「おつかれさまでした……」
居酒屋のバックヤードから出た頃にはもうすぐ23時を迎えそうになっていた。
22時退勤のシフトなのに遅くなったのはクソ客に当たってしまったせいだった。
泥酔した50代後半と思われる男が、注文したイカゲソが出てくるのが遅いと怒りだし、フロアにいる俺を呼び出して怒鳴りつけてきた挙げ句飲みかけのビールをぶっかけてきたのだ。
おかげで俺は店長が謝罪する中、頭からつま先までビールまみれのまま這いつくばって他の客の靴にまでかかってしまったビールを拭く羽目になった。
そもそもイカゲソの提供が遅れたのはフロアの俺のせいではない。厨房を担当する従業員がひとり欠員していたせいだ。
けれどそんな事情を知るよしもない、いや知っていたとしても気にも留めないだろうクソ客は、床に跪いて靴を拭く俺に向かって言い放った。惨めな奴だな、と。
クソ客の腕ではごつごつの時計が下品に光り、ジャケットはブランドのロゴをこれまた嫌らしいほど強調していた。そいつを囲む男どももみな同じような身なりで、その集団の羽振りの良さは目に見えた。
どれだけ言い返したくてもなにも言い返せなかった。
客と店員であるという立場はもちろん、俺は人間としてクソ客に敵わなかった。あんな性格の腐りきった奴の持っているものを、俺は多分一生かけても手にすることができない。
……ほんと、惨めだ。
夜空に向かってため息を吐くと、かえって一層肩が重くなった気がした。
タオルで拭いてはみたもののビールの匂いが髪から漂ってくる。後頭部に触れてみると、指先がべたついた。
こんな悲惨な目に遭ったにも関わらず、店長からは労りの言葉をかけられるどころか、お前のせいで迷惑を被ったと言わんばかりの蔑むような視線を投げられた。欠員を把握しているだろうに正社員には強く出られない店長は、いつもバイトの俺に当たるのだ。
飲み屋が建ち並ぶ歓楽街を抜けて喧噪を背に歩いて行くと、どんどん景色が寂しくなっていく。
思考を揺さぶることもなく、まるで敷かれたレールの上を歩くように無心のまま帰路を進んでいたときだった。
それは突然のこと。急に背後からスクールバッグを強い力で引っ張られた。咄嗟に反応できないでいる間にも、肩からスクールバッグが離れていく。
ひったくりだ、そう気づいたときにはすでに俺のスクールバッグをわしづかみにしたまま走る犯人の姿が前方にあった。
「おい、っざけんな、待てっ」
声を荒げて急いで追いかけるけれど、犯人の逃げ足は想像以上に速かった。
……くそ、なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。あんなクソ客に当たらなければ、トラブルに遭った日くらい早めに帰らせてくれる温情のある店長だったら、そもそもバイトなんてしなくてよければ、こんなことにならなくて済んだのに。
次から次にこみ上げてくる理不尽さに喉元を締め上げられる。
やがて少しずつ距離が開いていき、やがて犯人の前方にそいつのものらしき車が停まっているのを見つけた。
逃げられる……! そう思ったそのときだった。
人影が暗闇から現れたのに気づいたのと、犯人の体が大きく宙に浮かんだのは同時だった。
どすんっと鈍く重い音がひとけのない路地に響き渡り、思わず足が止まる。どうやら犯人が謎の人影に背負い投げをされたらしかった。
「え、あ、あのっ……」
突然の展開に追いつけないまま、それでもそちらに駆け寄ると、謎の人影が顔を上げて俺を見た。
数少ない電灯がちょうど頭上にあったせいでその人物の顔が浮き上がる。キャップの下の顔に、俺は思わず目を見張った。だってそれが有森だったのだから。
「有森……?」
呆然としたまま有森と視線が交わったそのとき、地面に投げ出されていた犯人が隙を見計らったかのように、自分の手首を掴んでいた有森の手を振り払って逃げ出した。
「おい、お前……!」
有森が声をあげて再び犯人を追おうとする。けれど俺はその腕を握って有森を制止していた。
「なにしてるんだよ、逃げられる……っ」
有森は声を荒らげて俺に食ってかかるけれど、俺は首を横に振った。
「いいんだ。警察沙汰になったら補導されるし学校にもバイトしてるがバレる。それにバッグは盗られなかったし」
地面には犯人が背負い投げされたときに投げ出されたスクールバッグが落ちている。盗られたものがなかっただけよしとするしかない。
「それより本当に助かったよ……。ありがとう有森……」
安堵のため息を吐きながら改めて有森を見て、ふと違和感に気づく。だって目の前にいるのが有森だけど有森じゃない。
ウェーブのかかった綺麗なブロンドの長い髪が、黒髪のショートになっている。
