強度を増して顔面にぶつかってくる水滴、すぐそばを走り去る車が浴びせてくる水飛沫。すでに全身びしょ濡れで、どれだけ水を浴びようともはやなにも感じないほどに肌は麻痺していた。
有森を後ろに乗せ、無我夢中で自転車を漕ぎ続ける。有森の重みがむしろ俺の足を走らせる原動力ですらあった。
普段なら40分ほどかかる距離を、かっ飛ばして20分ほどで目的地に着く。
「ここ、俺ん家」
自転車から降りた有森に自宅を紹介する。
今有森の目に映るのは、雨の圧で潰れてしまうのではないかというくらいおんぼろで小さな木の塊だ。近所の小学生からはお化け屋敷だと呼ばれているらしい。
以前の自分だったら自宅にだれかを連れてくるなんてあり得なかった。だけど君のためならだれにも見せたくなかったキズを晒すのも怖くない。
「とりあえず中で体を温めよう」
有森が俯きがちに小さく頷く。雨粒がふたつ、揺れた前髪からこぼれ落ちた。
「ただいま」
声をあげながら家に入ると、居間の布団に横になっていた母さんが身を起こしながら目を丸くする。
「宇恭? まだ学校の時間じゃ……」
「濡れちゃったからここに避難してきた」
と、そのとき、母さんが俺の背後にいた有森の存在に気づく。
「あら、お客さん?」
「うん、有森。クラスメイトなんだ」
「おじゃまします」
小さく会釈する有森。
なぜふたりして濡れているのか、母さんは探りを入れてこようとはしなかった。「初めまして、有森さん」そう言ってこけた頬を緩ませて笑いかけると、いつもより幾分しゃきっとした声で俺に指示を出す。
「とりあえずストーブつけて体を拭きなさい。その間に温かいスープを作っておくから」
「え? 母さん体は……」
「大丈夫。今日は調子がいいの」
なんだか母さんが頼もしく見える。心配しすぎるのも違う気がした。そちらは母さんに任せ、自分は一刻も早く部屋を温めることにした。水分を含んですっかり重くなった学ランを脱ぎ捨てると、居間の隅に置いてあったストーブを持ち出し、火がつくまでの間に箪笥からタオルを二枚出す。
「有森、おいで」
ストーブの前にしゃがみこんで着火したのを確認し、居間の入り口にびしょ濡れのまま佇んでいた有森を呼び寄せる。そしてストーブの前に座らせると、頭からタオルを被せた。
「ごめん、今シャワーが壊れてて冷水しかないんだ。だからこれで許して」
あぐらをかき、自分もわしゃわしゃとタオルで髪を乾かしていると。
「……ごめん、隠してて」
有森がぽつりと声を落とした。
声を拾って手を止める。言葉にされずとも、それが体育館での告白だということはわかった。
「矢野にはずっと打ち明けるべきか悩んでて、でもできなかった」
俺は首を横に振った。
もちろん有森のことを知りたい。けれどあんな形でカミングアウトするのは本意ではなかったはずだ。だから今もまだ混乱しているだろう有森を急かすようなことはしたくなかった。
「いいよ、あとは有森の心の準備ができたときに話してくれれば」
すると有森はしゅるりとタオルを頭から外した。そして潤みを帯びた目で、逃げまいと自分自身を奮い立たせるようにしながらまっすぐに見つめてくる。
「矢野には知ってほしい……。さっき言ったことは本当だよ。体は女だけど、中にいるのは男で……」
「……うん」
「自分は生まれてくる器を間違えてしまったんだ……」
そういう人がいることをうっすら知っている。でもこんなに近くにいるとは考えたことも想像したこともなかった。
でもこれまでの有森の言動を思い返すと、少しだけずれてはみ出していたパズルのピースがしっくりはまる気がした。
「黙っていたこともそうだし、騙してたことも謝りたい……」
「え?」
「ツバサはこの世に存在しないんだ」
「もしかしてツバサは、有森?」
「……うん、嘘ついててごめん……」
そうだったのか。だからふたりの隣はあんなにも居心地がよかったのか。
有森がきっと想像しているような落胆などはなく、むしろ有森とツバサに向けていた別々だったはずの感情が自分の中で溶け合って馴染んでいくようだ。
