【完】君の涙は透明であるべきだったか




『宇恭は本当にお利口さんね』

 いつの記憶だろう。たしか小学校にあがってすぐのこと。漢字が多く使われた児童文学を朗読した俺に、母さんはそう言って拍手をしながら顔を綻ばせた。

『ぼく、おりこうっ?』
『ええ、とってもね』

 褒められてはしゃぐ俺を母さんが抱き寄せる。小さい俺をすっぽりと包み込むエプロンからは石鹸の匂いがした。
 あの頃の母さんはまだ元気で、いつもおいしそうな夕食の匂いと共に学校から帰る俺のことを迎えてくれたっけ。

『母さんは勉強苦手だったから。宇恭は神様が私の元にくれたプレゼントなのね』
『プレゼント?』
『そう、宇恭は母さんの誇りであり希望なの。母さんも見たこともない景色を、きっと宇恭は見せてくれるんだろうな』

 幼い俺には母さんの言葉は少し難しかったけれど、母さんが自分を大切に思ってくれていることは理解できた。
 きっと自分が頑張れば母さんはこうやって喜んでくれるのだろう。そしてたくさん褒めてくれる。たくさんぎゅーってしてくれる。そうしたらとっても嬉しい。
 でももし頑張らなくなったら、母さんは悲しい顔になってしまうかもしれない。いらないって棄てちゃうかもしれない。

『お利口さんな宇恭にこれをあげる』

 そう言って母さんがエプロンのポケットから取り出したのは、手のひらよりもひとまわり小さく折られた水色の折り紙だった。

『これはお守り。宇恭頑張れ~!っていう母さんの応援パワーが入ってるお守り』

 母さんお手製のお守りは、幼い自分の目には無限の魔法が秘められているように映った。

『ぼく、がんばる!』

 母さんの誇りであること、それこそが自分自身にとっても誇りだった。



 終礼のチャイムが鳴り、担任が出て行く。午前中の授業が終了し、クラスメイトたちが続々と羽根を伸ばし始める中、俺は机に座ったまま紙切れを呆然と見つめていた。
 紙切れは先日行われた校内テストの総合成績表だ。クラス順位は当然のごとく1位。――けれど学年順位は2位。
 俺を2位へと押し下げた存在は間違いなくあいつに決まっている。

 正直今回のテストは手ごたえがなかった。
 試験の前日、急に欠員が出たからとバイト先から呼び出されたせいで、最後の追い込みができなかったのだ。
 バイト先である居酒屋の店長は人遣いが荒くパワハラ体質で、その日も出勤を断ろうとした俺にクビにすることを仄めかしてきた。
 仕事内容は忙しいものの時給はそれなりに良く、まかないが出たり残飯をもらえたりもするため、クビにされるのは避けたかった。だから仕方なくバイトに向かったのだ。
 そしてバイトから帰宅し徹夜で勉強をしたけれど、やはり万全とはいかなかった。

 薄々わかってはいたものの、やはりこうして数字として突きつけられると心にくるものがある。
 ぼんやり視線を落としていると、頭の上から女の子の声が降ってきた。

「宇恭っちはやっぱり今回もクラス1位?」

 顔を上げると、前の席の委員長が体をひねるようにして俺の成績表覗き込んでいた。

「えっ、ああ、うん」

 内申点があがるからという理由でクラスの委員長に立候補した彼女は、このクラスの女子たちのボス的な存在だ。ダンス部の主将も務め、なににも臆せずはきはきとした性格で、多分俺のことが好き。
 そんな医院長は俺の成績表の上の数字の羅列に目を見張る。

「全教科90点以上!? 本当にすごいなー、宇恭っちは。いっつもクラス順位安定の1位じゃん」
「うん、まあ……。でも委員長だって文武両道ですごいよ」

 居心地の悪さを感じながらも、とりあえずいつものように相手を持ち上げる。
 すると委員長は悪気もない様子で笑った。

「いやいや、私なんて全然。宇恭っちとか西園くんの足元には全然及ばないよ」

 突然委員長の口から出た名前に、心の端っこを鋭利ななにかがひりっと掠った。

「やっぱり今回もトップは西園くんかな~。こんなにすごい宇恭っちでも2位なんて……。西園くんって人間じゃないよね」

 頬が引き攣る。愛想笑いさえできないほどに。
 俺は立ち上がった。突然動いた俺を、委員長が驚いたように見上げる。

「宇恭っち?」
「……や、委員長はやっぱり今日も可愛いなと思って」
「えっ……? きゅ、急にどうしたの?」

 自分でも自分がなにを言っているのかよくわからなかった。適当なことを口にしながら、俺はろくに委員長のことも見ないまま教室を出る。

 他人からしても、俺よりも西園が上。その認識がもうできあがっている。
 いつだって西園がついて回ってくる。俺だけを見て、俺だけを評価してくれる人なんてどこにもいない。
 