しかもそもそも出で立ちが俺の知っている有森とは大きくかけ離れていた。黒いキャップにスカジャン、細身の黒いダメージジーンズと、制服のワンピース姿とは正反対でスタイリッシュだ。
「有森、じゃない……?」
混乱してくる。有森じゃない。いや、けどやっぱり有森だ。だって顔は有森そのものなのだ。
すると謎の人物が一言。
「勘違いだ」
「え?」
鼓膜を打ったのは、昼間俺の耳を撫でていた彼女の柔らかいそれではない。俺が知っているそれよりも少し低くて尖っている。
「有森……由羽じゃないのか?」
「違う」
まるで狐につままれたような心地だった。ただでさえひったくりに遭ったばかりで思考が慌ただしいというのに、目の前にクラスメイトと瓜二つの顔があるのだから。混乱し、湧いた疑問を整えもせずに剥き出しのままぶつける。
「じゃあ、あんたはだれなんだ……? 名前は……」
「ツバサ。お前が言ってるあいつの双子の兄だ」
「双子の兄……?」
なるほどそういうことかと腑に落ちる一方で、有森に双子の兄弟がいたという新事実に驚く。クラスメイトとはいえ今日がほぼ初対面とも言えるほど関わりがなかったのだから当然ではあるけれど、まだまだ知らないことばかりだったらしい。
「お前は?」
有森兄がジャケットのポケットに手を入れながら俺に向かって顎を持ち上げる。
有森の顔でそんな仕草をするものだから一瞬脳がバグを起こしそうになるけれど、顔がいいせいで不遜な仕草もサマになっている。
「俺は矢野宇恭。有森とはクラスメイトで。でも驚いたよ……。まさか有森が双子で、その兄貴にひったくりから助けてもらうなんて……」
次から次にめまぐるしく起きる出来事の数々に、気づいたらビールの匂いも忘れていた。
「すっげーかっこよかった。軽々と背負い投げなんてするんだもんな」
あのときは理解が追いついていなかったけれど、よくよく思い返してみればあれはとても痛快な光景だった。あんなにも鮮やかに男が宙を舞う様は初めて見たかもしれない。
興奮気味にそう言うと、有森兄はそこで初めて表情を崩して笑う。
「そんな大げさなもんじゃねえよ」
「いやいや、俺にはできないし。そうだ、ちょっと時間ある?」
「え? あるけど……」
「お礼って言ったらなんだけど、ジュースくらい奢らせてくれないか」
ちょうど近くに公園がある。たしかそこに自販機があったはずだ。
「わざわざいいって、そんなの」
「いや、それじゃ俺の気が済まない。命の恩人なんだから」
「命の恩人って。さっきから大げさだな」
有森兄が吹き出す。クールかと思いきや、そんなことはなさそうだ。
有森は感情すらないのではと思っていたから余計に実際は表情豊かなのだと感じたけれど、それよりもっと表情が生き生きしている。
半ば強引に公園に連れて行くと、自販機で炭酸を2本買い、ブランコの前の柵に腰掛ける有森兄に一本を手渡す。
「ん。お礼としてはしょぼくて申し訳ないけど」
「全然いいのに律儀な奴。っていうか、これなに?」
有森兄がまじまじと缶を見つめている。俺は隣の柵に腰掛けながらプルタブを持ち上げる。ぷしゅっと快音が夜の公園に響く。
「これは俺のお気に入り。マジカルジュースだ」
「マジカルジュース?」
パッケージには大きなクエスチョンが描かれているだけで他の情報はない。
なぜかこの自販機でしか見かけない幻のジュースだ。
「まあ飲んでみろって。きっと気に入るから」
促されるまま有森兄がプルタブを開ける音を聞きながら、俺も缶を呷る。口の中にジュースが流れ込んでくるのと同時に鼻にまで突き上げてくる刺激臭。昔、近所のおばあちゃんにドリアン味だよと聞いたことがある。
この刺激的な風味がたまらないんだよなあと思いながらごくんと一口目を飲み込んだその横で、突然大きな声が上がった。
「まっず!」
隣を見れば有森兄が盛大に顔をしかめて舌を出していた。
「あ、やっぱりダメだった?」
「どう考えてもダメに決まってるだろ……! なんだよこのくそまずい味」
「えー、こんなにうまいのに」
恨めしそうな顔で有森兄が、ごくごくとジュースを流し込んでいる俺を見てくる。
「これじゃお礼じゃなくて罰ゲームだろ」
「悪かったって。俺は好きだから気に入ってもらえるかと思ったんだよ」
「馬鹿舌」
「馬鹿舌って、それは言いすぎだろ!」
言い合って、視線がかち合うこと数秒。ふと急に馬鹿らしくなって吹き出したのは同時だった。
ふははっと弾けるような笑い声が夜の公園で重なる。一気に心がほどけて気が緩んだ、そんな感覚を抱いたのはきっと俺だけではないはずだ。
目の前にあるその顔は有森とそっくりなのに、その中身は似ているようで似ていない。
俺は眦に滲んだ涙を拭いながら、彼のことをもっと知りたいというシンプルな思いから問いかける。
