浦和探偵事務所帖 ぱぁとわん 萬屋マイク

 相談にやって来たのは、菜名だった。ジョギングの途中、家の近くのアパートで、泥酔した女性が男に肩を抱えられ、夜へ連れて行かれるのを見たという。それが三度目だった。身内を介抱しているような落ち着きはなく、警察に通報しても、その後の連絡はなかった。曖昧な不安だけが、菜名の胸に残っていた。俺はアパートの前で張り込むことにした。数日後、昨夜運び込まれた女性が、ふらつきながら姿を見せた。俺はその後ろ姿を追った。薄手のトップスから肩がのぞき、胸元は深く開いていた。ゆるく巻いた髪が街灯を受け、鈍い色を帯びている。見られることが身に染みついた歩き方で、足取りは安定しない。男たちの視線が寄り、淡い吐息がこぼれるたび、空気が揺れた。アーケードの風に香水が混じり、腹の奥が静かに目を覚ました。
「萬屋マイク、たんて……」
「今日は、そういう気分じゃないのでぇ……」
「ナンパじゃねぇよ」
「なんですか?」
身分を明かし、この女性を守ると決めた。女性は涼子と名乗った。

 立ち止まった短い時間に、涼子の口から言葉がこぼれた。
「実は……困っているんですぅ。元カレに粘着されていて……いつも飲みに誘われて、気がつくと朝なんですぅ」
「朝わぁ、頭痛薬をくれてぇ、機嫌よく送り出してくれるんですぅ」
言葉の選び方と、貼りついた笑みが気になった。
「だって、しょうがなくないですか? 私, 転勤が多くて、友だちも恋人もすぐ離れてしまうんです。だから来る人には、優しくしてあげたいんですよー」
「それで、あんたは幸せなのか」
涼子の胸に、焦りと空虚が沈んだ。
「幸せじゃないんです。でもぉ、本気で愛されて、守られて、絶対幸せになりたいんです!」
願いを遠ざけていたのは、涼子自身の世界の捉え方だった。

「あの商店街まで戻ろう。俺の事務所がある」
「いってもいいんですかぁー」
「おまえ、そのしゃべり方、どうにかならんのかな」
事務所で珈琲を前に話を聞いた。転勤のたび恋人ができ、続かずに終わる。元カレは都合のいい時だけ現れる。嫌がりながらも慣れ、歯止めを失っていた。勝負下着、男の目線に合わせた服、飲み会ではお持ち帰り常連候補。職場でも私生活でも、トラブルが続いていた。男を惹きつける力と、涼子の幸せは別の方向を向いていた。
「見てみなよ。満員電車の女の子も、医療や介護の現場の人たちも、肌を出さずに身を守ってる。色気を消すんじゃない。悪意から身を守るためだ。軽く見ないでっていう意思なんだ」
「それってぇ……私に地味になれって言うんですかぁ?」
「自由だ。ただ、それで寄ってくる男が、あんたを幸せにするとは限らねぇ」
「いまの自分の場所だけ考えりゃいい。装うほど、選ばれたい相手から遠ざかってないか」
「おまえ、痴漢に遭うか」
「しょっちゅうですよ」
「一年以上続いた相手は?」
「……もう!」

 家まで送り、俺はアパートへ向かった。三人組と揉め、殴られ、蹴られたが、通報で警察が来た。男たちは逮捕され、スマホから証拠が見つかった。被害者は涼子だけではなかった。病院を出ると菜名が迎えていた。
「お金にならないのに頑張りますね」
「カネの問題じゃねーの」
包帯が取れる頃、涼子が事務所に現れた。少し痩せ、声は落ち着いていた。
「ありがとうございました」
「怒ってくれた分、届いたんだな」
しばらくして涼子は言った。
「モテることと愛されることは違うんですね。見られずにいられる時間が欲しかったのかもしれません」
季節が変わり、涼子は軽やかな髪とワイドパンツで現れた。ピンク色の世界は消えていたが、誰も騒がない。ごたごたは静かな変わり目として過ぎ、浦和の夜風の下で、誰かが自分の足で歩き始めている。社会の輪郭は、静かに戻っていた。