秋が終わり、冬が来た。そしてその冬もまたあっという間に過ぎ去り、雪解けと共に新たな季節がすぐそこまで近づいている。
我が高校でも先週卒業式が終わり、第2学年としての学校生活も残り数日となっていた。
「んんん~」
高校からの帰り道、晴れ渡った空に向かって凝り固まった両腕と背筋を大きく伸ばす。
今日は朝から終日、期末試験がおこなわれた。2年生の集大成である今回の期末試験は手応えはあるものの、さすがに1日中脳をフル稼働させていたため疲労感は大きい。
3年生への進級を目前に、ひとつひとつの模試が持つ重要性も増してきていた。進路についていよいよ本格的に向き合わなければならないときがきたということだ。
俺が志望しているのは国公立大学への進学だ。奨学金を借りながら法律について学びたいと考えている。
「宇恭、おつかれだな」
隣で晴翔が、今日も無駄に爽やかな笑い声を漏らす。
「お前はほんと、なんでそんなにいっつもキラキラオーラ満開なんだよ」
「え、俺?」
「お前以外にだれがいるんだよ」
今日も相変わらずの悪態をつき、けれどふと思い直す。
「あ、でも、違うな」
「うん?」
「なんかいいことあったか?」
晴翔はそもそもいつだってキラキラスマイルがデフォルトなので大きな違いがあるわけではない。ただ、今日はどことなくいつもより浮かれているような。
するとその指摘は図星だったらしく、晴翔は照れくさそうにはにかんだ。
「実は明日、彼女とデートなんだよね。最近お互い忙しくて久しぶりだからずっと楽しみにしてて」
晴翔は嬉しいも幸せも、かっこつけたりスカしたりせずにありのまま素直に表現する。だからこそその幸せオーラはまわりに伝播し、晴翔のまわりにはいつも人が絶えないのだろう。
そしてそれは俺も例外ではなく、思わずくすりと笑みをこぼしていた。
「宇恭、どうかした?」
「いや」
お前があんまり嬉しそうだから、つい俺も嬉しくなった。……なんて言えるはずもなく。
「絶対彼女泣かせんなよ!」
わざと必要以上の力を込めて思い切り背中を叩く。
大切な人がすぐ隣にいてくれる日々は決して当たり前のものではないと俺は知っている。だからこそ晴翔が自分の手で見つけたその幸せは、だれにも邪魔されることなくこれからも続きますようにと、心の中でそっと祈った。
晴翔と別れ、自宅へと続く道を歩く影はひとりだ。
ひとりになり、自分のまわりを取り巻く声がなくなると、どうしても考えられずにはいられない。有森のことを。
あれから有森は一度も高校に姿を現していない。スマホを持っていない有森とは連絡もとれず、家の場所もわからず……いや、本気で知ろうと思えば居場所を知る術はなにかしらあるのかもしれない。それでも動けないでいるのは、有森の望みがわからないまま不透明だからだ。もし俺の前からこのまま永遠に姿を消したいと思っているのなら、捜してはいけないのではないだろうかと。
中学生が乗った自転車が向かい側から勢いよく走ってきて、向かい風を起こしてすれ違っていく。
乱雑に髪を揺らされながら、風の隙間にふと微かなメロディを拾い取った。それはスマホの着信音だった。スマホを学ランの胸ポケットから取り出すと、ディスプレイには見覚えのない電話番号が並んでいる。
何気なく耳に当てる。と、スマホの向こうから聞こえてきた声に、俺は思わず足をとめていた。
『……矢野。久しぶり』
「有森……!?」
自分がこの声を聞き間違えるはずがない。有森がスマホ越しにいる。その実感に、ばくばくと鼓動が騒ぎ出す。まだ4ヶ月しか経っていないのに、その声がひどく懐かしい。
有森も久しぶりの会話をどこかで望んでくれていたのか、微かに吐息をほころばせながら返事をくれる。
『元気にしてた?』
「ああ……。でもこの番号なんで……スマホ買ったの?」
『うん、やっとね。それでおばさんに矢野の番号聞いたんだ。矢野に直接伝えたいことがあったから』
「伝えたいこと……?」
微弱な電流のような緊張が体中を駆け抜ける。歩道の真ん中に佇んでじっとスマホの向こうに意識を注いでいると、有森が整然と、そして俺を置いていかないように落ち着いたトーンで言葉を並べていく。
『実は4月から通信制の高校に転校することになったんだ』
「え?」
