嫌われている後輩と同室になりました

 桜舞い散る四月。高三になったばかりの春。
 俺は寮の掲示板の前で固まっていた。
 新学期恒例の部屋割り発表だった。1年間慣れ親しんだ相部屋の相手が変わるのは寂しいけれど、それも寮生活の醍醐味だ。新しい出会いがあるかもしれないし、意外な奴と気が合うかもしれない。そう前向きに考えていた。なのに。

「…………マジか」

 305号室:3年 水野詠太・2年 榊原昴

 自分の名前の横に並んだ名前を、三度見した。
 えー、まさかあいつじゃねぇよな。違うだろ。違うに決まってる。
 思わず現実逃避していた。
 けれど、この学校に榊原昴という名前の人間は一人しかいない。
 バスケ部のエースで、入学当初からかなりの注目を集めていた二年生。
 平凡な俺なんかとは違い、すらりと背が高くて、整った顔立ちで、誰にでも人当たりがいい人気者。完全なる陽キャの一軍男子。
 ここは男子校だけど、もしも女子生徒がいたら、めちゃくちゃモテるんだろうな、というタイプの後輩。
 ——で、なぜか俺のことを嫌っている後輩。

「あー……」

 思わず天を仰ぐ。
 別にいじめられているわけでも、嫌がらせをされているわけでもない。ただ、榊原は俺に対してだけあからさまに態度が違う。目を合わせない。話しかけても素っ気ない。必要最低限の返事しかしない。
 最初は気のせいかと思っていた。でも、決定的だったのは一年前。たまたま寮の廊下を歩いていたとき、榊原が友人たちと話しているのが聞こえてしまったのだ。

『榊原ってさぁ、バスケはばかうめぇし、顔は整ってるし、……俺、時々お前に惚れそうになるときあるわ』
『は? やめろ……気持ちわりぃな』
『そうは言ってもさぁ、お前誰にでも優しいじゃん。イケメンでカースト1位なくせに』
『カーストとか意味わかんねぇ……つうか、俺にも無理な奴いるし——』
『え、誰……?』
『水野先輩。あの人だけは無理。好きじゃない』
『あの水野先輩!? お前、なんでだよ!? めっちゃいい人じゃん!』
『……俺は、そう思わない』

 あのときの衝撃は今でも忘れられない。
 なんで? なんて、俺がいちばん聞きたかった。
 心当たりがまったくなかったのだ。榊原と個人的に話したことなんてほとんどない。
 ちなみに俺は、中学の時から一方的に榊原を知っていた。バスケの天才がいると噂になっていて、まだあいつが中2だったころ、母校の対戦相手として実際にプレーを見たこともある。
 高校に入ってからしゃべったのは数回だけ。しかもその時には、すでに榊原は俺を避けていた。

「よりによって榊原かぁ……」

 嫌われているのに関わっていくほど図太くない。……いや、ちょっとは図太いかもしれないけど。
 でも、さすがに同室では交流を避けられない。

「詠太、おはよ——ってどうした、朝から死んだザリガニみたいな顔して」

 後ろから声をかけてきたのは、同学年の久我悠人だった。俺よりも整った爽やかな笑顔で、俺の肩に腕を回してくる。

「死んだザリガニはちくちく言葉だろ……」
「あはは、ごめんって! てか、部屋割り見た? 俺、今年は斉藤と同室だったわー!」
「あ、そう……」
「水野は?」

 俺は無言で掲示板を指さした。久我は俺の名前を探して、その横を見て、「あー……」と微妙な声を出した。

「榊原な……。あいつ、お前のこと苦手っぽいもんな」
「苦手っていうか、……たぶん嫌いなんだよ、俺のこと」
「え~~、でも理由わかんないんだろ? そうだ! これを機会に聞いてみたらいいじゃん」
「なんて聞くんだよ……」

 久我はからからと笑いながら、「まぁ、なんとなるって!」と俺の尻をぎゅっと掴んでくる。いつものスキンシップを軽くあしらいながら、「どうっすっかなぁ……」とつぶやいた。

「大丈夫っしょ。詠太コミュ力クソ高いし」
「……コミュ力でどうにかなる問題じゃない気がする」
「大丈夫大丈夫。それより飯いこうぜ、腹減った」

 強引に食堂へ引っ張られながら、まぁなんとかなるか……と頭の中でつぶやいた。それより、腹減ったし。
 俺はそうしてのんきに昼食のメニューを考え始めたのだった。


  *


 その日の夕方。段ボールを抱えて新しい部屋の前に立った。なんか急に緊張してきたかも……。
 305号室。
 ドアの前で深呼吸をする。別に怖いことなんてない。一緒の部屋になるだけだ。必要以上に関わらなければいい。今までだってそうしてきたじゃないか。
 ——でも。
 正直に言えば、ちょっとだけ期待している自分もいた。同室になったことをきっかけに、仲良くなれるかもしれない。榊原が俺を嫌っている理由がわかるかもしれない。もし誤解があるのなら解けるかもしれない。
 そんな甘いことを考えながら、ドアを開けた。

