【完】君の涙は透明であるべきだったか


*


「ただいま……」

 玄関の古びたドアを開けながら呟いた声は、だれに届くこともなく壁にぶつかって消えた。
 17時を過ぎたばかりだというのに、辺りはすっかり夜を気取っている。暗い部屋の中を進み、中央に吊された蛍光灯の紐を引っ張ると、そこでようやく視界が明るさを取り戻した。

 いつもなら部屋の端で母さんが寝ているはずだけれど、今そのスペースには敷き布団と掛け布団が折りたたまれている。
 今日から1週間、母さんはかかりつけの病院で検査入院をすることになっていた。
 午前中に母さんがひとりで病院に行くことになっており、今のところなんの連絡もないので無事に入院手続きは完了したのだろう。

 スクールバッグと学ランのジャケットを床に投げ捨て、買い置きしておいたカップラーメンを作るためにポットで湯を沸かす。普段はなるべく体にいい夕食を作ろうと心がけているけれど、自分だけとなると手間をかけようとは思わない。

 湯を注ぎ、食卓について3分経つ前に思い切り麺を啜る。と、塩辛いスープが口の端のキズに沁みて思わず呻き声が漏れた。
 顔を上げれば、正面の窓ガラスに顔面傷だらけの自分が映っていた。

 あのあと片割れの男に羽交い締めにされた俺は、殴った男から返り討ちに遭い、晴翔や教師たちが止めに入るまでボコボコに殴られた。2対1で、しかもまともに喧嘩などしたこともなかったのだから、無謀であることもこういう目に遭うことも正直最初からわかっていた。
 そして呼び出された職員室で、男たちと共に1週間の自宅謹慎処分を言い渡された。
 担任や学年主任は、矢野に限ってそんなことをするなんてと頭を抱え、殴りかかった理由を何度もしつこく聞いてきたけれど、結局最後まで口を割らなかった。振りかざした拳の理由を、決して有森にはしたくなかった。
 きっと今回の一件は、大学進学にむけての内申点にも響くだろう。
 冷静さを取り戻した今でも、後悔は微塵もない。あそこであの男たちの会話を聞き流していたら、多分自分は自分じゃなくなっていた気がする。
 けれど母さんのことを考えると、心の違う箇所が違う痛みで締めつけられるような気がした。
 今回のことを受けて、保護者も高校へ呼び出されることになった。母さんは入院中のため後日ということになったけれど、問題を起こしたことはいずれ必ず母さんの耳に入ることになる。
 俺は母さんの誇りであり希望であり続けなくてはならなかったのに、こんなんじゃ顔向けできない。

 箸を持った手がテーブルに落ちる。ぼんやりと、カップの中に泳ぐタコの切り身を見つめる。
 時計の秒針だけがやけにうるさく、むしろその音こそが静寂そのものなのかもしれないと、まとまらない思考でぼんやりと思う。
 普段母さんといても、ずっと会話が途切れないわけではない。母さんは寝ていることがほとんどだし、お互い口数が多い方ではない。
 それなのに母さんの呼吸が、存在が感じられないだけで、なぜこんなにも静かなのだろう。

 と、不意に我に返る。ひとりだからといってのんびりしているほどの時間はない。今日もこのあとバイトのシフトが入っている。
 冷め始めてきた麺を急いでかきこんでいた、そのとき。テーブルに置いていたスマホが急に振動した。
 電話がかかってきたことを知らせるディスプレイに表示されているのは公衆電話の文字。公衆電話からの着信には心当たりがあった。急いで通話に切り替えてスマホを耳に当てる。

「もしもし?」
『もしもし、宇恭?』

 スマホの向こうからはやはり聞き馴染んだ母の声が聞こえてきた。

「どうしたの? 急に」
『ふふ、なんとなく宇恭の声聞きたくなっちゃって』
「え……」

 なんでこの人はすべてがわかっているかのようなタイミングで現れたのだろう。
 突然のことに動揺しながらも、さっきまでの孤独が和らいだのがわかった。

「それより体調は大丈夫?」
『うん、大丈夫。先生にも経過は順調ですねって褒められちゃったの』
「そっか」

 自分ではそんなつもりはなかった。いつものトーンで会話していたはずなのに。
 母さんは少しの間を置き、それからそっと尋ねてきた。

『宇恭、なにかあった?』
「え?」
『声がいつもと違うから』

 そこで、さっきの疑問が不意に解ける。俺のことをなんでもわかってしまうのはきっと、この人がたったひとりの母親だからなのかもしれないと。
 その瞬間込み上げてきたのは、罪悪感と、なにより自分の不甲斐なさだった。
 口からよれよれの声がこぼれる。

「ごめん……」
『どうしたの?』
「実は今日、学校で喧嘩して1週間謹慎処分になったんだ。退院次第、母さんも学校に呼ばれることになると思う」
『そんなことが……』
「ごめん、母さん。母さんは俺のことを誇りだって言ってくれたのに。こんな息子でほんとに……」

 スマホを持つ手が、知らず知らずのうちに力んでいた。
 期待を裏切らないように生きてきた。母の前でも虚像を作り、完璧な息子でいなくてはならないと常に己を叱責してきた。だって母の誇りであり希望であることが、俺の自尊心そのものだったから。
 だからこそ怖かった、どんな反応が返ってくるのか。失望だろうか、怒りだろうか、悲しみだろうか――。けれど答えはそのどれでもなかった。

『宇恭、ごめんね』
「え?」
『母さん、小さい頃から宇恭にプレッシャーをかけてたんじゃないかってずっと心配してたの。やっぱりそうよね』

 それは思いもよらない言葉だった。ぱちんと音もなくなにかが弾けて、つい目を見張る。

『期待を裏切らないようにって頑張りすぎちゃったでしょう。宇恭は昔から人一倍頑張り屋さんだから』
「……っ」
『怪我はない? 大丈夫?』

 優しい温度の問いかけに目の奥が熱を持ち、慌てて何度も瞬きを繰り返す。

「うん……、俺は大丈夫だよ」
『それならよかった……。それだけでいい。宇恭は母さんの宝物なんだから、いてくれるだけで』

 下唇を噛みしめ、母の言葉を手放さないようにと抱きしめて反芻する。

 もしかしたら、母のことを心のどこかでかわいそうな人だと思っていたのかもしれない。この人には俺しかいなくて、俺だけが頼りなのだから、俺が幸せにしてあげないといけないのだと。
 でもそれはとんだ思い上がりの勘違いだった。
 母は思っていたよりもはるかに強い人で、反対に自分はだれかを守り切る力なんてまだない、脆くて愚かで未完成な子どもだった。

 俺はまだまだ母には敵わない。だから今はまだもう少しだけ甘えたり頼ったりしてもいいだろうか。

「……俺さ、母さんが退院したら母さんの肉じゃが食べたい」

 母に料理のリクエストをするなんていつ以来のことだろう。躊躇いがちにそうねだると、スマホ越しに母さんが微笑んだ気配がした。

『わかった。とびきりおいしい肉じゃが作ってあげるからね』

 ああ、なんてことはなかった。負担になってはいけないと肩肘張って生きてきたけど、こうして寄りかかることも間違いではなかった。

「うん、楽しみに待ってる」

 母がくれるこの世で唯一無二の安心感に、俺は心を委ねてはにかんだ。