に向かって思いっきり背伸びをする。指先が背表紙の端に触れた。
あ、もうちょっとで届きそう......もう一息と、グッと体を伸ばした。
「これか?」
「っ!」
耳元で男性の声が聞こえた。その声にビクッと体が反応し、胸が甘く高鳴る。
横から手が伸びてきて、取ろうとしていた本を軽々と本棚から引き出す。頭上を通り過ぎていく本を、無意識に視線で追っていると、体が大きく傾いた。
「わっ......!」
バランスを崩し、後ろに倒れそうになる。コケる! 俺は目を瞑った。
だが、来ると思っていた衝撃は来ず、なんだか温かいものが背中に触れる。それは俺をすっぽりと包み込んだ。
体に腕が回され、誰かに抱き留められていることに気づく。
「すっ、すみません!」
俺は慌てて謝ると離れようとした。
しかし、何故か回された腕が、引き止めるように俺をギュッと抱きしめる。
触れる相手の体はとても逞しく、布越しでもしっかりと筋肉がついているのが分かった。あまりに男らしい体に、同じ男ながらドキッとしてしまう。
「大丈夫か?」
再度聞こえた声に、鼓動が波打った。耳がその声を聞けて喜んでいるのが分かる。
脳の中に直接響いてくるような甘い声。気づいたら俺は、うっとりと目を閉じてそうになっていた。
低くて男らしい。でも優しく甘い、彼の声――。
この声! もしかして。
探していた『彼』が......そこにいる。
ドキドキと鼓動が鳴り響く。口から飛び出そうな心臓を押さえ、俺は意を決して後ろを振り返った。
そして。
「え..................?」
絶句した。
そこには、俺を怖がらせ、憂鬱な気分にさせた張本人。
倉峰大和がいた。
「えっ? 倉峰......?」
思いもよらない人物の登場に、口から戸惑いの声が漏れる。
ど、どうして! 倉峰がここに......!?
突然現れた倉峰に、頭の中が真っ白になる。俺の頭の中から『彼』のことが、一瞬で抜け落ちた。
目が合い条件反射で、睨まれるっ! と身構えた。
だけど、それとは裏腹に、倉峰は俺を見て嬉しそうに笑った。
「俺の名前......知ってくれていたんだな。一条」
「一条」――そう呼ばれて、びっくりする。
そっちこそ! なんで俺の名前知ってるんだよ!
そう言いたいが、喜びを顔に浮かべて、目を細める倉峰に慣れなくて声が出せない。
呆然と見つめ返していると、倉峰が本棚から取った本を差し出した。固まっていた俺は、ハッとしてそれを受け取る。
「ありがと」
今度はどうにか返事を返せてホッとする。
「それ、おもしろい。俺のおすすめだ」
「ああ......そうなの?」
倉峰がトン、と本の表紙に指先で触れた。
「そうだ」
「......そう」
なんと返したらいいか分からず、とりあえず頷く。
よく分からないが、倉峰は機嫌が良さそうだ。自分のおすすめの本に、他人が興味を示したのが嬉しいのだろうか? 理由が分からず心の中で首を傾げた。
そして、倉峰は俺を見つめたまま黙り込んだ。
二人の間に沈黙が流れる。
......この状況はまずいのではないだろうか?