「……失礼しまーす——」

 部屋の中には、すでに榊原がいた。
 右側のベッドに腰かけて、スマホをいじっている。夕暮れの柔らかな光が部屋に満ちて、その端正な横顔を照らしていた。
 ——やっぱ、顔がいいな。
 一瞬、場違いなことを思った。いや、事実だから仕方ない。榊原昴はめちゃくちゃイケメンなのだ。俺、こういう顔の造形がすごく好きなんだよな……。
 そんなことを考えていると、榊原が冷たい視線を向けてくる。

「あ、えっと。知ってると思うけど、俺は三年の水野詠太な。榊原……、今日からよろしくな」

 なるべく自然に声をかける。

「……どうも」

 それだけ言って、またスマホに目を落とす。
 うん、知ってた。そういう反応なのは知ってた。
 俺は気にしないふりをして、入口側のベッドに荷物を置いた。今年一年、この部屋で暮らすことになる。榊原がどれだけ塩対応でも、こっちまで気まずくしていたら生活できない。

「いやー、ラッキーだわ。実を言うと、305号室、狙ってたんだよね」
「……」
「ここってほかの部屋よりちょっとでけーしさ」
「……」
「あと隣がいねぇから、騒げるし、あんま周りに気を使わなくていいじゃん? やったー」
「……」
「……なんてな」

 ……部屋の中には、思い切り気を使う相手がいますけどねぇ、とは言わない。
 荷解きをしながら、ちらちらと榊原の様子を窺う。相変わらずスマホを見ているけれど、なんとなく空気が張り詰めている気がする。俺がいるから居心地悪いんだろうな、と思うと申し訳なくなった。

「あのさ、榊原」
「……なんですか」
「俺、写真撮るの好きでさ……それで中学からずっと写真部なんだけど、まぁそれはいいとして……部屋で機材いじったりすることもあるんだわ。だから、うざかったら言って」
「……別に」
「あと、たまに夜更かししてパソコンで作業とかするから、明かりが気になったら——」
「そんなのどうでもいいんで、あんま話しかけないでください」

 唐突に、榊原が言った。
 顔を上げてこちらを見ている。整った眉がわずかに寄せられていて、明らかに不機嫌な顔だった。

「……は?」
「俺、先輩と馴れ合うつもりないんで」

 はっきりと、そう言われた。
 さすがにちょっとへこんだ。面と向かって言われると、思っていたよりダメージがでかい。

「……そっか。わかった」

 俺はそれだけ言って、荷解きに戻った。
 わかったって口にしたけれど、全然わかってなかった。
 なんで俺、こんな仕打ち受けなきゃいけないんだろう。心当たりがないぶん、余計にへこむ。

 その夜、俺は自分のベッドに潜り込みながら、反対側で眠っているらしい榊原の背中を眺めていた。
 広い背中だ。バスケで鍛えているからだろう、Tシャツ越しでも筋肉の付き方がわかる。
 嫌われている相手なのに、どうしても目で追ってしまう。顔が好みなのが悪い。いや、男が好きってわけじゃないけど。

「…………はぁ」

 小さく溜息をついて、目を閉じた。
 先は長い。卒業まで、この調子なのかと思うと想像していた以上に気が重かった。


  *


 ——あれから二週間が経った。
 状況は相変わらずだった。榊原は俺に対して必要最低限の会話しかしない。おはようと言えば「……す」と聞こえるか聞こえないかの返事。おやすみと言っても無言。たまに目が合うと、すぐに逸らされる。
 俺は俺なりに歩み寄ろうとした。朝起きたら「今日も頑張ろうな」と声をかけてみたり、夜はお茶を淹れて「飲む?」と聞いてみたり。
 全部、素っ気なく断られた。
 何がそんなに気に食わないんだろう。俺、お前に何かしたっけ。……聞いても答えてくれない気がするけど。

 そんなことを考えながら、夜、部屋で課題をやっていた時。突然ぶつん、と電気が落ちた。

「うわっ」
「は?」

 驚いたふたりの声が重なる。真っ暗になった部屋の中、慌ててスマホを探った。榊原は自分のベッドにいるはずだ。

「榊原、大丈夫か?」
「……いや、別に」

 暗闘の中、スマホのライトをつける。照らされた榊原の顔は、相変わらず不機嫌そうだった。
 窓の外を見ると、寮全体が暗くなっているようだった。近くの街灯も消えている。

