その声で囁くな!

「移動教室ダル~~」
「そーだな! でもこれが終われば昼休みだし!」

隣で嘆く友人の吉野を励ますように、俺は明るい声を出す。
だが吉野は長い廊下の先を見て、嘆くようにため息を吐いた。

「昼前だから余計にダルいんだよ......何で音楽室が別棟にあるんだ?」

お腹が減って力がでないよ~と、どこかで聞いたことのあるセリフを吐きながら、吉野は肩を下げた。

水曜日の四時間目は音楽の授業だ。昼休み前に音楽の授業、それだけならなんの問題もない。問題はその授業を受ける音楽室が、教室から異様に遠いことにあった。

普段授業を受けている教室は本校舎にあるのだが、何故か音楽室は別棟と呼ばれる離れた校舎にあった。別棟に行くには渡り廊下を通らないといけないのだが、この廊下がまた長い。およそ百メートルはある。もはや廊下と言っていいのか疑問を抱く長さは、吉野じゃなくてもげんなりとするだろう。

だけど、俺にはそんなことよりも、もっと憂鬱なことがあった。

吉野を励ましているが、本当は違うことが気になって気もそぞろだ。
俺は廊下の横にある運動部の部室に視線を移し、祈るように念を送った。

どうか会いませんように!

しかしそんな願いも虚しく、開いてほしくなかった部室のドアが開く。
中から出てきた男性の姿を認識し、俺の全身に緊張が走った。

現れた彼の名は、倉峰大和。

倉峰は姿勢正しい凛とした歩き姿で、まっすぐにこちらに向かって歩いてくる。

なんか......会う気がしたんだよな......
視線の端に倉峰の姿をとらえながら、俺は内心で大きくため息を吐いた。

移動教室の度、俺はいつもここで倉峰とすれ違う。
今年に入ってから、春も夏も、晴れの日も雨の日も、何故か毎週ここで倉峰と出くわすのだ。

ただすれ違う、それだけだったら、別にどうってことなかった。これだけ毎週会っていれば、人見知りもしない俺は、同級生なんだから気軽に声をかけていただろう。

それが何で、こんなに憂鬱なのか。それには理由があった。

よし......平常心、平常心。自分に言い聞かせ、覚悟を決める。
前を向くと、歩いてくる倉峰を視界の端に入れた。

離れていても分かるほど、倉峰はジッとこちらを見ている。
部室の扉を開けた時から、今この瞬間も、一度も逸らされることはない。

それはそれは熱心に、周りには一切目もくれず、俺だけを見つめる倉峰。
まるでサバンナで獲物を見つけた肉食獣のような鋭い眼光に、身の危険を感じる。

意識しているけれど、意識していないふりをして、倉峰の様子を伺う。
瞬間、バッチリと目が合った。倉峰の瞳がすっと細められ、どこか嬉しそうに口元に笑みが浮かんだ。

獲物が捕獲できる距離に来たのを喜んでいるのだろうか? 俺はひっと息を飲んだ。

だけど視線を逸らしたら負けな気がして、顔面に力を入れて堪える。
その間にも距離は縮まって、緊張でドキドキと心臓が鳴り出した。

倉峰大和は学校一のイケメンとしても名高い、ちょっとした有名人だ。
整った鼻筋に、男らしさを感じさせる精悍なフェイスライン。襟足とサイドを刈り上げた髪型は清潔感が漂い、艶やかな黒の前髪から覗く切長の瞳は、意思の強そうな光を湛えていた。

顔が整っている分、余計に眼力が強く感じる。
肉食獣に狙いを定められたウサギのように、俺は毎度体を震えさせた。

ていうかこいつ......なんで毎回毎回! 会うたび俺のこと睨んでくるんだよ!
こんな日本の学校の中で、俺は毎週サバンナの弱肉強食の怖さを感じないといけないんだろうか。
ちょっとした腹が立ってきた。

だが、倉峰は二年にして剣道部のエース、身長も高く体格もいい。チビで、食べても太らない痩せ型の自分と比べると、一回り近く体格がデカい。

制服の上からでもムキムキなのが分かる倉峰に、俺はきっと力では敵わない。いや絶対敵わない。

そんな手も足も出ない相手に、会う度睨まれるのだ。
堪ったものじゃない。はっきり言って怖い。特に何をした記憶もないから、余計に怖い。

そう考えている間にも、距離はどんどん縮む。
いつ向こうが襲い掛かってくるか分からない。すっかりサバンナのウサギ気分である俺は、ますます倉峰から視線を離すことができなかった。