今までは辛うじてすれ違うだけで済んでいたが、まさかこんな場所で鉢合わせするなんて。しかもこんな二人きりの状況で。
どうにかこの場を無事にやり過ごし、すぐにでも逃げ出したい。だが、倉峰は俺の前に立って全然どいてくれない。
「えっっと......あの......」
こうなったら強行突破しかない! 俺は倉峰の体と本棚の間から、抜け出そうとした。
「っ......!」
しかし動こうとした先に、倉峰の腕が伸びてくる。まるで行く先を塞ぐように、本棚に手をついた。
え? と思っているうちに、もう片方の手も本棚につかれる。
俺は倉峰の両腕に挟まれ、逃げ場を失ってしまった。
「ちょっ? 倉峰......?」
行く先塞がれた⁉ 口から焦った声が出る。
不自然な倉峰の行動に、タラリと背中に汗が流れた。
上を見上げると、倉峰がいつもの獲物を狙う肉食獣の瞳でこちらを見ていた。それに本能的な恐怖がこみ上がる。
「こんなところで......二人きりになれたのも、何かの縁だ」
「倉峰? え、ちょっと待って......!」
低くなった声に、反射的に後ずさる。
だけど、すぐに本棚が背に当たり、これ以上後ろに下がれないことを悟る。
「待てない」
焦れるように倉峰は、離れた分だけ距離を詰めた。
ちょっと! うそ! 待って待って待ってぇ~~
本棚と倉峰の体に挟まれ、俺は完全に捕食されるのを待つだけになってしまった。
傍から見れば、イケメンに壁ドンをされているという、女子なら一度は体験してみたい状況だろう。
だけど、肉食獣に睨まれるウサギ状態(しかも逃げ場なし)の俺からしたら、恐怖以外の何物でもなかった。
「一条......」
呼ぶ声に、揺さぶられるように鼓動が跳ねる。
目の前に倉峰の顔があった。こんなに近くで顔を見たのは初めてだ。
ヨーロッパの絵画のように、綺麗に整った容貌。
倉峰の顔は、イケメンという言葉が陳腐に感じられるほど造形美に溢れていた。
迫力のある美貌に、今の状況を忘れ見入ってしまう。
切れ長の瞳は意思の強さを秘めていて、一度目が合うと、視線が逸らせなくなるような吸引力を持っていた。男らしさを感じさせる端正な顔立ちに、同性でありながら、胸がドキドキと激しく音を立てるのを止められない。
倉峰の瞳に、どこか熱が浮かんでいるのに気づいて、俺はその場に貼り付けられたように動けなくなる。
「好きだ」
「え......?」
一瞬、何を言われたのか分からない。
好きって、何を......?
言葉としては分かるけど、どういう意味で倉峰が言っているのかが分からなくて首を傾げる。呆然と目を瞬かせていると、倉峰が俺の手を取り、甲にくちづけた。
「愛してる。一条......」
「っ......」
どくんと大きく鼓動が高鳴った。
熱がこもった言葉に、脳がくらりと揺れる。これが自分に向けての愛の告白だと自覚して、大きく息を飲んだ。
手の甲に言葉とともに倉峰の息がかかって、俺はビクッと肩を跳ねさせた。
倉峰の唇が触れた場所が急激に熱くなっていって、顔がどんどん赤くなるのが分かる。
不意に倉峰の手が、そっと俺の頬を包み込んだ。
愛しげに目を細め、優しく微笑む。
「俺と結婚を前提に付き合ってくれ」
耳に心地いい、低音の甘い声でとんでもないことを囁かれる。
脳の中に直接響くようなその声に、胸がキュンと甘くなった。
思わずうっとりと頷きそうになり――思いっきりハッとした。
結婚を前提に......付き合う⁉ 俺たちまともに話したの今日が初めてなのに? ていうか、こいつ俺のこと......愛してるって......‼
「え? えぇっ......ええええええぇーーーー‼」
静まり返った図書室の中に、困惑と戸惑いに満ちた俺の叫び声が大きく響いた。
図書室には人影が二つだけ。
一つの人影は呆然と目の前の人物を見上げ、もう一つは両手を本棚につき、見上げる人影を腕の間に閉じ込めていた。
窓の外は日が傾きだし、そろそろ夕暮れの終わりを告げている。