「停電か……」
「みたいっスね」

 スマホで調べると、近くの変電所でトラブルがあり、このあたり一帯が停電していることがわかった。
 そして廊下の方からどたどたと足音が聞こえてくる。

「マジかよ! お前らー! 復旧まで5時間くらいかかるんだってー!」
「は? 課題できないじゃん! やろうと思ってたのに、できないじゃん!」
「ぎゃははは! わざとらしー!」
「水野、榊原、停電ってことだから、よろしく! じゃあなー!」

 部屋の扉を開けるまでもなく、騒がしい声がまた遠ざかっていく。非常灯のぼんやりした明かりの中、寮生たちがスマホを片手にわいわいやっているのが想像できた。

「5時間か……。さすがにやることないな」

 俺はベッドに座り直した。課題は諦めるしかない。暗い中で本を読むわけにもいかないし、スマホのバッテリーも温存したい。
 榊原も同じことを考えたのか、スマホのライトを消した。

 月明かりだけが部屋を照らす中、沈黙が満ちる。
 窓から見える空は晴れていて、星がよく見えた。普段は明かりが邪魔で見えない星が、今夜はくっきりと輝いている。
 綺麗だな、と思った。写真を撮りたいけど、スマホじゃ限界がある。一眼レフ……は部室だ。

「……先輩」

 不意に、榊原が口を開いた。俺は榊原から話しかけてくれたことに浮かれ、食い気味に「なに?」と返事をする。

「……なんで写真、撮ってるんですか」

 意外な質問だった。こいつ、俺のこと興味ないんじゃなかったのか。

「あー、前も言ったけど、普通に好きなんだよね……。一瞬を切り取れる感じが良くて」
「ふうん……」
「体育祭とか文化祭とかスポーツとか、そういうイベントの写真撮るのも好きだし、何気ない日常を切り取るのも好き」
「…………」

 榊原は何も言わなかった。でも、聞いている気配はある。
 せっかくだから、俺はもう少し踏み込んでみることにした。

「なぁ、榊原」
「……なんすか」
「お前さ、なんで俺のこと嫌ってるわけ?」

 直球で聞いた。暗闇で何も見えなくても、榊原が息を呑んだ気配を察する。

「……別に」
「はい出ました~、別に~。別にじゃわかんないだろ。俺さ、お前になんかした覚えないんだけど」

 顔も見えないような状態だからか、不思議と強気になれた。榊原の隙のない綺麗な顔を前にしたら、ビビってこんなふうには聞けなかっただろう。

「心当たりないのに嫌われても困るじゃん? 足が臭いから〜とか、見た目がキモいから〜とか、理由くらい教えてくれよ」

 なるべく冗談っぽく、陽気に聞いた。しばらく沈黙したあと、榊原が低い声で言う。

「やっぱ、覚えてないんすね」
「お、覚えてないって、どういう……」
「……昔、アンタに泣いてる写真撮られたんですよ」
「は?」

 まったく心当たりがなかった。

「中学の時です。南陽中対青葉中戦。バスケの試合で負けて、泣いてたとこ」
「いや、俺そんなの——」
「撮ってたでしょ。試合のあと、カメラ持ってウロウロして、俺の写真撮って……しかも、その写真、アンタの学校のSNSに上げてただろ」

 口を開けたまま、記憶を探る。写真部の活動として、撮った写真をSNSにあげていたのは本当だけれど……。

「……もしかして、あれか? うちの学校が勝った試合の写真?」
「……」
「待って、マジで俺、お前なんか撮ってない」
「映ってましたよ、たしかに」

 榊原の声が低くなる。

「俺が泣いてるとこ」

 ……マジで?
 そんな写真あったっけ。俺は記憶を必死に辿った。あの試合の時、榊原はかなり活躍していたけれど、最終的にうちの中学が勝ったのを覚えている。
 俺は勝ったことをかなり喜んでいて、写真をたくさん撮っていた。……その時、負けた相手校の選手が映り込んでいたような気がしなくもない。でも、メインは自分の学校の選手たちで……。

「……ちょっと待って、確認する」

 スマホで我が母校――青葉中のSNSを漁る。中学三年の時の投稿。南陽中対青葉中戦。撮影・三年水野詠太と書かれた投稿。
 あった。
 うちのチームが勝って喜んでいる写真。その端っこに……いた。豆粒みたいに小さく、顔を押さえている選手が映っていた。

「こ、これ、だよな……?」
「見せないでください。マジで腹立つんで」

 榊原が顔を背けた。スマホの明かりで照らされた榊原の頬が、少しだけ赤くなっているような。

「いや、お前……! これ、ほぼ見えないじゃん!」

 泣いているのはかろうじてわかるが、おそらく榊原だとは誰もわからないだろう。

「見えますよ」
「見えない見えない。拡大してもギリわからないレベルだって」
「でも写ってる」
「いや、あー……まぁ、……写ってるけどさぁ」
「……むかつく。やっぱアンタは俺のこと、全然覚えてなかったんですね」

 榊原の声が、拗ねたように低くなった。

「ずっと、そっちから言ってくるの待ってたんですよ。自分から言うの、シャクだし」

 ……えっ。
 俺は、目の前で不貞腐れている後輩を見つめた。
 陽キャで、人気者で、誰にでも優しいイケメン。そう思っていた榊原昴が——こんな些細なことで、ずっと根に持っていた?

