生憎の雨天が続いているというのに、ここ数日校舎を包む空気全体が浮き足立っていた。
文化祭当日までいよいよ一週間を切った。今週は授業の時間割も変則的になり、どのクラスもHRの時間が増え、準備もラストスパートを迎えていた。
そして今日、我がクラスは5時間目と6時間目がHRに変更になり、体育館で実際にリハーサルをすることになっていた。
台本と動きは完璧に頭に入り備えは万端だ。演技も褒められるほどには上達し、腹筋も毎日鍛えた成果が出て自力で起き上がれるようになった。できるようになったら褒めて、と彼女に告げていたけれどその報告もできず約束は果たされないままだった。
大道具小道具、衣装などを2階の教室から体育館に運び込む。
ぞろぞろと移動する中、まわりに気づかれないように視線の端で有森の姿を探す。集団にひっそり紛れるみたいに7人の小人の家で使われる家具を手に歩く有森は、やはり温度のない瞳ですべてをシャットアウトするような風合いを纏っていた。
近くにいるのに遠い。もどかしい距離を縮めることができない。
やがて移動が終わると、体育館のステージ上で各々の準備に取りかかる。
放任主義の担任は行事ごとはすべて生徒任せで、今回も例に漏れず体育館に顔を出し「勝手にやっとけ~」とだけ言って職員室に引き返していった。
それでもクラスの士気に影響はない。各チームリーダーの指示のもと、手分けして準備を進めていく。
舞台袖でドレスがシワにならないよう腕に掛けたまま、スタンドに乗せたウィッグを梳いていると、背後から女の子たちが声をかけてきた。
「宇恭くん、緊張してる?」
「大丈夫だよ宇恭くんなら! 自信もって!」
「ありがと。たくさん助けてもらった恩返しができるように頑張るよ」
そう言ってにっこり笑えば、きゃああっとピンク色の悲鳴が上がる。
「フィッティングのとき超可愛かったもんね!」
「いつもは王子な宇恭くんのドレス姿を拝めるなんて幸せすぎた~」
青と黄色を基調としたドレスに、金髪のロングヘアのウィッグ。女の子たちは褒めてくれるけど、さすがの俺でもじゃっかんの似合わなさは拭い切れなかった。でも今更恥じらっている場合ではない。本番にはこの身に白雪姫を降臨させるのだ。当日はメイクもしてもらうことになっているので、そうしたらもう少しマシになるかもしれない。
晴翔も絶対見に行くと意気込んでいて、断ったけれど奴のことだから確実に来るだろう。なんならカメラで俺を連写している姿まで容易に想像できる。
薄暗い舞台袖でやいのやいのと話していると、突然「有森さん」――普段呼ばれることのない名前がステージに響いた。
反射的にステージの方に目をやれば、委員長が数人のクラスメイトを従えて有森に声をかけたことを視認する。運ぶために分解されていた背景パネルを組み立てていた有森が振り返った。
「実は有森さんにサプライズがあるんだよね」
そう言って委員長が後ろにいる女子に肩越しに目配せする。するとそれを合図にその子が物陰からピンク色の大きななにかを有森の前に掲げる。ピンク色のなにか――それはドレスだった。
「有森さん用のドレスです」
裁縫部に所属する彼女がドレスを手にはにかむ。
「え……?」
瞬間、有森の表情が硬直する。
「実は衣装チームと有森さん以外の脚本チームと話し合って有森さんにも劇に出演してもらうことにしたの。やっぱり有森さんを使わないのもったいないから。役どころは白雪姫が産まれる前に隣国にいた絶世の美貌のお姫様。だけど継母の毒林檎のせいで死んでしまったの。つまり白雪姫の前にも継母の標的になった存在がいたってこと。ほら、そうすれば継母の憎しみがより強く伝わるし」
委員長がぺらぺらと説明文句を並べ立てる。
「心配しないで。出番は一瞬、台詞もなし。冒頭で鏡の前に立つだけでいいの。脚本チームだからなんとなく流れはわかるでしょ? それにナレーション役が誘導するから」
委員長の背後でスタンバイをしていた放送部の男子が親指をたててグーサインを出す。