冬の風に葉を落とした木の枝は揺れ、校庭からはかすかに部活動に励む生徒たちの声が聞こえてくる。
窓の外にあるのは、いつも通りの日常の風景。
だけど俺は今、自分の身に起こっていることが信じられずにいた。
「ど、どういうこと......?」
純粋に訳が分からなくて、倉峰に疑問を投げかける。
「一条のことが好きだと言っている」
「すき? おれを?」
「そうだお前のことが好きだ」
「っ~~」
何度も好きだと繰り返されて、じわじわと倉峰に告白されている現実を受け止める。
自覚した途端に羞恥がこみ上げ、俺はあっという間に赤くなった。
すると、倉峰が嬉しそうに目を細める。
「赤くなった一条も、可愛いな」
もっと見たいというように、倉峰が顔を近づけてくる。間近でとんでもないイケメンにストレートに可愛いと言われ、俺は堪えられず俯いた。
倉峰に告られた......んだよな? しかも結婚前提で......。
えっ? 結婚前提!? あまりの状況に俺はパニックに陥る。
全身が心臓になったように、大きな音で鼓動が鳴り響く。
俺は真っ赤になりながら、気持ちを落ちつかせようと深く息を吸う。
「いちじょう......?」
「ぴゃぁっ......」
動かなくなった俺を不思議に思い、倉峰が耳元で名前を呼んだ。告白の余韻が残る無駄に熱っぽい声に、変な叫び声が漏れた。
低く凛とした倉峰の声。
俺の大好きな『彼』の声に、今日はとんでもない甘さが含まれている。
そう思った自分にハッとした。
この声......やっぱり!
俺は倉峰に確認しようとする。
「どうした? そんな可愛い声出して......」
「~~~~」
だが引き続き耳元で囁かれ、俺は漏れそうな叫びを必死で堪えた。
これはもう倉峰に聞くまでもない。
間違いなく『彼』の正体は、今目の前にいる倉峰大和だ。
嘘だ! そんな......倉峰が声の主だったなんて......。
衝撃的事実の発覚に動揺が走る。
混乱する俺をよそに、倉峰は何が嬉しいのか、ずっと微笑をたたえている。
「一条?」
相変わらず耳の近くで喋る倉峰。勝手にうっとりしそうになり、慌てて耳を両手で塞いだ。
「可愛い声なんて出してない! それで言ったらお前の声の方がっ......!」
息も絶え絶えに言い返す。
「ん......? 俺の声がどうかしたか?」
だからだめだって‼ 優しげに覗き込まれ、俺は心の中で叫び声を上げた。
顔を上げたら目の前には整った美貌が広がり、喋られたら胸が勝手にキュンとしてしまう。
もはやどうしたらいいか分からなくなった俺は、一旦倉峰から離れようと考える。
「一条......」
「ちょ、倉峰......一回離れて!」
耳を押さえながら叫ぶ。
「..................」
どこか落ち着かない様子の俺を、捕食前の獲物を品定めするように、倉峰が上から下まで見つめる。
そして、押さえた両手の隙間から見える、真っ赤な俺の耳に気づいて口元をさらに緩めた。
「一条、もしかして......俺の声が、好きなのか?」
いきなり核心を突かれ、動揺で飛び上がりそうになった。
「ち、違う!」
慌てて否定するが、倉峰は納得するように頷いた。
「いや、違わない。一条は今、耳元で聞こえた俺の声に照れている。ずっと見てきたんだ。俺が一条の反応を間違えるわけがない」
真面目な顔で話す倉峰に、言われた通り照れてしまい、ますますどうしたらいいか分からなくなる。
「もうっいいから! いい加減離れろよ‼」
とうとう俺は恥ずかしさのあまり、手足をじたばたと暴れさせた。本人から声が好きだという事実を突きつけられ、半ば涙目になる。
だけどそんな俺に、倉峰は整った顔を崩れさせた。
「とても可愛い。一条が俺の声を好きだと言うなら、いくらでも愛を囁こう」
「~~~~~~」
しまいには、とんでもないことを倉峰が言い出す。
声が聞けるのは嬉しい。図書室に入る前は、彼と話せたらいいな、なんて思っていた。
だけど! 俺が想像してたのは、会話であって、愛の言葉ではない!