「お前……」
「なんすか」
「器、ちっさ!」

 思わず笑ってしまった。声を出して、腹を抱えて笑った。

「笑ってんじゃねぇよ」
「いや、だって……お前、そんなことでずっと俺のこと嫌ってたの? マジで?」
「そんなことってなんすか。俺にとっては大事なことなんですけど」
「いやごめん、確かに勝手に撮ったのは悪かった。でも本当に気づかなかったんだよ。お前の顔なんか、あの時全然見てなかったし」
「…………」

 榊原が黙った。なんか、余計に怒らせた気がする。

「違う違う、そうじゃなくて。俺、あのとき自分の学校のことしか見てなかったから。お前のこと意識して撮ったわけじゃないんだって」
「……わかりました」
「本当にごめんな。……でもさ、お前、マジで器小さいな。あははは!」
「……うるせぇよ」

 榊原がむすっとした声で言う。でも、さっきまでのピリピリした空気はなくなっていた。

「一応先輩だからって黙ってましたけど、この際だから言わせてもらっていいですか」
「お、なに?」
「アンタのこと、他にもムカつくとこいっぱいあるんで」
「えっ、まだあるの?」
「アンタの、自分よりみんなを優先するとこ。ムカつきます」
「……それ悪いこと、……なのかな?」
「あと、くだんねぇ冗談言ってへらへら笑ってんのもムカつく」
「俺の冗談そんなつまんない……?」
「あと、俺のこと避けてるくせに、みんなにはにこにこ優しくしやがって」
「いや待て待て、避けてたのそっち——」
「あと、異常なくらい美味しそうにご飯食べるとこ」
「飯を美味そうに食って何が悪いんだよ!」
「あと、久我先輩にいっつも尻撫でられてんの、あれセクハラっすよ。なんで気づいてないんですか、腹立つな」
「……え、あれセクハラなの?」

 久我のスキンシップが多いのは知っていたけど、あれって普通じゃなかったのか。いや、普通だろ……。

「あと、今日も部屋で上半身裸になってウロウロしてましたよね? ちょっと意識足りなすぎじゃないですか」
「あー……ごめん、見苦しかった?」

 俺は自分の腹を見下ろした。榊原みたいに鍛えられた体じゃないから、確かに見せられたものではないかもしれない。

「いや、そうじゃなくて——いやらしい目で見るやつとかもいると思うんで」
「……えっ」
「だから、気をつけたほうがいいって言ってるんです」

 榊原が早口で捲し立てる。
 ……なんだよ、いやらしい目って。

「ははっ、お前、変なやつだな」
「……は?」
「いや、なんか、面白いなって。お前のそういうとこ、全然知らなかった」
「別に知らなくていいです」
「やば、ウケる」

 いつまでも笑っている俺に、榊原が低い声で言った。

「ケンカ売ってんすか?」
「売ってない売ってない。……ていうかさ、お前、俺にだけそういう態度なの、なんで?」
「……さあ」
「他のやつにはめっちゃ愛想いいのに」
「先輩には、なんか……そういうのできないんですよ」

 ぼそっと、榊原がそう言った。
 月明かりの中、だんだんと目が慣れてきて、榊原の横顔が見えた。照れているような、困っているような、複雑な表情。

 ——なんだよそれ。

 嫌われてると思ってたのに。ずっと、俺だけが一方的に距離を置かれてると思ってたのに。
 そうじゃなかったのかもしれない。
 少なくとも、今は……完全に嫌っている感じじゃない……と思う。

「……まぁいいや。とりあえず、今日からまたよろしくな、榊原」
「…………」
「返事しろっつの。俺、お前と仲良くなりたいんだよ。せっかく同室になったんだし」
「……別に。勝手にすればいいじゃないんすか」

 素っ気ない返事。でも、さっきまでと声のトーンが違う気がした。

 その夜、停電が復旧したのは深夜二時だった。
 それまでの数時間、俺たちはぽつぽつと他愛ない話をした。榊原が入部しているバスケ部のこと、互いの先生のこと、寮の飯で何が好きか、なんて本当に他愛もないこと。
 榊原は相変わらず素っ気なかったけれど、最初の頃よりずっと言葉を返してくれるようになった。
 
 ——なんだ、話せるじゃん。
 
 俺は少しだけ嬉しくなって、その夜は前より軽くなった心で眠りについたのだった。