【完】君の涙は透明であるべきだったか




「やっほ、有森!」

 翌日。昼休みになって図書室を訪れれば、カウンターには有森の姿があった。

 あのあと教室に戻った有森は、やはりさっきまでのやりとりは夢だったんじゃないかと思うほど、俺のことを視界の端っこにも入れようとしなかった。だれにも触れさせない分厚い透明なバリアで武装する有森は、俺が知っていた彼女の姿に戻っていた。
 有森との距離を縮めるにはやはりふたりきりになれる時間が必要なのだ。
 西園に先を越されるわけにはいかない。奴が本気を出したらあの有森でさえもころっと簡単に好きになってしまうだろうから、なるべく早く俺に惚れさせなければ。

「ずっと楽しみにしてたんだ。こうして有森とふたりきりになれるの」

 さらりとキラーワードを発してみるけれど、有森に響いた手応えは1ミリもない。こちらを一瞥しただけで、また無言でコッペパンを口に含む。
 なんだこいつ。西園の奴はよりによってどうしてこんな変人に惚れたのだろう。
 やはりこのターゲットはかつてないほどに手強そうだ。

「あ、そうだ。ねーねー、連絡先教えてよ」

 有森の前に回り込み、床にしゃがみこんでカウンターに頬杖をつく。そして上目遣いでそう強請ると、有森は温度のない冷めた眼差しで俺を見下ろし一言。

「スマホ持ってない」
「は!?」

 信じられない返答に、ここが図書室だということも忘れて思わず大声を上げて立ち上がった。

「こんなご時世でスマホ持ってない奴とかいないだろ……!」
「そんなこと言われても持ってないから」

 表情をひとつも動かさずにそう言うと、もう用はないというように、俺から視線を外してコッペパンを一口頬張る有森。
 今時の高校生がスマホを持っていないなんてあるわけないのに、そんなあからさまな嘘をつくということは、よっぽど俺に連絡先を教えたくないのか……。
 いや、待てよ。この変人ならスマホを持っていないこともありえるのか……?
 予期せず訪れた心理戦という展開に、必死に思考を巡らせて腹の中を探ろうとする。
 ……というか。

「え、なんでパン食べてんの?」

 つい突っ込まずにはいられなかった。駆け引きに集中したいのに、目の前で有森がコッペパンを食べているというこの状況が気になってしまって仕方ないのだ。
 すると有森はこちらを見上げ、理解不能という表情を作る。

「昼休みだから」
「いや、でもここ図書室だろ」
「別に食べながら歩き回るわけでもないし」

 悪びれた様子もなくそんなことを言うものだから、思いがけずアバウトな性格にちょっと驚く。
 てっきり図書室は飲食禁止だとばかり思っていたから、弁当を持ってくるなんて考えは端からなかった。
 まあ、たしかに図書室には俺たちの他には人の気配はない。ここでは弁当を食べてもだれにも見つからないだろう。進学校の我が校では、わざわざ小説を読みに来る生徒はいない。それよりも問題集や進路関係の資料が揃っている自習室にみな向かうのだ。

 と、そのとき、まるで嫌がらせをするかのようなタイミングで腹の虫が大きな鳴き声をあげた。
 がらんとした図書室に突如響き渡った間抜けな音に、さああっと青ざめる。まさか自分の腹から出た音だとは俄には信じられなかった、いや信じたくなかった。一度として人前で腹を鳴らしたことなんてないのに、なんでよりにもよってこんなときに。

「はは……」

 穴があったら今すぐ入りたいとはまさにこのことだ。
 なんで、有森の前ではかっこつかないことばかりなのだろう。

 すると有森は食べていたコッペパンを、くわえていたのと反対の端からぱっくりと半分に割った。

「あんこ食べられる?」
「え、食べれるけど……」

 状況を飲み込めないまま返事をすると、有森が「ん」と自分が持っているのよりも大きく分けられたコッペパンを差し出してくる。

「いや、そんな、それ有森の昼食だろ」
「別にいいよ」
「でもそしたら有森が……」
「そんな食い意地張ってないから」

 ここまで言われてなお遠慮したら、女の子に向かって食い意地が張っていることを認めてしまうことになる。もちろんたくさん食べる女の子はむしろ大好きだけど、無駄な恥をかかせるわけにはいかない。
 ありがたく優しさを受け取ることにした俺は、カウンターの裏側に回り、有森の隣のパイプ椅子に座る。

