時間の進みが絶望的なほどに長かった。有森と話せる唯一の時間――水曜の昼休みが来るまでに、俺は何度有森の方に視線をやっただろう。
同じ教室にいても一度として視線が交わることはない。俺から声をかけに行くことはできるけれど、そうすることでクラスメイトの注目を浴びるのは彼女が一番望んでいないことだというのもわかっている。彼女はイヤホンを着けて机に突っ伏し、いつだって周囲の一切を遮断している。まるでいっそこの世界から隔絶されてしまいたいと望んでいるかのように。
だからようやく迎えた水曜日、午前中ラストの体育が終わるなり、俺は急いで制服に着替えて図書室へと一目散に駆けていた。
特別話したいことがあったわけではない。だけど無性に有森の声が聞きたくて、硝子玉のようなその瞳に映りたくて仕方なかったのだ。
息を弾ませながら図書室に駆け込むと、カウンターにあるはずの姿がない。
さすがに来るのが早かったかと思っていると、ふと図書室の奥の方から、ことりと木がぶつかるような音が聞こえてきた。
有森だろうか。書架を巡り、その姿を捜す。
こっちから音が聞こえた気がするんだけどな……。
音を頼りに外国文学が並ぶ本棚と本棚との間を歩いていると、近くでまたことりと木の音が聞こえてきた。
はっとしてそちらを見れば、本棚に空いている小説数冊分の隙間に、捜していた彼女の顔を見つける。背の高い本棚を挟んだ向こう側に有森がいた。
「仕事してんの?」
俺の呼びかけに、一段下の棚に本を仕舞っているのであろう有森がこちらを見ないまま答える。
「新刊を並べておけって言われたから」
本棚越しに見える有森は、初夏の暑さの中、涼しげな佇まいだ。我が校のセーラー服の襟とタイは淡いグレーで、その控えめさがいっそう彼女の端正な顔だちを際立たせている。窓から差し込む光を受けてブロンドの髪が金色に輝き、まるで天使がそこにいるようだとそんなことを思った。
「そっか」
思わず頬が緩む。声で俺だと認識してくれていた、それだけのことが特別なようで嬉しい。
小さく喜んでいる俺を尻目に有森は再び手を動かし、棚に陳列している本の順番を並べ替えたりしている。
「弁当持ってきたんだけど、一緒に食べないか?」
「もう食べた」
「え、もう?」
これでも急いできたつもりだけど、まさかすでに昼食を済ませていたとは。
有森は体育に出席せず制服で見学しているらしいから、どうしても着替えの必要がある俺の方が遅れをとるのだ。ちなみに有森が体育を欠席する理由は、持病のせいだとか足の怪我のせいだとかいろいろな説が出ているけれど、結局真相は本人のみぞ知るという状態だ。
弁当を一緒に食べる気満々だった俺は軽くショックを受けながらも、それよりも久々に有森と話せていることに浮ついていたのだろう。舌が止まらない。
「この前、有森の兄貴に会ったんだ。ツバサがひったくりに遭った俺を助けてくれて」
「そうらしいね」
「まじでびっくりしたよ。有森が双子だったことも、その兄貴に助けられたことも」
ことり。抱えていた本をまた一冊本棚へと仕舞い――不意にそこで有森が手を止める。人差し指の先は本の背表紙に触れたままだ。
「ツバサから聞いたでしょ、関わらない方がいいって」
斜め下へと向かって放たれた抑揚のない声。
「ああ、言われた」
自分の声が掠れて聞こえたのは気のせいではないだろう。
その話題には触れないつもりでいたけれど、やはりと言うべきか本人の耳には届いていたらしい。
長いまつげを伏せこちらを見ようとはしない有森から、俺は視線を離さない。
「じゃあわかるでしょ。あれはそのままの意味だよ」
「……でも、俺は有森と話したいから」
ふと手を止めて有森が再び俺を見る。
その瞳には戸惑いと警戒心とがない交ぜになって滲んでいた。
「ツバサのことはいい奴だと思ってるけど、それとこれは別だ。ツバサがなんと言おうと俺は自分の意思を変えるつもりはないよ」