何だか話が通じない。これは本当に、あの穏やかでクールな倉峰大和なのだろうか。
今の倉峰はもはや、ブレーキを失った暴走列車のようだ。
埒があかない。俺は力づくで倉峰を離そうとする。
目の前の体を力いっぱい押し返すが、ピクリとも動かなかった。
それもそのはずである。倉峰の体は服の上からでも分かるほど逞しい筋肉に覆われていて、その腕は俺の倍ほどに太かった。
くそ! さすが剣道都大会一位......無駄に鍛えやがって‼
そのあまりに見事な筋肉に、一瞬状況を忘れ、俺は惚れ惚れとしてしまう。
「可愛い、好きだ、一条......心から愛している」
だが次の瞬間、宣言通り愛を囁きだした倉峰に、すぐ見惚れたことを後悔する。
「なんでだよお前! 俺のこと嫌いなんじゃないのかよっ‼」
頭上から降ってくる甘い声に、ときめきが致死量を超えそうになり、俺は必死で言い募る。すると倉峰は心底不思議そうに首を傾げた。
「何故だ? 嫌ってなんかいない。嫌いなわけがない。愛してるとさっき言ったのに伝わっていなかったか?」
「だって! 渡り廊下ですれ違うたび、俺のこと睨んでるだろ......!」
俺はなけなしの気力を振り絞って、倉峰をキッと睨みつけた。
毎週毎週、飽きもせず俺を睨んでくること! 忘れたとは言わせないからな!
だが、それにも倉峰は怪訝そうに眉を寄せる。
「睨む......? 何のことだ。俺は可愛い一条を目に焼き付けたくて、必死で見つめていただけだ」
「............」
その言葉に、俺は驚愕する。
まさかあれって......睨まれてたんじゃなくて、見つめられてたのか?
確かに倉峰は姿を現した瞬間から、すれ違うギリギリまで俺を見つめていた。
でもまさか、好きだから俺を見つめてたなんて.....思うわけないだろ‼
色んなことが一気に起こりすぎて、頭の中の処理が追いつかない。
こんなに短い時間で、感情が大きく動くのは初めてで。もはや考えることを放棄しそうだ。
「一条......」
あたふたしていると、倉峰に名前を呼ばれて俺はビクッと体を跳ねさせる。
恐る恐る顔を上げると、倉峰の意志の強い瞳が、俺を正面から見つめていた。
その目には、隠しきれない俺への愛が浮かんでいて。
「で、俺と結婚を前提に付き合ってくれるか?」
至極、真剣な瞳で倉峰がそう告げる。
学校一のイケメンから、人生初の壁ドンをされ、人生初の愛の告白をされた。
しかも結婚前提というオプション付き。
どんな状況だよ、これ......? そう思うけれど。
俺にお付き合いを申し込む倉峰の瞳が真剣で、声があまりにも魅力的で、心が勝手に甘くときめいてしまう。
「と、とりあえずお試しで......」
気づいたら、そう言っていた。
俺の返事に、倉峰は弾けるように満面の笑顔になった。
俺は平凡を絵に書いたような男子高校生だ。
漫画のように華やかな高校生活に憧れながらも、身の程は弁えているので、ありきたりな学園生活を自分なりに楽しんでいた......はずだった。
まさか自分に、こんな天変地異のようなことが起こるだなんて――。
教室のスピーカーから流れてくるだけだった些細な彩り。それが今、息遣いさえわかる距離で愛を囁く。
倉峰大和が、これから俺の世界を鮮やかに染め変えていくことに、
この時の俺は、まだ気づいていなかった。
俺は無事に、探していた大好きな声の主『彼』を見つけ出すことができた。
それと同時に、その『彼』と、友達をすっ飛ばし、恋人(仮)になった。
こうして俺たちのお試し交際が始まった。