「さんきゅ」

 有森からコッペパンの半分をもらうと、いただきますと呟いてかじりつく。
 スーパーでよく売られているこのコッペパンは、パンの部分に比べて明らかに少ないあんこしか挟まっていない。だけどそのわずかな甘みが妙に沁みた。

「久々に食べたけど結局これが一番うまいんだよな」

 当たり前のように返事はない。
 様子を窺うように隣を見ると、これまでにはないほど有森が近くにいて、思わず心臓が跳ねた。
 端正な横顔と柔らかいウェーブをそよがせる綺麗なブロンドの髪。セーラー服の袖から伸びる透き通るようなほっそりとした腕。目に映るすべてが見てはいけないような神聖なものに思えてなんだか急に気恥ずかしくなり、空白を埋めるように話題をたぐり寄せる。

「有森って普段もパン食べてるのか?」
「うん」
「弁当じゃないんだ?」
「……母は作ってくれるって言うけど、ちょっと苦手なんだ」
「どういう意味?」

 どうしてあんたなんかに話してやらなきゃいけない。そんな気配は察した。
 けれどいつまで経っても離されない視線に、有森は観念したように重い口を開いた。

「手作り弁当は愛情がなければ作れない。でも自分は愛情をもらうのが怖いんだ。返せないから」

 思いがけない言葉に、俺は再び有森の横顔を見る。
 有森は長いまつげを伏せて、コッペパンの断面に眼差しを落としていた。

 愛情は見返りがあるからこそ成り立つものなんかではない。見返りのない無償の愛だってある。親だとしたら尚更だと思う。
 なぜ有森は両手を広げて愛情を受け取れないのだろう。なにが彼女にそうさせているのだろう。
 愛情を受けることに後ろめたささえ感じているような――。

「矢野は」

 つい物思いに耽っていると、不意に有森が俺の方を見た。突然視界に人形のような顔が飛び込んできて俺を見つめてくるものだから、そこではっと我に返る。

「え?」

 それは多分有森なりの気遣いだったのだろう。無口な彼女は話を広げることは好まないだろうに、自分が作ってしまったなんとなく気まずい空気をほぐすように問いかけてくる。

「なに食べてるの?」

 けれどこれもまたあまりいい流れにはならない話題だった。

「一応弁当。と言っても前日の夕食の残りとかバイトでもらった残飯とか詰めてるだけなんだけど」
「自分で?」
「うん、まあ。母さんが弁当を作れる状況じゃなくて。あ、でも全然悲観的な話ではないよ」

 重くならないように保険をかけながら、でもまだ2回しか話したことのない女の子に、あまり愉しくはない事情を打ち明けていることが自分でも不思議だった。
 多分、有森は同情することも嗤うこともしない。だって他人に無関心だから。そう思うとつい心の鎧が解けたのかもしれない。

「だけど恥ずかしいよな。御曹司なんて言われておきながら、実際の弁当は残飯だらけだ」

 乾いた嘲笑がやけに耳についた。
 弁当箱を開けるとき少しだけ躊躇する。まわりの女子たちが会話に夢中になっている隙に蓋を開けて、できるだけ視界に入らないように弁当箱に角度をつけて一気に食べる。
 体によさそうな薄味の料理と、味付けの濃い油物。俺の弁当箱はカオスでいつもちょっとよくわからない匂いがする。

 すると不意に俺の耳に一本の矢のような声が差し込んだ。

「どこが恥ずかしいの?」
「え?」
「だれだって多かれ少なかれ本当の自分を隠して、自分の――もしくはだれかの理想を演じてる」

 顔を上げて隣を見れば、まっすぐな瞳で俺を見つめる有森がそこにはいた。

「残飯だっていいじゃん。矢野はよくやってると思うよ」

 なんでだろう。有森の眼差しと声には嘘がない。こんなに穢れのない澄んだ眼差しを、俺はもしかしたら初めて見たかもしれなかった。
 なんの躊躇いもなく心をすべて委ねてしまいたくなる。いつだって相手の顔色を見ながら、相手に好かれる言動ばかりを考えてきた俺にとって、こんな気持ちは初めてだ。

