【完】君の涙は透明であるべきだったか





 あの日を境に、有森は学校に姿を現さないようになった。
 そしてクラスの中での俺の立ち位置もすっかり激変した。女子たちの中心人物である委員長が俺を見限り女の子たちが離れていったことで、元より男友達もいなかった俺は、クラスで孤立することになった。
 王子様という幻影が消えて丸裸になった俺は、まるで危険人物のような目で見られて浮いた存在になった。
 人望のなさをこんなふうに思い知らされることになるとは思いもしなかった。
 これまでずっと俺の目には、女の子が一種類にしか見えていなかった。ひとりひとりが違う人間で心も体もひとつとして同じものはないのに、ちやほやされたいがためにどの子にもいい顔をして、相手を一個人として尊重することができていなかった気がする。
 結局自分のことだけが大切だったのだ。自分が満たされていれば、それだけでいいと思っていたのかもしれない。
 上辺だけの付き合いばかりを繰り返してきた俺に、反旗を翻してまで味方してくれる人はいなかった。
 俺を視界に入れないように振る舞う女子たちと、それをざまあみろと言わんばかりに影で嘲る男子。そこに俺の居場所はない。
 けれど体育館で本音をぶつけたあのときのことを後悔はしなかった。

 水曜日の昼休み。図書室を訪れると、カウンターには見知らぬ男子がスマホをいじりながら座っていた。学年ごとに異なるスリッパの色から察するに1年生だ。
 彼がそこに配置されたのは臨時の対応だという可能性だって大いにありえるのに、図書委員の補充によって、それは暗に有森がもう帰ってこないことを示しているように思えた。
 有森がいない図書室はなぜかまったく別の顔をしていて、居心地の悪さを覚えながらもひとけのない本棚の間を巡り、有森が読んでいた本を探す。子どもの頃から好きだったという愛読書を読めば、なんとなく有森の心の中を覗くことができる気がしたからだ。10分ほどかかってようやく背表紙に”勇者と羅針盤と囚われの姫”と書かれたそれを見つけ、ぱらぱらとページを捲る。
 発行されてずいぶん経っているからか、紙の縁はすっかり黄ばんで年季を感じさせた。またそこに並んでいる文字はずいぶんと小さく、子どもの頃からこの本を読んでいたと思うと素直に感心せずにはいられなかった。
 と、あることに気づいてページを捲っていた手が止まる。主人公である勇者の名が”ツバサ”だったのだ。
 透明人間になりたいと言った君は、もしかして本当は勇者になりたかったのかな。そう思うと胸がきりりと疼いた。

*

 それから迎えた週の終わりの金曜日。学校祭を翌日に控え、今日は全校集会が体育館で行われることになっていた。
 5時間目の授業を終えてグラウンドに向かう。全校集会には通常体育館が使用されるけれど、学校祭で使われるパイプ椅子が並べられているため、特例ながらグラウンドに変更されたのだ。
 ひとりでとぼとぼと廊下を歩いていると、不意に背後から名前を呼ばれた。

「宇恭!」

 振り返ればやはりそこには想像したとおりの姿があった。

「晴翔」
「おつかれ~」

 そう言いながら自然と肩を並べてくる。
 どこにいても目を引く存在である晴翔は、まわりの視線を集めながらも1ミリも気にしていない様子だ。

「なあ宇恭、知ってる? 小学校近くにあった洋食店が店を閉めるらしいって。だから閉店しちゃう前に一緒に行かない?」

 何事もなかったかのようにわざとらしく振る舞うわけではない。多分それは、晴翔にとって他者に寄り添う優しさが偽善ではなく当たり前のものだからだ。
 けれど有森の噂は同学年を中心はどんどん広がっている。晴翔も知らないはずがない。