その距離あと一メートル。緊張がピークに達し、背中に嫌な汗が浮かぶ。
少しでも気配を消すために、意味はないと分かりつつもそっと息を止めた。

倉峰とすれ違う。瞬間、視線が絡み合った。心臓が口から出そうだが、目を逸らすわけにはいかなかった。

見つめ合いながら、倉峰が横に並び......そして離れていった。
何も起きなかったことに、ホッと胸を撫でおろす。

俺はそっと振り返ると、去っていく凛とした背中を見送った。
倉峰はすれ違うぎりぎりまで、こちらを見つめていた。

「............」

完全に倉峰の姿が見えなくなって、ハァァーと、大きく息を吐いた。安堵感に襲われ、一気に体から力が抜ける。

「緊張したぁ......」

まだバクバクと鳴る胸に手を当て、冷や汗を拭う。俺の様子に、吉野が不思議そうに首を傾げた。

「倉峰ってさ、なんか......いつもお前のこと情熱的に見つめてるよな。何かしたのか?」

吉野の言葉に、ガンッとショックを受ける。

やっぱり! 俺だけじゃなくて、吉野も倉峰が俺を睨んでるって思ってたんだ‼
もしかしたら、自分の勘違いかもしれない、そう思っていた一縷の望みは、その一言で砕けてしまった。

「なんもしてないよぉ~するわけないだろ~~ていうかろくに話したこともないのに‼」

俺は頭を抱えて、さめざめと吉野に訴える。

「きゅ、急に殴られたりしたらどうしよ......」
「倉峰がぁ? あんな穏やかな奴がそんなことするわけないだろ?」

何言ってんだよと、吉野は能天気に笑った。

くそっ、他人事だと思って! しかも穏やか? どこがだよ! どう見てもけものの目だぞあれは‼
さっきの倉峰の瞳を思い出し、ブルッと背筋が震える。

だが俺は、少し考えこむように手を口元に当てた。

確かに、吉野の言うとおりで、倉峰の周囲からの評判はとてもいい。
その品行方正さは、何もしていなくても勝手に耳に入ってくるほどだった。

一年の時に、剣道の都大会で優勝した倉峰は、小さい頃から剣道を習っていたらしく、礼儀がちゃんとしていて真面目な優等生だった。
教師たちからの信頼も厚く、優勝をしたことで、一躍スターのような扱いを受けていたが、それに奢ることもなく、自慢するような素振りも見せない。

同じクラスではないが、有名人である倉峰の存在はもちろん知っていた。
廊下ですれ違うようになったのは、二年になってからだ。毎週睨まれるようになり、倉峰のことが気になり始めた俺は、遠くからこっそり観察してみたのだが......。

普段の倉峰はとても大人しい。
そして、さりげなく周りをフォローする場面に何度も出くわした。
めっちゃいいやつ、それが俺の率直な感想だ。

入学当時から、イケメンだと囃し立てていた女子たちも、本人があの調子なので、今は遠巻きに見つめるだけになっている。

常に穏やかで、まるで凪いだ海のように、静か。そしてとても無口だった。

実際、倉峰が喋っているところを見たことがない。とにかく無口、本当に寡黙。
逆によくあそこまで黙ってられるなと感心するぐらいだ。
クールで穏やか、それが観察の結果だった。

なのに何故、俺のことだけあんなに睨んでくるんだよ‼
俺はその場で地団太を踏む。

考えれば考えるほど謎だ。頭を抱えそうになる。

俺とは特に接点もなく、話したことも......
まあでも......接点が全くゼロってわけじゃ......って、あれは、話したうちに入らないかぁ......。

ふと頭の中に、ある光景が浮かんだ。
桜吹雪が舞う、懐かしい風景。淡い春の記憶が蘇って、どこか胸が騒めいた。

「桃哉! 時間やばいぞ!」
「えっ......」

だけどそれは、吉野の呼びかけに、あっという間にかき消された。

「急げ‼」

そう叫んで、走り出す吉野に倣い、俺も長い廊下を駆け出した。







「......俺のコロッケパン」
深いため息を吐き、俺は絶望するように机に突っ伏した。
目の前にはクリームパンとあんぱんが並んでいる。

両親は共働きで、昼食はいつも購買のパンを買っていた。
中でも、コロッケパンが俺の一番のお気に入り。

パンはありきたりなコッペパンなのだが、中に挟んであるコロッケがほくほくで最高においしく、しかも揚げたて。熱々のコロッケに、ソースが絡んだキャベツの組み合わせは、ベストカップル賞をあげたいほど相性がいい。

ボリュームもあり、食べ盛りの高校生男子の腹をいつも満たしてくれる。俺はほぼ毎日、それを食べていた。
今日も当たり前のように買うつもりだったのに!

「仕方ないって! 音楽室からじゃ、スタート地点が遠いんだから」

ほかの友人と喋っていた吉野が、俺の様子に気づき慰めてくる。

昼の購買は戦争だ。毎日壮絶な争奪戦が繰り広げられる。
しかし今日の四時間目は音楽で、例に漏れず音楽室は購買からも遠かった。

めちゃくちゃダッシュしたのに! 目の前で、最後の一個が人の手に渡った光景を思い出し、悔しさがこみ上げる。

呆然としているうちに、他のおかずパンもあっという間に売り切れてしまい、俺の手の中に残ったのは甘いパンのみになった。

「毎日の楽しみなのに~~‼」
「はいはい」

 さめざめと嘆いていると、吉野が気のないトーンで相槌を打つ。

「自分だけ目当てのカツサンドをゲットしやがって......!」
「陸上部舐めんな」

キッと睨みつけると、吉野は得意げにそう言ってカツサンドに齧り付いた。

一緒に音楽室を出たはずなのに、吉野の背中はあっという間に見えなくなった。
友人を置いていくなんて......薄情者め! とはいっても、まあ自分もその立場になったら、全力で置いていくだろうけど。