 俺の足はわき目も降らず屋上に向かっていた。階段を上りながら、手はブレザーの内ポケットを探る。
 そして屋上の扉を押し開けたとき、いつものまっさらな水色の景色の中に異変を見つけた。
 フェンスの前に濃紺のセーラー服に身を包んだ女子の姿があり、そしてあろうことか彼女はフェンスの向こうに身を乗り出しているのだ。
 ――ここから飛び降りようとしている。
 思考は追いつかない、けれど緊急事態であることは本能が察知した。瞬時に頭の中に赤いランプが点灯する。

「おい……!」

 咄嗟に声を飛ばしながら、足を動かしていた。
 彼女が俺の声に気づいて振り返る。俺はそんな彼女に飛び込むようにして、彼女もろとも屋上の地面に転がった。

「……っ、なにしてるんだよ馬鹿!」

 体を起こすのと同時に、口から怒号が飛び出す。地面に擦った痛みなんて忘れていた。
 と、馬乗りの体勢のまま固まる。
 地面に扇形に広がる細く長いブロンドの髪。透けるような白い肌に、驚いたように見上げてくる宝石のような瞳。――俺の下に倒れていたのは、有森由羽だった。

「え……」

 思いがけない影の正体に呆然とすると同時に、間近にあるその顔立ちから目を離せなくなっていた。教室で遠巻きに見ても綺麗な顔だと思っていたけど、こうして近くで見ると精巧な作り物のようでその迫力は凄まじい。

「──どいて」

 不意に鈴のような、けれど鋭い声が耳を刺す。はっとして馬乗りのようになっていた上体を起こすと、彼女もゆっくりと体を起こした。

「勘違いだよ」

 手についた汚れを払いながら彼女が一言そう放つ。
 余計なノイズのない、滑らかな澄んだ声だ。授業中に指名されて発言していた機会は一度や二度ではないはずなのに、彼女の声をまともに聞いたのは初めてのような気がする。
 持って生まれた声も大きな瞳も可愛らしいはずなのに、彼女が発するその声音や眼差しはなぜかとてもさっぱりとして感じるのはなぜだろう。

「え?」
「グラウンドを見てただけ」
「グラウンドを見てただけ……?」

 じゃあ俺の早とちりだった……?
 呆然として、直後、それは怒りに変わって大声をぶちまけていた。

「驚かせんな! 紛らわしいことすんな!」

 恐怖は怒りへ、そしてそれは気持ちが落ち着くと共に安堵へと変わり、脱力して後ろ手をつき、空に向かってため息を吐きだす。

「まじでびびった……くそ……」

 頭上では2羽の鳥が寄り添い合うようにして飛んでいる。ああ、まったくなんて呑気な奴らだ……。
 と、そこで不意に我にかえる。気が動転していてうっかりしていたけれど、いつものキャラを完全に忘れていた。やばい。

「なんて。はは、ごめん、ちょっと慌てちゃって。でも本当によかった、由羽ちゃんが無事で」

 慌てて姿勢を正して笑顔を作る。
 この笑みを見せれば大抵の女子はきゅんと瞳をときめかせるはずなのに、彼女はそれに反応することなく、代わりに顎の先で俺の後方を指した。

「落としてるよ、煙草」
「え?」
「矢野のでしょ」

 はっとして振り返ると、数メートル後ろに煙草の箱が落ちているのを見つけた。そして間違いなくそれは俺のものだ。手に持ったまま飛び出したせいで気づかないうちに落としていたのだ。
 絶句し、けれど彼女の方を振り返るのと同時に笑みと嘘を取り繕う。

「はは、まさか。俺のじゃないよ。あれはたまたま拾って……」
「嘘つかなくていいよ」
「え?」

 遮るようにして放たれた言葉に固まる。

「ここで煙草吸ってるの見たことあるし。屋上来るといつもいるから」

 予想だにしなかった事実に愕然とする。
 知らなかった。まさか煙草を吸っているところを見られていたなんて。よりによって厄介そうなこの女に。
 完璧に取り繕ってきたはずの俺の王子様像に亀裂が入ったのを感じた。
 彼女の前では失った株を取り戻すには手遅れであること察し、おそるおそる問う。なんと言ったって今目の前にいるのは、俺の高校生活を脅かす脅威そのものなのだ。煙草を吸っているなんて学校中にばれたら、今日まで必死に積み重ねてきたものが水の泡となる。

「……チクったりしないのか?」

 俺の命は彼女の手の中にあった。もし彼女が今ここで土下座しろと言うならば、喜んで地面に額を擦りつけよう。
 けれど彼女はそんな俺の緊張感なんてちっとも気にすることなく、さらっと答えた。