「晴翔、俺避けられてるんだ。だから晴翔も俺と一緒にいない方が……」

 そう言いかけた俺を、晴翔が遮った。

「話を聞いて誇らしくなったよ、俺は」
「え?」
「ああ、宇恭はやっぱり憧れてたヒーローそのままだなあって」
「晴翔……」
「俺の自慢の幼なじみだよ」

 左右均等な唇をにっこりと持ち上げ、無邪気に笑う晴翔。

「馬鹿だな」

 思わず破顔してしまう。そんな俺を見て、晴翔はいっそう嬉しそうに笑う。
 それなら俺にとって晴翔は太陽だ。なんて、恥ずかしいから口にはしないけど。

 下駄箱でスリッパからローファーに履き替え、グラウンドへ出る。
 グラウンドにはちらほらと生徒が集まり始めていた。5時間の授業を終えたあとでグラウンドに移動させられ、疲労が顔に出ている生徒が多い。

「じゃ、またな」
「うん。宇恭、立ったまま寝ちゃダメだぞ」
「はは、寝ねえよ」

 軽口を叩きながらクラスが違う晴翔と別れたとき。
 ふと、左斜め前方の方から男子ふたりの会話が耳に流れ込んできた。

「なあ、うちの高校に女のフリしてた男がいたって知ってる?」
「あ、一個下の美人だろ?」

 それが有森のことを指しているというのはそれ以上聞かずともわかった。
 ぴくりと心が反応したのは、なんとなく嫌な予感が掠めたからだ。そしてその予感は惨くも的中する。

「オレさ、去年そいつに告っちゃったんだよ……。まじで最悪」
「ガチ!?」
「男に告ってたとか吐きそうだわ……。しかもあいつ、オレを騙しておきながらフッてきたんだぜ? おかまのくせにマジ何様?」

 不意打ちで頭を殴られたような痺れを覚えながらそちらを見る。背丈のあるふたりの後ろ姿が嘲りで揺れていた。

「ヤバ! おかまにフラれてるとかウケんだけど」

 耳障りなぎゃはぎゃはという笑い声が鼓膜に響く中、ローファーの靴底はほぼ無意識のうちにグラウンドを蹴っていた。
 そして背後から片方の男の肩を掴むと、こちらを振り返った瞬間にその顔面を力のままに殴りつけた。
 異変に気づいた女子のきゃーっと響く甲高い声。

「な、なんだよ、お前っ」

 不意をつかれて尻もちをついた男が叫びに似た声を上げる。
 けれど一度真っ黒になってしまった思考は、そう簡単に白には戻らない。男の声など気にも留めず馬乗りになって胸ぐらを掴み、続けて殴りかかろうとする。

「おい、やめろ!」

 拳が男の頬に命中する寸前で、止めに入った片割れの男が俺の右腕を掴んでくる。けれどそれを力任せに振り切り、もう一度握った拳を振りかぶった。

「宇恭!」

 その瞬間、遠くで俺の名を呼ぶ晴翔の声が聞こえたのは気のせいだっただろうか。

 拳が頬に当たる鈍い音。

「うぐ……っ」

 殴られた男の短い呻き声。
 異変に気づいた女子たちの甲高い悲鳴。
 耳が察知するすべての音が、まるで自分だけが水の中にいるかのようにくぐもって聞こえた。

 男の口の端が切れて付いた血か、あるいは自分の手の甲からの出血か。赤く染まった拳を振るう俺の頬を、気がつけば熱い涙が伝っていた。
 悔しいよ、有森。俺のこんなちっぽけな拳じゃなにも変えられない。君の目に映る世界はこんなに醜かったんだな。今までずっとフィルターがかかっていたみたいにぼんやりとしか見えていなかったことに今更気づいたよ。
 でもさ、君がいるっていうだけで、ろくでもないこの世界がどうしても嫌いになれないんだ。

「やめろって!」

 片割れの男に羽交い締めにされながらも、やぶれかぶれに両腕でもがく。

「あああっ!」

 やりきれなさ、悔しさ、怒り。鮮血を流したいくつもの感情が絶叫となってグラウンドに響き渡った。