「そういうわけだから。よろしくね、有森さん」
有森がふっと俯く。静寂が訪れ、体育館の窓に当たる雨音がさっきまでより大きく、忙しなくなっていることに気づく。
やがて腰の横で握りこぶしに力を込め、雨音の上に絞り出すように声を落とした。
「……着たくない」
有森が発したのは拒否だった。
目鼻立ちがはっきりしていることで、委員長の顔に走った動揺がはっきりと目に映る。
これはまずいんじゃないか……? 穏やかではない空気に、舞台袖で見ていた俺も思わず足をじりっと踏み出す。
「衣装チームがわざわざ有森さんのために作ったんだよ? あれもやだ、これもやだって、そんなお姫様扱いしてられないんだけど」
委員長は衣装チームの女の子からピンク色のドレスを取り上げ、呆れと苛立ちとがこもった声と共にドレスを有森に押しつけようとする。
「着て立ってるだけでいいって言ってるでしょ」
「嫌だ……!」
突然張り上げられた声に、異変を察知したクラスメイトが何事かと一斉にステージ上の有森の方に視線を向ける。
感情を爆発させる有森を目にしたのは初めてで、俺は瞬きも忘れて目を見張る。
「有森……?」
クラスメイトの視線を一身に浴びながら、体中に力を込めてそこに立つ有森が震える声を絞り出した。
「だって、自分は女の子じゃない……」
まるで一瞬時間が止まった気がした。静まりかえる空気。頭よりも先に心がなにかを察してざわつく。
動けないままでいる俺の視線の先で、有森はひとつ息を吸い。
「産まれたときからずっと心は男だから」
告白した。
声が震えていた。けれどその言葉の中に揺らぎはなく、それが疑いようのない事実であることを突きつけてくる。
「どういうことだよ……」
だれもが言葉を失う中、そう発したのはだれだったのだろう。混乱に染まった声が、やけに虚しく響く。
視線の中心にいた有森が、呆然と立ち尽くすクラスメイトたちから逃げるようにステージ横の階段を駆け下り、シャトルドアから体育館の外に飛び出す。
俺は咄嗟にドレスをすぐそばにいた女子に押しつけ、有森を追ってステージから飛び降りた。
いつの間にか雨足が強まっていた。一歩体育館を出れば、たちまち全身がびしょ濡れになる。
視界を遮られながらも、スリッパのまま駆ける有森の背中を認め、追いかける。
「有森……!」
張り上げた声に有森が足を止めた。そして少しの間ののちにゆっくり振り返る。
降りしきる雨の中、視線がかち合う。
有森は全身に滴を纏い、いつも柔らかく揺れていた長い髪はすっかり濡れそぼり頬や首筋に張りついていた。
その姿を前に、咄嗟に言葉が出てくるわけでもなかった。ただ、肩で息を切らしながら目を離せずにいると、有森が小さく口を開いた。
「……ごめん」
「え?」
「矢野の理想の女の子じゃなくてごめん」
突き刺さってくる雨粒から無防備に佇む有森は、今にも張り裂けてしまいそうな顔をしていた。声は濡れて掠れ、瞳はじんわり赤く潤んでいる。それなのにその頬に伝っている涙は雨に隠れて見えない。
俺はひとつ肩で息を吐くと、歩み出て有森の腕を掴む。
「行こう、有森。こんなところにいたら風邪引く」
「え……?」
「とりあえず体をあっためないと」
返事も待たずに有森の手を引いて駐輪場に向かう。そこには置きっぱなしのままにしていた母のおさがりの自転車があった。入学してしばらくは通学に自転車を使っていたものの、走るたびにキィキィとうるさいママチャリが恥ずかしくて、駐輪場の端に放置していたのだ。
「乗って」
サドルに跨がり、荷台を顎で指す。
「とりあえず俺ん家行こう。話はそのあとだ」
校舎に戻ることは躊躇われた。それならば少し距離はあるものの自宅に向かうほうが良策のように思えたのだ。冷静に考えればもっといい案はいくらでもあったかもしれない。けれど今の俺にはこの選択肢しか思い浮かばなかった。
有森は拒まなかった。荷台に腰を下ろした重みでわずかに自転車が沈んだのを確認すると、俺はペダルを踏み出した。