それぐらい男子高校生にとって、昼の食料補給は大事なのだ。

「ハァァ......」

コロッケパンは食べられないし、倉峰には睨まれるし......ほんと今日は散々だ。
俺は肩を落とし、もそもそとあんぱんを齧る。

そこに。

ピンポンパンポーン――――と、軽快な音が流れた。その瞬間、俺は項垂れていた顔を勢いよく上げた。

教室のスピーカーから、男性の声が聞こえてくる。
お昼休みの校内放送。実はこの放送を、俺は密かに心待ちにしていた。

『皆さん。お昼休み中に失礼します。図書委員からのお知らせです。本日の放課後は図書室の開放日になります』

聞こえてきた声に、俺の瞳がとろんと自然に蕩ける。凛とした声が、耳に心地よく響いた。

『図書室には色々な本が置かれています。図書委員からのおすすめは......』 

声が本を紹介していく。内容を簡潔に語り、題名を口にする。
男らしい低音でありながら、とても優しい口調。穏やかなトーンが全身を包み、心がぽかぽかと温められていくような感覚に襲われる。

『図書室には、素敵な本がたくさんあります』

まるで自分に向かって話しかけてくれているようで、気づいたら俺は彼の声に聞き惚れ、うっとりと目を閉じていた。
自然と顔が綻ぶ。

『是非、放課後は図書室へお寄りください。お待ちしています』

その言葉を最後に、放送はぷつりと切れた。すっかり聞き入っていた俺の口から、ハフゥと、満足げなため息が零れる。

あぁぁあ......癒される‼ 何て素敵な声......。

彼の声を聞いているうちに、コロッケパンを買えなかったことも、倉峰に意味なく睨まれた怖さも、俺の中から綺麗さっぱり消え去っていた。

さっきまで絶望を感じていたはずなのに、機嫌はすっかり直り、今にもスキップしそうなうきうきとした心持ちに変わっている。

そうだそうだ、今日は放送の日だった! 
何を隠そう、俺はこの放送のファンだ。

正確に言うと、この放送をしている彼の『声』のファンだった。
今日もさいこっっうに! いい声だった。俺はにまにまとニヤける。

この学校では、水曜だけ放課後に図書室が解放される。そのため、その日の昼休みに図書委員から校内放送が入るのだ。

彼がこの放送の担当になったのは、今年に入ってから。
初めてこの声を聞いた時は、あまりにいい声すぎて、大事なコロッケパンの中身を落としたぐらいだ。

そのぐらい、俺にとって衝撃的だった。
それからというもの、すっかりこの放送が俺の楽しみになっていた。

彼の声を聞いているだけで、勝手に体から力が抜けて、うっとりと幸せな心地になる。キュンと胸が甘く高鳴ってしまう。

こんな経験は初めてで、もしかして自分は声フェチだったのかと、帰宅後色んなASMRを聞いてみたりした。
だけど全くピンとこず、気のせいだったのかとその日はあまり気にしていなかった。

だけどその翌週、放送が流れた瞬間、同じ心地よさと胸の高鳴りに襲われた。それはその翌週も、翌々週も同じで。

どうやら自分は、彼の声にだけ反応するようで。そこでようやく、自分が彼の声が好きだということを自覚した。

彼がたった一言話すだけで、笑顔が浮かんで、幸せな気持ちになる。その声を、ずっとずっと聞いていたくなる。すっかり俺はファンになってしまった。

彼の『声』の。

共働きの両親と、妹の四人家族。身長は低めで、顔面レベル可もなく不可もなく。どこにでもいる普通の男子高校生。
物事を深く思い悩まない性格のおかげで、心許せる友人もいて、それなりに楽しく学生生活を送っている。

とは言っても、彼女はおらず......というか、一度もできたことがない。
心の中では漫画に出てくる主人公のように、キラキラとした学園生活を送ってみたいなという憧れがある。

その一方でこの平和で平凡な生活が、自分に一番合っていることも分かっている。
ちゃんと身の程は弁えているわけで。

そんな俺の密かな楽しみが、彼の校内放送だった。

なんの感情の起伏もなく、過ぎていく毎日。そんな中で、彼の声を聞くだけで癒され、高揚して胸がキュンとする。
彼の声を聞けたら、一日中、幸せで満たされた気持ちになる。

この放送が、俺のささやかな彩りになっていた。

特に今日は、倉峰のせいで神経がすり減っていたし、お気に入りのパンが買えなかったことで、さらにダメージを受けていたので、いつもよりヒーリング効果が半端なかった。

「素敵......」

両手を頬に当て、俺はうっとりとため息を漏らす。

「ん? そのあんぱん、そんなに美味しいのか? 今度買ってみようかな」


あんぱんを握りしめ、ふふふと笑う俺に、吉野が明るい声でそう返事をした。