そっくりだけど似ていなかったふたり。どこか躊躇いがちに笑う有森と、白い歯を見せて大きく笑うツバサ。ツバサは有森にとってなりたい自分でもあり、本来の自分でもあったのかもしれない。
「中学生の頃からかな、夜になると男の格好をしてたまに出歩いてたんだ。夜なら人の目を気にせずにいられるせいか、現実から解放されてやっと息ができるみたいだった」
そこで区切り、再び口を開きかけて、その動きが止まる。躊躇うように俯き、膝の上でぎゅっとタオルを握りしめる。
ストーブの火で体は温まってきたけれど、有森の髪はまだ水分を多く含んでいる。時折床板に水滴が落ち、いくつもの小さな水たまりを作っていた。
知ってほしい――その言葉のとおり有森は勇気を振り絞って俺と、そして自分自身と向き合おうとしている。
自己開示をするというのは時として恐怖を伴う。その部分を後ろめたいと思えば思うほど。その気持ちはだれより理解できる。
けれど屋上で有森に本心を曝け出したあの日の俺と同じだとしたら、怖いけど知ってほしいというのは信頼の証だった。少なくとも俺という存在が有森の内側にいるということで。
「大丈夫、有森のペースで。俺はここにいるから」
台所の方から食材を切る音がする。それは鼓動の音にも似ていて妙な安心感があった。
有森は下唇を噛み、それから静かに口を開いた。
「……昔から女の子って呼ばれたくなくて、そう括られたり女の子の輪に入れられたりすると息苦しかった。だけど七五三のとき母がピンク色のドレスを着せようとしたんだ。でもそれを着たら自分が自分じゃなくなりそうで、無性に嫌でドレスを拒んだら母にビンタされたんだ。そのときの母の顔は見たことないくらい怖くて、幼かった自分はすごくショックだった。母も多分薄々気づいてたんだと思う。男子とばかり遊んで、戦隊ものに夢中になって、可愛い格好を極端に避けてたから」
「うん……」
「今日も、矢野だってドレスを着るんだから、黙って着ればよかったってわかってる。でもあのドレスを着たら、子どもの頃の自分を裏切るみたいでどうしてもできなかった」
知られざる告白を、ひとつも取りこぼさないように必死に腕を広げる。有森が闘わなくてはならなかったものの大きさに胸が締めつけられて苦しい。
自分のためにと用意されたピンク色のドレスを目にした有森の血の気が引いていくような表情がまぶたの裏に蘇る。
だれも悪くなかった。だからこそ苦しい。
有森が膝の上で握りしめられた両の拳を、なにかから耐えるようにいっそう強く締めつけた。
「母は、いつも自分が寝たあとで手を握って祈るんだ。この子が女の子に戻れますように、産まなければよかったって思わないようになれますようにって。今だって女子用の服を買ってくるし、髪を切ることを許さない。必死に抗わなきゃいけない母が不憫だった。だから女の子として振る舞うことが自分の贖罪だと思ったんだ。意思を持たない人形になれば全部が丸く収まるかもしれないって」
『どんな可愛い女の子が産まれることを願ってこの名前をつけたんだろうね』
図書室でそう言い捨てた有森は、どこか自虐的に見えた。
今どんな言葉を有森にかけるべきなのだろう。励ましも同情も違う。
言葉を探していると不意に有森が顔を上げた。その顔は苦しさに歪んでいて、それを目の当たりにした瞬間これまでどんな怪我を負ったときよりも激しい痛みに襲われる。
「でも、やっぱりこんなのは自分じゃないんだ。本当の自分はだれにも望まれないってわかってても、学ランが着たかったし、他の男子みたいにごくありふれた青春を過ごしてみたかった……。ねえ矢野、自分はどうして産まれてきたんだろう……っ」
涙を瞳の縁いっぱいに溜めて俺に訴えかけてくる有森。
そして気づいてしまった。屋上で慰めてくれたときに俺にくれた言葉は、もしかしたらだれより有森自身がほしかった言葉だったのではないだろうかと。
『望んで産まれてきた人はいない。だから失敗と遠回りを繰り返しながら自分の人生に価値と意味を作っていくんじゃないかな』