 胸を打たれて言葉を失っている俺に、有森が突然ふはっと破顔した。

「って、なんか偉そうだね」
「……っ」

 きゅっと胸の奥あたりが詰まった感覚。
 俺は瞬きも忘れて目を見張ったまま有森の笑顔に釘付けになっていた。
 だって君が思ったよりも大胆に笑うなんて知らなかったから。品よく纏まった身だしなみとは裏腹に、口を開けて白い歯をこぼす、くしゃっとくだけたその笑顔が魅力的だから。

「矢野?」

 ぽーっと有森を見つめていると、有森が不思議そうに小首を傾げる。
 
「あっ、悪い、なんでもない」

 かあっと耳が熱を持つのを感じる。胸の奥が熱くて、それは全身に伝播していた。
 目の前にいる有森が、その可憐なビジュアルに対するものとは少し違う温度と質感で、とてつもなく可愛く思えてくる。有森が俺を見てるというだけで急激に落ち着かなくなる。
 ……なんだこれ、有森ってこんなにきゅるきゅるだったっけ……。

「な、なに読んでたんだ?」

 なにか話をしなければ不審に思われてしまうからか、あるいは自分の感情を落ち着かせるためか、自分でもよくわからないまま咄嗟に目に入った話題を掻っ攫う。
 昼食を食べるため一時中断していたのか、カウンターの上には読みかけらしき栞の挟まった本が置かれていた。栞といっても本に挟まっているのは有森のものだろう図書カードだ。やっぱり彼女はだいぶ大雑把らしい。

「これ?」

 有森が本を手に取る。それは少し古びたハードカバーの海外小説のようだった。

「小学生の頃大好きでずっと読んでた本。偶然ここで見つけたから」
「"勇者と羅針盤と囚われの姫"……? 初めて聞いたな。どういう話?」
「タイトル通り。勇者が敵国に囚われてる姫を助けに行く話」
「へえ。有森ってそういう話が好きなのか」
「子どもっぽいけどね。この勇者はただの凡人なんだ。魔法の剣も持ってないし、空飛ぶドラゴンもいない。その身ひとつで姫を助けに行くんだけど、子どもの頃はそれがかっこよくてなんか羨ましくもあって」

 まるで夢を見るような眼差しでそうっと深い緑色の表紙をなぞる有森。
 有森は自分を助けてくれる勇者が現れるのを待っているのだろうか。そうだとしたら俺は有森の勇者になれるだろうか――。

 するとそのとき、有森が立ち上がった。

「有森、もう行くの?」

 まだ昼休みが終わるまで5分ほど残っている。

「どうせもうだれも来ないし」
「え、でも」
「じゃあ、ばいばい」

 それだけ言うと有森は足早に図書室を出て行った。
 俺はというと、突然訪れたふたりの時間の終了の知らせに、馬鹿みたいに平仮名数文字しか返せていないというのに。

 有森が消えていったドアの方を見つめた姿勢のまま数秒。急に静かになった図書室で俺は力が抜けたようにがくりとカウンターの上に突っ伏した。

「なんだこれ……」

 思わずぽつりとこぼれた声が図書室の静寂に吸い込まれていく。

 有森はもう去ったというのに心がざわざわして落ち着かない。
 まるで胸の中で卵が割れて新たな命が孵化し、生まれたての未知のものに出会ったような感覚だ。有森がさっき見せた笑顔がまぶたの裏に焼きついて離れない。

 早く俺に惚れればいいのに。早く俺のものになればいいのに。
 ……西園には渡したくないな。あの笑顔は俺だけの秘密の宝物にしたい。

 とはいえ、彼女が俺の方を向くことはもしかしたらないのかもしれないという弱気を隠すこともできなかった。
 だって君はやっぱり今日も"またね"をくれないのだ。