『昔から興味のある職業があって、それについて専門的なことを学べる通信制高校があることは知ってたんだよね。だからこれを機にっていうか、挑戦したいなって。母を説得するのは正直とてつもなく疲れたし、傷つくこともたくさん言われた。でも多分少しずつ理解しようとしてくれるようになったと思う』
「そっか……」
『今までは、敷かれたレールの上を行儀よく生きなきゃって思い込んでた。でも曲がり道をしてみてもいいのかもって。そう思うようになったら自分でも驚くくらい肩が軽くなって呼吸がしやすくなったんだ』
そう話す有森の声は、自由を見つけたかのように軽やかで。スマホ越しにも、柔く晴れやかに笑む有森の顔が目に浮かぶ気がした。
『矢野のおかげだよ。矢野が背中を押してくれたから、母と、自分と、向き合おうって決心できた』
「……そんなことない」
苦笑して、ふるふると首を横に振る。
自分の世界と向き合うために一歩を踏み出したのは、有森の勇気ある意思の証そのものだ。
『与えられた言葉をきっかけにして、そこから行動したのは矢野自身だよ』
いつの日か有森がくれた言葉が鼓膜に蘇る。
そう、俺が与えられたのはきっかけに過ぎなかった。それを糧にして前に進んだのは有森なのだ。
あの日そう声をかけてくれた有森の気持ちを、今理解できた気がする。あのときの有森もこんなふうに俺のことを眩しく、そして誇らしく思ってくれていたのだろうか。
「頑張ったな」
それは心からの労りだった。
けれど、胸にぽっかり空いた喪失感を見逃すこともまたできなかった。
毎週水曜日の昼休み。図書室に行っても君はもうそこにいない。柔らかい陽の光を浴びながらカウンターで本を読む君の姿は、俺の初恋の形そのものだった。
悲しみの色を取り払うようにできるだけ声のトーンを持ち上げ、それからいつか報告したいと思い続けていたことを伝える。
「そういえば、校則が4月から変わることになったんだ。晴翔が俺のマニフェストを実現するために校長たちに掛け合ってくれて、男女関係なく着たい制服を選べるようになるんだ」
『そうなんだ……矢野のマニフェストが……』
「有森の学ラン姿見たかったな。きっとっていうか、絶対似合うんだろうな」
じんわりそう呟く。
同じ学ランを着て同じ教室で学び、図書室のカウンターに並んで本を読む。そんな日々ももしかしたらどこかにあったのかもしれない。もしかしたらそう遠くはないところに。
見てみたかった未来像に思いを馳せていると、不意に、
『……矢野?』
有森が躊躇いがちに俺の名を呼んだ。
「ん?」
そっと寄り添うように答えれば、息を整えるような間のあとで少しふやけた声が俺の耳に届いた。
『本当の自分を受け入れてくれて、ありがとう』
瞬間、虚をつかれた自分の喉元からふっと情けない息が漏れた。なに言ってんだよと目の奥が熱く痛む。
「そんなのこっちの台詞だよ」
ぼやけてきた視界を腕で覆い、くしゃりと顔を崩して想いを返す。
「有森こそ、本当の俺を見捨てないでくれてありがとう」
似た者同士のふたりだから。本当の心を見失い、"自分"を生きることを諦めかけていた俺たちにとって、いつしか互いが互いの光になっていた。等身大の17歳の自分を愛してくれる、唯一無二の存在だった。
こみ上げてくる感情はまるで津波のようで、それにのまれることに抗うのはもうやめた。
「あ~……だめだな、俺……やっぱりだめだわ……」
『え?』
「ねえ有森、母さんに会ったってことは、俺ん家いんの?」
『いや……』
「電話じゃなくて会いたいんだけど」
繕う余裕もなく、自分の想いを荒削りのままぶつける。
するとスマホの向こうで有森の声がわずかに震えた。
『……でも、会ったら離れがたくなる』
「じゃあ離れんなよ……っ。俺はどんな形だっていいから繋がっていたいよ、有森と」
吐露したはずの感情が、次から次に胸に湧いて窒息しそうになる。
そのときだった。
「矢野……っ」
こらえきれなくなったというように俺の名を呼ぶその声が、風に乗って耳に届いたのは。
振り返る。
そして数メートル先に、髪をばっさり切った君の姿を見つけた。
目が合い、お互いの存在がそこにあることを噛みしめ――どちらからともなく駆けだしていた。
もう見失うまいと、小さくて大きな光に向かって。
完

