【完】君の涙は透明であるべきだったか


*


 俺はあまりに無力だった。有森にはずっと笑っていてほしいと思うのに、その有森を励ますどころか、笑顔を奪う原因を作ってしまった。

 あのあと、とてもではないけれどぎこちなくいたたまれない空気になり、有森は気を遣ってか俺に先に教室に戻っていていいと言った。
 そして情けなくも、言われるままのこのこと図書室から出てきてしまった。そんな素振りはしないよう、できるだけ自然な振る舞いを努めたけれど、逃げたと言っても同然だった。

「はあ……」

 それまではいい雰囲気だったのに。俺は多分有森が触れられたくないところに土足で踏み込んでしまったのだ。

「俺の馬鹿……」

 のそりのそりと重い足取りで進む廊下はひどく長く感じる。教室棟とは別棟のため昼休みの喧噪も遠い。
 あたりに響き渡るような深いため息と共に頭を抱えたそのとき。

「あれ、宇恭?」

 それは今一番聞きたくない声だったと思う。反射的に、身を守るように見えない針が全身を覆う。思い切り悪態をついてやりたい気持ちをこらえながら顔を上げれば、やはりそこには奴がいた。

「西園……」

 俺を見つけた西園が、邪気のない呑気な笑みを浮かべる。100人が見れば100人全員が人のいい笑顔と判定するだろう。けれどそれはいつだって俺を無性に苛立たせる。

「やっぱり宇恭だ。どうしてここに?」
「いや、お前こそどうしてこんなとこに……」

 呟き、そこではっと気づく。西園が生徒会室から出てきたところらしいことに。
 まさか……。
 嫌な予感が背筋を這い上がり、そして西園はその嫌な予感を淀みなく現実として肯定した。

「実は生徒会選挙に立候補してきたんだ。滑り込みで」
「え……」

 さああっと血の気が引く俺の前で、そんなこととはつゆ知らず西園が爽やかに白い歯をこぼす。

「自分には務まらないんじゃないかってずっと思ってたんだけど、迷ってたらクラスとか部活の奴らが背中を押してくれてさ。だからオレも頑張ってみたいなって」

 ……どうして。どうしてお前はいつも俺の邪魔ばかりするんだよ。

 憎悪がこみ上げる。ただでさえ気分が落ちていた中、西園とのエンカウントはまさに最悪のタイミングだった。
 と、そのとき。

「――矢野」

 涼しい声が脳内に流れ込んでくる。でも今だけは聞きたくなかった。最悪のタイミングというのはどうしてこうも重なるのだろう。
 壊れたロボットみたいに鈍い動きで振り返れば、そこにはやはり有森がいた。

「忘れ物」

 有森が図書室に置きっぱなしにしていたらしい俺のシャープペンを差し出してくる。
 そんな俺の背後で西園が息をのむ気配がして。

「由羽、ちゃん」

 緊張のせいか声を上擦らせながら西園が名前を呼ぶ。有森が西園に気づく。

「……あ、この前の」

 すべてがすぐそこで起こっている。けれど間にいる俺はいないも同然の、むしろそこにいる必要のないモブのようだった。有森と西園の交わる視線が作り出す薄い膜に拒まれているように思えた。
 ヒーローとヒロイン。まさにその言葉がぴったり合う、だれもが憧れるような完璧なふたり。

「そう、コンタクトを落としたところで助けてもらった……。覚えててくれたなんて。嬉しいな」

 照れたようにはにかむ西園。こんなに嬉しそうにはしゃぐこいつの声を聞いたのは初めてかもしれない。全身の毛が逆立つ。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。お願いだから有森、西園のことを見ないで。だって有森が西園の人となりを知ってしまったら、俺に勝ち目なんてない。これっぽっちも。

「実はずっと由羽ちゃんと話したかったんだ。この前のお礼もちゃんとしたかったし、それに……」
「――有森」

 自分でも一瞬驚くほどの怒声に近いそれが、西園の声を遮った。そして明確な悪意を持って有森の手首を掴む。

「矢野?」

 西園がヒーローなら俺は悪役でもいい。それでも有森だけはこいつに取られたくない。

「悪いけど俺たちもう教室に戻らないとだから」
「え? 宇恭、まだ……」
「行こう、有森」

 驚く西園を残して、ぐいぐいと有森の腕を引っ張る。

「――離して」

 有森の声が鼓膜に突き刺さったのと、掴んでいた手を思い切り振り払われたのは同時のことだった。
 気づけば教室棟へと続く渡り廊下まで来ていたらしい。それまで芯から冷え切っていた身体が、突然ぬめっとした生ぬるい外気の感触を思い出す。昼休みの喧噪が意識の内側に戻ってくる。
 はっとして振り返れば、そこにはわずかに眉根をひそめる有森の姿があった。その表情には恐怖でも怒りでもなく、一種の哀れみのようなものが浮かんでいた。

「今の矢野、怖い顔してる」
「え……」

 はっとする。
 そして有森の指摘が胸を抉る。だって鏡を見なくてもわかるのだ。自分が今、ひどく険しく強張った顔をしていることが。

「あ、これは、はは、違うよ、そうじゃなくて」

 醜い表情を乾いた愛想笑いで咄嗟に上塗りする。
 ああ、きっと俺は悪役にすらなれない。こんなのまるでピエロじゃないか。そんな自嘲が頭の中に響き渡った。