「うーん、どうするかなー」
頭を抱えて図書室のカウンターに突っ伏す。
その隣で本を読んでいた有森が、視線は本に向けたままくすりと小さく笑う。
「頑張れ頑張れ」
「そんな他人事みたいに」
俺は口を尖らせつつ、改めて目の前にある白紙に向き合う。それは生徒会長に立候補する上で最重要事項と言っても過言ではない、マニフェスト案を記載するプリントだ。自分が生徒会長になった暁にはどのような高校にしていくか、そしてそれを具体的にどのような方法で推進していくか。それを明文化し、今日の放課後までに選挙管理委員会に提出することになっていた。
我が高校の生徒会選挙は、そのマニフェストが選挙管理委員会によって全校放送でアナウンスされ、それを元に生徒たちが投票するという形がとられている。
「会長は自分のときのマニフェストと同じ内容でいいんじゃないかって言ってくれたんだけど、なんかそれも違う気がしてさ」
生徒会長に立候補するのはあくまで内申点のためでしかなかったはず。それなのに、この間有森がくれた『頑張れ』が想像以上に自分の中で効いているらしく、やるなら本気で取り組みたいと思うようになっていた。
とはいえ、なかなかいい案が思い浮かんでいないのが現状だ。実現できる範囲の現実的なもの、かつ生徒や教員にウケるものでなければいけない。
唸っていると、不意に有森がカウンターの上にぱたりと本を閉じた。
「そんな難しく考えなくていいんじゃないかな」
「え?」
「どうやって実現するかは、まわりに頼って考えていけばいい。今はただ矢野がどうしたいかだよ」
「俺がどうしたいか……」
俺はいまだ白紙のプリントを見つめた。そしてひっそりと声を落とす。
「本当はひとつ、考えてたマニフェストがあるんだ」
「なに?」
「でもどうせ却下されるんだろうなと思って保留にしてたんだけど……。制服とか髪型とか、もっと自由にしてもいいんじゃないかなって」
この高校は校則が細かく定められている。月に一度制服検査が行われ、女子のスカートの丈が短くないか、髪は染めていないか、男子は髪の長さが肩にかかっていないかなど、厳しくチェックされる。
「女子がズボンの制服を着たって、男が髪を伸ばしたっていいんじゃないかってずっと思ってたんだよな」
驚いたように目を見張って有森がこちらを見つめていることに気づき、慌てて補足する。
「いや、規律がある意義とか秩序もある程度は必要だってことはわかってるんだよ。でも、それぞれがもっと自分らしく?っていうか、自分がしたいスタイルを選べたらもっと学校に来るのが楽しくなるんじゃないかな」
自分らしく生きるために自分で選択していく。それは社会に出ても必要な経験なのではないかと思うのだ。
「……って感じ。です」
ご清聴ありがとうとかしこまってぺこりと小さく頭を下げると、不意に有森が優しく笑んだ。
「いいと思うよ」
「まあ、理想論かもだけど」
「できるよ矢野なら、きっと」
有森の言葉ひとつで心が浮き足立つのがわかる。図書室独特の匂いさえもふわっと華やぐ。
有森の声音もまた妙に耳に馴染んで、どうしてこんなにも居心地がいいのだろうか。
「なんかさ、有森が言ってくれると背中を押される感じがするわ。心の中に明かりが灯る感じ」
「キザなこと言うんだね、矢野って」
「え、今のキザだった?」
「うん、割とだいぶ?」
「まじ? うわ、恥ず」
キザ、なんて初めて言われたせいで耳が熱くなる。
これまでいくらでもペラペラと饒舌に女の子を口説いてきたはずなのに、やっぱり有森は一筋縄ではいかない。というかさっきの台詞はただのリップサービスなんかではなく、本心が漏れ出てしまっただけなんだけれど。そしてそんな一筋縄ではいかない有森に、俺はすっかりハマっちゃっているんだけど。
「でもありがと、そんなふうに言ってくれて」
熱を持った耳を両手で押さえて冷ましている俺に、ふわり、そんな効果音がまるでぴったりな柔らかさで有森が微笑む。天使がこの世にいるとしたら、きっとそれは今目の前にいる彼女そのものなのだろう、そんなことを思わずにはいられなくて。
半ば恍惚とした高揚感のまま、言葉が口をついてこぼれていた。
「ずっと思ってたんだけどさ、由羽って有森にぴったりの名前だよな」
「え?」
「なんか天使みたいじゃん。名前に羽がついてるなんて」
と、不意に有森の表情から、さっきまでの笑みがしゃぼん玉がぱちっと割れるように消えた。
「……天使、か」
「うん、可愛い名前だな、って……」
不意に俺たちの間に流れていた空気の質感が変わったことに気づいたのは、自分の口から声が出ている、まさにそのさなかのことだった。
異変の理由を見つけるよりも先に、有森が長いまつげを伏せて呟いた。
「産まれる前から母はこの名前にしようって決めてたんだって。どんな可愛い女の子が産まれることを願ってこの名前をつけたんだろうね」
そのとき、有森が自分の名前を嫌いだと言っていたことを思い出す。
――あ……。やってしまった。けれど、手遅れだ。
「えっと、でもほら、大きな羽で未来とか夢に向かって飛び立てるようにって、きっとご両親も、」
「羽なんて持ってない」
「……っ」
決して声を張っているわけではない。怒っているわけでもない。それでも有森は壁を作るように、続こうとする俺の言葉を制した。その声はやるせなさと、そして諦念のようなもので染まっていた。
嫌だよ、そんな哀しいことを、思い直す余地もないってほどの頑なさで言い切るなよ。
言葉を失う俺。ごめんも、そんなことないも、言うべきではないことだけはわかっていた。だってそれらの後ろ盾になる言葉を持ち合わせるほどの余裕と経験値が今の俺にはない。
そして図書室を覆い尽くす恨めしいほどの静寂の中、そっと響いたのは有森の声だった。
「自分はどうやっても、自由に飛び回るツバサのようにはなれないんだ」

