【完】君の涙は透明であるべきだったか


*


 自宅謹慎を言い渡されて3日目の月曜日。
 俺は自宅のテーブルに突っ伏し、「ああああ~」と唸り声をあげていた。
 頬の下には6分の5ほどが未記入のままの原稿用紙。
 自宅謹慎中に書いてくるようにと指導された反省文がいっこうに進まずにいた。そもそもあいつらが全部悪いのに、なにを反省しろというのか。

 時刻は午後3時。テレビのニュース番組では取り上げるニュースも大してないのか、さっきからずっと天気予報ばかりが流れていた。今週は晴天が続き、本格的な冬が到来する前の最後のぽかぽか日和になるだろうとのことだった。
 そのうちテレビの音も煩わしくなってリモコンでテレビを消したとき。突然、コツコツと背後のガラス窓が叩かれる音がした。
 また小学生のいたずらだろうか。たまに度胸試しのような感覚なのかお化け屋敷だと冷やかしに来る悪ガキ共がいるのだ。

「ったく……」

 舌打ちをして立ち上がり、勢いよくカーテンを開ける。……と、俺は思わず間抜けな顔でその場に立ち尽くした。だってそこには有森が立っていたのだから。
 だぼっとしたラフなパーカーを着た有森は、薄い笑みを唇に乗せて右手を小さく挙げた。

「え、有森……」

 目の前に有森がいる。なんとなくもう二度と会えないのではないかと漠然とした不安が拭いきれなかったからか、その姿を前にしてもまるで夢の中で遭遇したみたいに実感が湧かない。
 フリーズして、けれどすぐに我に返り、立て付けの悪い窓をガタガタと忙しない音をたてて開ける。

「有森、なんでここに……」
「チャイムを鳴らしておばさんを起こしちゃうのもあれだなと思って、こっちに回っちゃった」

 それから有森は眉尻を下げて苦笑した。

「お見舞いと思って来たんだけど、思ったより傷だらけだったね」

 指摘され、咄嗟に殴られてまだ赤く腫れている右頬を押さえる。唇の左端や左目の上も切れて傷口が露わになっているので今更隠そうとしてもなんの意味もないのだけど。でもまさかこんな見るに堪えない怪我だらけの顔面を見られるとは思っていなかった。

「暴力沙汰を起こして謹慎中なんだって?」
「なんでそれを……」
「用があって学校に電話したときに担任から聞いた。あの人口軽いから」
「あいつ……」

 放任主義のくせに口が軽い。だらしなく腹の出た50代の担任は、世間一般にはベテランと呼ばれる歴でありながら、つくづく禄でもない教師だ。

「ねえ、矢野。外に出てちょっと話さない?」

 窓を挟んでそこにいる有森の姿に、俺は思わずぽつりと呟いていた。

「なんか、あの本に出てくる勇者みたいだな」
「え?」
「塔に幽閉された姫を外に連れ出してくれる勇者、みたいな」

 すると有森は苦笑した。矢野のそういうところを羨ましいと思うよ、と。



 俺たちは自宅から10分ほど歩き、川沿いの土手で腰を落ち着けることにした。
 幅5メートルほどの川は雨が降り続いていたせいでここ最近まで水位が増していたけれど、ようやく落ち着きを取り戻し、いつもの穏やかな心地いいせせらぎを奏でていた。
 土手を1メートルほど下ってなだらかな斜面に並んで座ると、有森が手に持っていたビニール袋から、コンビニかどこかで買ってきてくれたのか封の開いていない救急用品を取り出した。
 そして切り傷には絆創膏、腫れているところには湿布を貼ってくれる。
 瞬きもせずに真剣な眼差しで手当をしてくれている有森との距離が近く、始めは黙ってその表情を見ていたけれど、だんだん耐えられなくなってきて、されるがままじっとしながらも逸らすように目を伏せた。
 知らず知らずのうちに呼吸を止めていたせいか、凪いだ川のさざめきが妙に鼓膜に迫る。

「ん、よし」

 息苦しさがいよいよ限界が近づいてきたとき、手当が終わってようやく俺の顔から有森の手が離れた。

「さんきゅ……」

 窒息寸前のところでなんとか難を逃れ、有森がゴミを片づけている隙に慌てて息を吐き出す。そして普段の1.5倍速で肺の中の空気を循環させ呼吸を整えていると、不意に有森がなにかを俺に差し出してきた。

「差し入れ」
「え?」

 それはマジカルジュースの缶だった。それを俺に渡すと、ビニール袋を漁ってもう一本のマジカルジュースを取り出す。そしてプシュッと軽快な音をたてて開けたそれを一口飲み――やっぱりというべきか、覚えのあるあの表情で笑った。

「ん~、相変わらずおいしくないね」

 顔をしかめて笑う有森がツバサに重なる。改めて有森がツバサであることを実感せずにはいられなくて。
 それと同時にふと気づいてしまった。ツバサとマジカルジュースを飲んでいるときに胸を掠めた違和感の正体を。ツバサには喉仏がなかったのだ。
 妙に泣きたくなった。急激に込み上げた感情で窒息しそうになり、それをかき消すようにプルタブを持ち上げて勢いよくマジカルジュースを流し込む……と、次の瞬間、盛大に顔を歪めていた。

「いってえ」

 口内のキズに強炭酸が沁みたのだ。
 ひりひり痛む傷口を落ち着かせるように、ひい~と空気を吸い込んでいると、隣で有森がふっと笑った気配がした。

「暴力沙汰って、どうせ悪口かなんかを言われてたのを代わりに怒ってくれたんでしょ、違う?」
「それは……」
「わかるよ。矢野が意味もなく暴力を振るうような人間じゃないことくらい。馬鹿だね、放っておけばいいのに」