「しないよ、わざわざそんなこと」
「え……?」
「そうしたところでなんの得がある? 矢野が煙草を吸おうが自分には関係ないし」

 彼女の言葉に、肩から急に力が抜けていくのを感じる。本気でどうでもいいと思っているのであろうその口ぶりに、どうやら命拾いしたらしいことを察する。
 ああ、安心したらなんか急に腹減ってきたな……。
 ぽけっと緩んだ思考のまま、俺は彼女を見た。

「俺の名前、知ってたんだな」

 さっき彼女が当たり前のように俺の名前を呼んだことに、今更気づく。気に留める余裕がそのときはなかったけど、改めて考えてみるとそれは小さな驚きだった。

「なんとなく自分と似てると思ってたから」
「似てるって、俺と由羽ちゃんが?」

 その言葉はまったくしっくりこなかった。だって俺は社交的だし協調性もある。正反対と言ってもいいくらいに似ていない気がする。
 そんなことを考えていると、彼女が少しだけ居心地の悪そうな表情を滲ませたことに気づく。

「名前、呼ばないで」
「え?」
「好きじゃないから、自分の名前」

 やっぱり変な奴。由羽、なんて、とっても可愛い名前なのに。まあ、別にどうでもいいけど。

 そんな俺の前で、有森がスカートの汚れを払いながら立ち上がった。

「じゃあね」

 俺との時間をシャットアウトするように言い捨てる。これ以上俺と話す気はないとでも言いたげに。教室に戻れば、また何事もなかったかのようにリセットされるのだろう。

 そのときふと、頭の中で今朝の西園とのやりとりが蘇った。
 有森に恋をしてしまったと頬を赤らめながら告白した西園。完全な片想いなんだけどと自嘲気味に笑った西園。
 ……もし俺が先に有森をおとしたら、俺はついに初めて西園に勝つことができるんじゃないか……? 西園が持っていないものを、初めて手にすることができるんじゃないか……?
 西園が手に入れたいと望んだものを手に入れられたら、それはどんなに気持ちのいいものだろう。その優越感を考えると心が震えた。

「有森!」

 立ち上がりながら、俺は声を張り上げていた。
 その声に、扉に向かっていた有森が振り返る。その動作に合わせて長く豊かなブロンドの髪が風にふわりと揺れる。

「またここでこうやって、有森とふたりで話したいんだけど」

 大きな宝石のような双眸をまっすぐに見つめたまま、愛の告白さながらの真摯で熱のこもったトーンで伝える。
 ふたりきりになれればこっちのものだ。女の子とのコミュニケーションには自信があった。

 すると有森は小さく眉間にしわを寄せて即答した。

「無理」
「……えっ」

 まさか。まさかこの俺が断られるなんて1ミリも考えていなかったから素のまま絶句する。

「人と関わる気はないから」

 それだけ言ってまた有森が行ってしまう。

「待ってくれ!」
「だから……」

 煩わしそうに顔をしかめかけた有森に、俺はこの機を逃すまいと声をぶつけていた。

「有森がいいんだ!」
「なんで? 放っておい……」
「俺のことをわかってくれる人なんていない。心は孤独で、本当はずっと虚しいんだ……。でも有森と一緒にいたら気が楽なんだ。有森は似てるって、俺もずっと思ってたから……」

 切なげに目を伏せ、弱り切った声を絞り出す。
 これでどうだ。同情を誘う作戦だ。女の子はこうやって自分だけに弱みを見せられると、特別感を得ると共に守ってあげたいと庇護欲を誘われるのだ。
 ちらりと視線を上げて様子を窺えば、有森は少しだけ逡巡するように下唇を噛んでいた。
 もしかしてこれは……。
 手応えを感じたのと同時に、有森がぽつりと声を落とした。

「……毎週水曜の昼休みは、図書委員で図書室にいる」
「まじ……っ?」

 有森の中の不信感は拭えていないようだけれど、今はそんなことどうでもいい。約束をとりつけた、それだけで今のところの目的はひとまず達成されたのだ。
 しかも図書室というのもまた、こちらからすれば好都合だ。有森と一緒にいるところがむやみに人の目に触れたらあることないこと騒がれそうだし、変人と絡む俺もまた物好きな変人と判定されかねない。

「さんきゅ! また有森と話せるの楽しみにしてるから」

 にこりと得意の笑みを浮かべるけれど、そんな俺を見ても有森は表情を緩めることなくくるりと踵を返す。

 なにを考えているのか読めず、やっぱり苦手だ。
 けれど思いがけず西園を打ち負かせる可能性を見出してしまった。有森由羽、存分に利用させてもらおうじゃないか。
 西園の負け顔を想像するだけで、不敵な笑みをこらえることができなかった。