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それから程なくして有森は帰っていった。長い髪もセーラー服もまだ乾ききらないままで。
母さんと一緒になって、夕食くらい食べていけばいいのにと言ったけれど、申し訳ないからと有森は拒んだ。
まだ自分の中で整理もついていないことだらけだろうし、ひとりになりたいかもしれない。そう思うと無理強いできるはずもなく、その姿を見送ることしかできなかった。
去り際、「またね」と声をかけた俺に、有森は小さく微笑むだけで同じそれを返してはくれなかった。
有森が行ってしまうと、俺は一度高校に戻ることにした。
クラスもまだ混乱しているだろう。抜け出したまま、スマホを高校に忘れてきたせいでだれにも連絡を入れていない。
疲労は蓄積されているが、そうも言っていられない。濡れたジャケットはそのままに、自転車に乗り込んで高校へと急ぐ。
まだ空はどんよりと厚い雲に覆われているもののいつしか雨は止んでいて、視界や路面を漕ぐ俺を遮る障害物はなかった。けれど自宅に向かったときよりも10分長くかかってしまった。
自転車置き場の端に戻し、泥でぐしゃぐしゃになったサンダルを脱ぎ捨てて体育館に駆け込めば、ステージではリハーサルで使われた装飾の撤去作業がおこなわれていた。
ステージの下で、絵の具で染められた大きな木のパネルを持っていたリイサちゃんがよろける。その姿を見るやいなや咄嗟に駆け寄り、その体を抱き留めた。
「大丈夫?」
「あっ、宇恭くん……!」
肩越しに振り返ったリイサちゃんが驚きに声を上げる。その声で、その場にいたクラスメイトみんながこちらに気づく。
俺はクラスメイト全体に向かって頭を下げた。
「ごめん、さっきは急に抜けちゃって」
「宇恭くん……」
どこかから聞こえてくる、震えるような女の子の声。
「リハーサルは?」
だれに対してというわけでもなくそう問いかけると、静寂を破るのに躊躇いながらというような押し込めた声が返ってくる。
「終わった、けど……」
「さっきの有森さんの話、どういうこと?」
「それは……」
必ず有森のことを訊かれるとは思っていた。けれど自分の中でもまだ整理がついていない部分もある中で、なんと説明すべきなのだろう。そもそも有森が不在なのに自分が説明してもいいべきなのか。
口ごもっていると、いつもハキハキと喋る丸眼鏡をかけたリサちゃんが、小柄な体で大きな声を張り上げた。
「私、知ってるよ! 有森さんみたいな人をFTMって言うの! みんなも聞いたことあるでしょ、トランスジェンダーってやつ!」
「ああ……」
「それなら聞いたことあるかも」
男子と女子の呟き声がさざめく。
「だからいつも着替えは体育館倉庫だったんだ」
「多目的トイレ使ってたよね、そういえば」
すると野球部の主将を務めている男が、頭の後ろで手を組み口を尖らせた。
「もったいねえよな、せっかく可愛いのに」
「でも有森さんが男なら、私はちょっとアリかも。美形だし、ミステリアスなクール男子みたいな感じで」
「わかる! 女子だとあれだけど、男となると話変わってくるよね」
「おいおい、顔が良ければなんでもいいって、さすがに女子たち節操なさすぎだろ」
漫才みたいな掛け合いに笑い声が生まれ、それは辺りへ波及していく。すると、聞きかねるというように一部の女子たちが声をあげた。
「やめなよ、みんな! 有森さんかわいそうなんだよ!?」
「有森さんは同じ人間なんだよ。みんなで有森さんのこと受け入れてあげようよ」
声高らかにそう主張する彼女たちに追随したのは委員長だ。両手を広げて、演説でもするかのように熱を込めてクラスメイトに訴えかける。
「そうだよ、宇恭っち見習って! 宇恭っちは有森さんがそうだってわかってたから気にかけてあげてたんだよ? やっぱり優しいよ、宇恭っちは」
委員長がそう言って、「ね?」とこちらを振り返る。クラスメイトの視線がつられるように俺に向かった。
俺はといえば、自分でも気づかぬうちに体中から力が抜けて脱力していた。ひくっと頬が引き攣り笑みがこぼれる。
「かわいそうって決めつけるのは傲慢じゃない……?」
「え? どうしたの宇恭っち……」
絶望と諦念と呆れと。ふつふつとこみ上げる感情は自分のキャパを超えて行き先を失い、もう笑うしかなかった。
だれとも目を合わせることなく斜め下へと視線を落とし、半笑いのまま掠れた声を床にぶつける。
「他人事みたいに好き勝手言って、そうかと思えば理解してあげられる自分に酔って……。有森は意思のない人形じゃねえんだよ、気休めの同情で哀れむなよ……。かわいそうって言葉で片づけて有森の17年間を否定するんじゃねえよ……」
クラスメイトたちが唖然として引いている空気感。
常にまわりの目や意見ばかりを気にして嫌われないように振る舞ってきた俺が、こうして大勢に向かって声を荒らげるのは初めてだった。
有森のためにも冷静になるべきだと頭のどこかではわかっていても、見過ごせないほどの悔しさに黙っていることなどできなかった。
自分の器が違うと知ったとき、有森はどんな気持ちになったのだろう。それでも有森は踏ん張ってきた。産まれてきた意味を見つけるために有森が積み上げてきたこれまでを、なかったことにされるのは嫌だ。
有森の気持ちを勝手にわかった気になりたくはない。だから俺は知りたいと思う。
「ごめん、帰るね、俺」
力なく笑って踵を返す。
渡り廊下に出て空を見上げると、頭上に広がる灰色のそれは今にも泣き出しそうに見えた。