『だれかと比べて自分の価値を測ろうとしないで、自分を認めてあげて。矢野は唯一無二で、代わりに成り得る人なんてどこにもいないんだから』
ほんとだな、有森。今ようやくわかったよ、俺たちは似た者同士だったんだな。
「ごめん、こんなこと言っても困らせるだけだ……」
ふっと糸が切れたように項垂れてよれよれの声をこぼす有森に、そっと微笑みかける。
「顔を上げてよ、有森」
俺の呼びかけにこわごわと顔を上げる有森。再び俺に見せてくれたその顔は、なにかを失うのではないかと怯えているようにも見えた。
慎重に言葉を選ばなくてはという緊張や切迫感のようなものは不思議となかった。ただ心に湧いてくる思いをそのまま声にして伝えれば、有森に届く気がした。
「たしかに驚いたよ。多分今も理解しきれてない部分がたくさんあると思う。でも自分の中でなにかが変わったような感覚はないんだ」
告白によってこれまでふたりで過ごした時間が揺らぐわけでも、有森を大切に思う気持ちも変わらない。なにも壊れたり崩れたりしない。それだけはたしかな実感があった。
だから今はもっと有森を知りたいと思う。
有森がわずかに目を見開く。その動作によって、ぎりぎりのところで留まっていた涙が一粒左目からこぼれてつーっと頬を伝う。
「有森はたまに悲しそうな目で世界を見てて、だれの心にも残らないようにわざと敬遠されようとしててさ。だからやっと有森の心を見つけられた気がして、ちょっとほっとしてたりもするんだ。なんていうか、魂の輪郭が見えるようになった?みたいな」
そう言ってから慌てて「あっ、でも有森には不本意だったよな。無神経なこと言ってたらごめん」と謝ると、有森は俯いてゆるゆると首を横に振る。
そんな姿に無意識にふわっと笑みが溢れてこぼれ、俺は自分の声に芯を宿らせて真っ直ぐに思いを伝えた。
「有森は透明人間になりたいって言ってたけど、やっぱり俺がそんなことさせない。有森の涙を見逃さないよ」
上体を少しだけ倒して、有森の拳の上に手を置く。雨に打たれてすっかり冷え切っていた体に熱が戻っていた。
「なあ、有森? 生まれてくる環境も体も選べないけど頑張ってるよな、俺たち」
濡れた瞳が再び俺を捕らえる。揺らめくそれの真ん中に俺が映っている。
「矢野……」
「生まれてきた意味は正直まだ見つけられてないけど、生まれてきたからには幸せにならなきゃな。俺たちはもう17歳だけどまだ17歳。幸せになるのを諦めるのはきっとまだ早い。そうだろ?」
あの日くれた言葉を、今度は俺がそこに思いを乗せて有森に贈る。
不意をつかれたように見開かれた大きな瞳からぽろぽろっと涙が落ちた。それから有森は眉尻を下げてふっと小さく柔らかい泣き笑いを浮かべる。
「どうかした?」
「いや……実は、具体的にどうするかまでシミュレーションしてたわけじゃないけど、すべてを手放したくなって屋上に行くと、きまって先に矢野がいたんだ」
「え?」
「じゃあ次にしよう、また次、また次って繰り返して。そのうちになんとなく、この世界のどこかに矢野がいる限りこのフェンスは越えられない運命なんだなって思った。煙草をぷかぷか吸ってる後ろ姿を見ると不謹慎だけど孤独が和らいだ。この人も独りでなにかと闘ってるんだなって感じたから」
慈しむような響き。温もりに満ちた声。
まさかそんなことがあったとは思わず、虚をつかれて胸がいっぱいになる。そして同時にある答えが見つかった。
「そっか、そうだったんだな」
見つけた答えに、つい砕けた笑みがこぼれてしまう。
「俺が産まれてきた意味。有森にあのフェンスを越えさせないためだったんだな」
「うん」
ほんのり赤くなった鼻を啜って有森が微笑む。
その笑顔を――俺が守れた笑顔を目にした瞬間、肩の力がすとんと落ちて、ふへ、と眉尻が下がった。
「産まれてきてよかった……」
思わず口をついてこぼれたのは、自分でも聞いたことのないほど喜びと安堵とで満ち満ちたありのままの声音だった。かっこつけることも忘れて、ガキみたいに破顔する。
俺に意味をくれてありがとう。
俺が強くなれる理由は君だよ、有森。