「有森と双子ってことは同い年だよな、俺と、えっと」
「ツバサ」
「……ツバサ」
「ん」
「ツバサはどこの高校に通ってんの? うちの高校じゃないよな?」
「ああ。黒須賀だよ」
「黒須賀?」
黒須賀は県内唯一の男子校だ。偏差値はだいぶ低く治安が悪いことで有名だ。
有森の成績はよくわからないけれど、うちの高校に合格している双子の妹と比べると学力には結構な差があるらしい。聡明そうな見た目のツバサがあの不良高校にいるとなると、それはそれは浮いて見えることだろう。
「で? ツバサはこんな時間になにしてたんだよ」
「ただの散歩。夜歩くのが好きなんだ」
「見つかったら補導される時間だぞ」
人のことを言える立場ではないけれどお節介心が芽を出す。
するとツバサは顎を持ち上げて空を見上げた。今夜は満月だ。青白い月光が、線の細い横顔の輪郭を描き出す。
「真夜中ならだれの目にも映らないから」
少し掠れた細い声が耳朶を打つ。
「まあ、あんたに見つかっちゃったんだけど」
そう言ってくすりと笑うツバサ。
いったいなにがツバサを切ない表情にさせるのだろう。そんな感傷的な感情が込み上げてきて、けどふと我に返る。いやいやどの顔でそんなこと言ってんねんと。
「……もったいないだろ!」
「え?」
突然の抗議に、ツバサが驚いたように目を瞬かせる。
「俺がツバサだったら絶対昼間に歩きまくるのに! だって見せつけて歩きたいし、顔面を!」
なにをそんなに卑屈になっているかは知らないが、みんなに羨ましがられるような容姿を持っておきながら、なんて宝の持ち腐れだ。
「くそ……モテまくりに決まってるのに……」
知ってる。こうやってがつがつしていない、かつ少しミステリアスさを醸し出す男が女の子は好きなのだ。そのうえ背負い投げでひったくり犯を捕まえてしまうほどの漢気を併せ持っているなんてずるすぎる。
俺はツバサの両肩をがしっと掴んで真剣な顔で言い聞かせる。
「ツバサはもっと堂々とした方がいい。そんなこと言ってると男共に僻まれるぞ。顔も性格も、同性の俺から見てもこんなにかっこいいんだから」
するとぽかんとすること数秒。
「ははっ」
ツバサが吹き出し、大声で笑いだした。
「変な奴」
「変な奴って……俺は真剣なんだけど」
「でもいい奴だな、お前。ははっ」
「そ、そんな笑うなよ」
やっぱりツバサの笑い方は気持ちがいい。光が弾けるような、まるで太陽が笑っているような、そんな笑顔は見ているだけでこっちまでつられて可笑しくなってしまう。
有森もツバサみたいにもっと笑えばいいのになと思う。
でも――違う、俺が笑わせてやればいいのか。
「……俺、最近有森と仲良くてさ」
一方的に、とは言わない。けどまあ、図書室という名の密室でふたりきりの時間を過ごしたのだから仲いい認定はしてもいいだろう。
するといきなり妹の話を切り出したからかツバサが驚いたように目を見張る。
「あいつと?」
「有森ってなんの話したら楽しんでもらえるかな」
「なんでそんなこと気になるんだよ」
「え、いや……友達、になりたいなって」
幼なじみにマウントをとるために惚れさせたいのだ、とはこれもまた言わない。けどまあ、友達という段階を踏むのはマナーだから嘘ではないだろう。
「だから有森のこと知りたいんだ」
すると不意にツバサがふいっと顔を逸らしてキャップのツバを深くした。そして突き放すかのように、その声の輪郭が鋭利なものになる。
「悪いことは言わないから、あいつにはこれ以上関わらない方がいい」
「え?」
「あいつは普通じゃないよ」
あれだけまずいと言ったマジカルジュースを一気に呷ると、空になったアルミ缶をぐしゃりと握りしめてツバサが立ち上がる。
なにかがツバサの逆鱗に触れてしまったのであろうことは目にも明らかだった。
「そろそろ帰れよ。優等生が補導されるわけにはいかないだろ」
一度も顔を見ないままツバサが立ち去ろうとする。
「待てよツバサ……! 普通じゃないから関わるなって、なんだよそれ!」
張り上げた声が背中にぶつかり、ふとツバサが立ち止まる。
けれどそれはツバサの足を一瞬引き留めるまでにしか至らなかった。
「もうひったくりに遭うなよ」
それだけ放ち、ツバサは振り返ることなく行ってしまう。
俺はただ公園の真ん中に立ち尽くし、拳を握りしめることしかできない。
だってどうしたって俺はあの兄妹のことを知らなすぎる。ふたりがなにを抱えているのか、どんな軋轢があるのか、俺はまだなにも知らない。そんな俺がふたりの間に割って入っていく権利がないことは、自分が一番わかっていた。
有森に近づきたい。ツバサのことを解りたい。それなのになにもできない己の無力さにただ打ちひしがれるしかなかった。