 緑と茶色が混じった草むらの上で、三角に折った膝を抱えた有森がぽつりと声を落とす。
 その言葉に、俺は思わず身を固くした。
 放っておくなんて、そんなことできるわけない。だって――。

「好きな相手が好き勝手言われてるのに黙っていられるわけないだろ……っ」

 思わず、悔しさの滲んだ本音を剥き出しのまま吐露していた。
 あの日拳を振るったのは同情のせいなんかじゃない。有森のことが好きだから。だからこそ有森を否定するような言葉たちが悔しくて許せなかったのだ。
 けれど有森は、ふっと眼差しを陰らせた。痛々しくて悲しげな笑みと共に。

「辞めなよ。女だと思ってなきゃ好きになんてならなかったはずなんだから」
「え……?」
「自分は男で、それは変えられない。だから――」

 ぷちん、と心の中でなにかが切れるような音がした。直後、俺は怒りのままに感情を曝け出していた。

「じゃあなんでこうしてる今も俺の気持ちは変わってないんだよ!?」

 自分でもどうしてこんなにも気持ちが張り裂けそうになっているのかわからなかった。
 ただ、俺の気持ちをなかったこととして扱われるのも、勘違いのようなものだと端から否定されるのもどうしても許せなかった。
 顔を見られただけで幸せで、近くにいるとそわそわして、笑顔になってくれたらこっちまで浮かれてしまう。それだけで、この気持ちを証明するには充分だったから。

「俺が好きになるのは女だけとか勝手に決めつけんなよ! っていうかそもそも男が男を好きになるわけないってなんだよ、頭固すぎだろ! 俺の好きは俺のものだ。俺にとって有森が有森であることに意味があるんだ……っ」

 怒りと共に想いをぶちまける俺に、有森が目を見張る。硝子玉のような瞳に波が立ったのを見た気がした。

「矢野……」

 声を荒らげたせいで息が上がる。もどかしくて悔しくて、気づけばつい感情がヒートアップしていた。
 肩で大きく息をしながら、気持ちを整えるように下唇を噛みしめる。
 今まさにこの胸に息づいている気持ちを、なにひとつこぼさずに伝えなければいけないと思った。知ってほしい、有森は愛されるべき人間なのだと。君だけを想う人間がここにいるのだと。

「有森と過ごす時間が一番好きで、有森と過ごしてるときの自分が一番好きなんだ。有森の仕草が、考え方が、笑い方が好きだよ。読書してるとき喜怒哀楽が顔に出るところとか、プリントを後ろに回すときに体を後ろに向けるところとか、よく空の写真を撮ってるところとか、意外とゲラなところとか、たまにすごい寝癖がついてるところとか、鼻歌のリズム感がないところとか」
「……それ、褒めてる?」

 まつげを伏せ、拗ねたように小さな声で批難してくる有森。
 俺は思わずくしゃりと表情を崩して苦笑した。

「欠点みたいなものすら愛おしいんだから困ったよ。俺はずっと有森を見てたよ、見てたから好きになったんだよ」

 これを恋と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。80億分の中からこんなにも大切な人に出会い、恋に落ちた。それはきっとこの身が震えるほどに幸せな奇跡だ。

「俺ね、何度も有森の言葉に救われてきたんだ。あの日、有森が抱きしめてくれたから凍え死なずにいられた。俺が今ここにいることを、有森が産まれてきた理由にしてよ」

 君が、俺の産まれてきた意味を肯定してくれたように。今度は俺が君の命を肯定する番だ。

 すると自分の身に降り注いだ言葉たちを反芻するかのような間ののち、じっと俯いていた有森が顔を上げ、へへと小さく苦笑した。

「告白でこんなにキレられたの初めて」
「あっ、悪い、つい感情的になって……」

 冷静さを失って暴走したことが今更恥ずかしくなって――ふとそこで気づく。まっすぐにこちらを見つめてくる瞳の水面がゆらゆらと揺れていることに。そしてそれは目尻で小さな光となって控えめに輝いていることに。

「でも、全部伝わったよ、ありがとう」

 淡く儚い笑み。じんわりとした、なにかを大切に抱きしめるような響き。
 まるで有森が心を半分差し出してくれたような、そんな実感がたしかにあった。それと共にきゅうっと胸を締めつけてくる、この痛みの正体は愛おしさだ。 
 こみ上げてくる涙の気配に掠れた声で俺は問いかけた。

「……触れていい?」

 有森は答えなかった。でも首を横に振りもしなかった。ただなにも言わずに長いまつげを伏せる、それは肯定の意味だった。
 そっと有森の頬に右手を添える。そしてわずかに持ち上げるようにして、キスをした。

 世界から音が消える。冬の訪れを知らせるような風が吹き、有森の柔らかい髪がそよぐ。
 触れるだけのキス。そこに永遠なんてあるはずないのに、それでも願わずにはいられなかった。

 やがてゆっくりと唇が離れ、まつげが絡み合う距離で小さく文句をぶつける。

「髪、邪魔」
「……同じこと思った」

 このキスにどんな意味があるのだろう。でもそんなのどうでもよかった。俺たちの関係を、この世界にある言葉に当てはめたくない。世界には曖昧があってもいい。

 草むらの上に置かれた有森の左手に自分の手を重ねる。
 自分のそれより一回り小さなその手は、ただじっとそこにあった。