浦和探偵事務所帖 ぱぁとわん 萬屋マイク 改訂版

 夜のビルは、昼間の顔をすっかり脱ぎ捨てていた。空調の低い唸りと蛍光灯の白い光だけが残り、広いフロアは均されすぎた静けさに沈んでいる。遠くでモップが床をなぞる音がした。一定で、乱れがない。祈りの拍子みたいだと思った。俺は歩くのをやめ、その動きをしばらく見ていた。
 清掃員は若い女だった。白いマスクに作業着、耳にはイヤホン。手つきは迷いがなく、床を急かさない。音だけを頼りに、世界の輪郭を確かめているように見えた。
「こんばんは。……清掃の人かい」
女は手を止め、少しだけこちらを見て、うなずいた。
「俺は萬屋マイク。ここで人を待ってるだけだ」
探偵だと名乗る必要はなかった。ここに立っている理由のほうが、言葉より先に伝わる。
「いい手つきだな。床がちゃんと応えてる」
お世辞のつもりはなかった。女の肩が、ほんの少し下がった。
「少し休憩しないか。無理に話さなくていい」
一拍置いて、女はうなずいた。

 休憩所は自販機の灯りが浮かんでいるだけの、小さな箱だった。俺は缶コーヒーを二つ置き、女が口を開くのを待った。
「……人と話すの、得意じゃなくて」
声は小さかったが、逃げなかった。
「頭の中では言えるんです。でも、声にすると、薄くなっちゃって。夜は誰にも急かされないから……この時間が、好きです」
俺はうなずいた。それ以上の合いの手はいらない。
「この前、三社合同でメンテナンスがあって」
女は少し言葉を探した。
「体の大きな人に……怒鳴られました。仕事はちゃんとしてるのに、なんでこんな仕事してるんだ、能力ありそうで鼻につく、って」
しばらく沈黙が落ちた。
「そいつ、色んな現場を見てきたんだろうな」
俺は言った。
「お前が、力を余らせてるのが見えたんだ」
女は顔を上げなかった。
「耳で覚える力だ。あれは、ちゃんと使える。埋もれさせるには、惜しい」
女の指が、膝の上でわずかに動いた。
「よかったら、一度うちに来い。黙って座ってるだけでもいい」
名刺を差し出すと、女は一瞬ためらい、受け取った。
「……美波、です」
指先が、少し震えていた。

 数日後、美波は事務所の扉を押した。小さなバッグを胸に抱えたまま、様子をうかがっている。
「よく来た」
それだけ言った。
「座れ。来たということは、何か考えがあってのことだろう」
美波はソファに腰を下ろし、しばらく黙ってから口を開いた。
「……勉強、嫌いじゃなかったです。覚えるのも、わりと。でも、高校をやめてしまって」
言葉が一度、止まった。
「もう、戻れないのかなって」
俺は机の端に置いてあった紙を一枚、滑らせた。
「戻るって言い方は、しなくていい」
高卒認定試験の案内だった。
「先に行くだけだ」
美波は紙を見つめ、息を整えた。
「……私でも、やれますか」
「やれる。まだ余白がある」
それは励ましじゃない。ただの事実だ。
「……教えて、ほしいです」
声は小さかった。
「気持ちが沈む日も、来てほしくて。計画が崩れたら……一緒に、直してほしい」
「任せとけ」
俺は即座に言った。
「人を見失わない。それが、俺の仕事だ」

 それから美波は、清掃を終えると事務所に寄るようになった。参考書を選び、時間割を組み、生活の流れを整えた。何も話さない日もあったが、席は空けておいた。折れそうな夜も、迷う夜も、人は戻ってこられる場所があれば立て直せる。
 やがて美波は試験を終え、次の話をするようになった。
「それぞれ役目がある、人にはな」
俺は言った。
「守るやつもいれば、知を渡すやつもいる。作るやつも、届けるやつもいる。お前にも、ちゃんとある」
美波は静かにうなずいた。
 清掃の仕事から始まった時間は、いつのまにか次の段に足をかけていた。夜はゆっくり深まり、事務所は次の頁をめくる準備を始める。俺は煙草に火を点け、美波の背中を見送った。
 人は、急がせなければ、ちゃんと歩く。