あれから何度も考えた。ツバサはどうしてあんなことを言ったのか、有森はツバサが言うように普通じゃないのか。だけどいくら考えようと結局なにもわからない、わかるはずがなかった。
それならば今はただ頭を空っぽにして有森と話したい。ふたりの時間を過ごしてみたい。
そうすればいずれ答えは見つかるはずだから。悩むのは、先のことを考えるのは、それからでもいいじゃないか。
「俺がずるかったんだ。ツバサから有森のことを聞き出そうとして。これからは正々堂々有森にぶつかるよ」
「そうじゃなくて、」
「ちゃんと有森と向き合って、それで友達になる」
「……でも自分は友達なんていらない」
「じゃあ話し相手でいい。顔見知りでも。有森のテリトリーに入れてもらえるなら、どんな存在でもいい」
なぜここまで食い下がっているのか、正直自分でもよくわからなかった。西園に勝つために意固地になっているのだろうか。
必死に請う様は、端から見ればあまりに格好がつかず滑稽ですらあるだろう。それでもここで引く気にはなれなかった。だって今の有森との関係は、俺が手を離せばその瞬間きっとそこで終わってしまうものだから。
眼差しを伏せ、答えを出せないでいる様子の有森。
俺は本棚の向こう側に回り有森に歩み寄る。
「俺、だいぶ諦め悪い男だよ」
そう言ってへらっと笑うと、有森が顔を上げて俺を見た。ようやく視線が交わる。その表情には呆れが浮かびながらも、けれど拒絶の色はもう見つからなかった。
「……変人」
「はは」
「褒めてない」
「だって俺にそんなこと言う子初めてだから。有森って臆せずズバズバ言うだろ? 自分で言うのもあれだけど王子様キャラだからさ、なんかこういうのも悪くないなって」
「やっぱり変わってるよ矢野」
そう苦笑する有森はどこか肩の力が抜けたように見えた。
多分一歩内側に入れてくれた。そんな淡い実感が胸を満たす。
と、そのとき。ふたりきりの空間を遮るかのようにキイインとハウリング音がこだました。続けてスピーカーから女子生徒の声が聞こえてくる。
『みなさんこんにちは、選挙管理委員会です。いよいよ来週の水曜日に次期生徒会立候補が締め切られます。立候補を希望する生徒は速やかに選挙管理委員会に申し出てください。なお現在立候補の届け出を受理している生徒は次のとおりです。2年2組矢野宇恭くん、2年3組……』
トップバッターで呼ばれた名前に有森が俺を見る。
「立候補してたんだ」
「まあな。今副会長やってるし」
生徒会に所属したのは無論、内申点に影響があるからだ。家事やバイトがあるため部活に所属できていない俺は、そういう点で不利だ。けれど生徒会は部活ほど忙しくないし、なにより箔がつく。
ここで生徒会長になることができればより、大学受験や就職のときにアピールすることができる。立候補する以外の選択肢はなかった。
「お前なら任せられるって生徒会長が推薦してくれてさ。そう言われたら期待に応えたいじゃん」
2年間生徒会で活動を共にした現生徒会長の原さんが俺のバックアップをしてくれるらしい。これ以上ないほど心強い味方だ。
俺はちらりと有森の表情を伺う。
「もし俺が生徒会長になったら俺のこと見直す?」
とても子どもっぽいけれど、有森にかっこいいと思ってもらいたいと思ってしまった。
すると有森は風通しのいいからっとした表情で可笑しそうに眉尻を下げた。
「見直すもなにも見損なったことないよ」
「そうか? 俺、有森の前で割とやらかしてるから」
「はは、そんなふうに思ってたんだ。でも、」
「頑張れ、矢野」――たしかな思いのこもった言葉と共に有森が頬を緩めた瞬間、胸の奥あたりがきゅっと引き締められた感じがした。痛みにも似たその感覚は熱を伴って俺を満たす。
有森の笑顔は言うなれば無添加だ。意図的な甘みを含ませることなく気取っていない。
そしてこの笑顔がもっと満開になる様を見てみたい。なににも抑圧されることのない手放しの笑顔を。
「頑張るわ、俺」
そしたら君は認めてくれるかな、こんな俺のこと。

