【完】君の涙は透明であるべきだったか




 本格的に文化祭の準備が始まった。それからの日々はめまぐるしく、放課後はほぼ毎日演劇部の指導を受けた。そもそも演技経験などないうえに台詞と動きを合わせて覚えるのは想像以上に難易度が高く、主役でほぼ出ずっぱりの俺は苦戦していた。
 練習は脚本制作と同時進行でおこなわれ、脚本が仕上がった場面から演技指導が進められていく。
 文化祭までの準備期間は残すこと約2週間。どの係も急ピッチで準備に励んだ。

「とってもおいしそうな林檎。おばあさん、ありがとう」

 高い声でお礼を言い、両手で林檎を受け取る仕草を作る。そして透明の林檎を囓るフリをする、が。

「んー……」

 放課後、空っぽになった教室で頭をかく。これでいいのだろうか。いわゆるゲシュタルト崩壊ってやつを起こし、正解がわからなくなってきた。
 老婆に化けた継母から毒林檎をもらって食べるシーン。その場面を演じるだけで演劇部から5回もリテイクをくらった。なんでも、白雪姫らしい無邪気さが足りないとのこと。
 いつもはちやほやしてくれる女の子たちも演技のこととなると熱が入り、彼女たちがOKサインを出すまで稽古を繰り返す。音を上げたくもなるが、この役を引き受けたのは自分自身。やるからには完璧な劇を作り上げたい――有森に後ろめたさを感じさせないためにも。

 清掃のためにすべての机を教室後方に寄せたのをそのままにしてもらったため、教室には広い空間ができていた。
 床に広げた脚本を改めて確認しようとその場に腰を下ろしてあぐらをかき、腕の振りだけをつけて台詞を練習する。

「とってもおいしそうな林檎――」

 そのとき、教室前方のドアがスライドする音がした。
 振り返れば、驚いたように足を止めた有森がいた。

「有森?」
「びっくりした。まさかまだ残ってるなんて」
「うん、劇の個人練習をちょっとね。有森は?」
「図書委員で集まりがあったんだ」
「そっか。おつかれ」

 思いがけず有森とまた教室でふたりきりになれたことに心が浮つく。
 やはり有森の声は落ち着く。気取ることなく凪いだトーンで、抑揚は少ないのに温もりを感じる。

「脚本の方はどう? いい感じに進んでる?」
「ぼちぼちかな。矢野は?」

 まさか口が裂けてもスランプ真っ只中とは言えない。親指を立てて、景気よく白い歯を見せる。

「超いい感じだわ。あとは腹筋を鍛えなきゃなってくらい」
「腹筋?」
「ほら、王子のキスで目を覚ますところあるじゃん」

 まだ脚本はできていないものの、演劇部からはクライマックスのそのシーンが一番の見せ場だと熱弁されていた。

「そのシーンで使う棺があんまり頑丈じゃないらしくて。装飾係からあんまり負荷かけないように言われてるんだよね」

 王子のキスで目を覚ましたあと、体を起こして小人たちの祝福を受けるらしい。けれど余計な負荷をかけられないため、起き上がる際に棺に手をつかず腹筋の力に頼るしかないのだ。運動神経には自信があるものの筋力となると話は別で、なかなかうまくいかない。
 それに王子の手を借りるのも癪だ。俺の代わりに王子役に抜擢されたのは小山内という男。そしてこの男がどうにも気に食わない。出番が少ないからと言って練習にはほとんど顔を出さないし、たまに練習に現れたかと思えば俺の演技にいちいちくどくどと難癖をつけてくる。
 小山内に手を借りるくらいなら腹筋を鍛える方がましだ。

「結構難しいんだよ」

 さっそく床に寝転がって実演。なんとか体を起こしたものの膝が持ち上がってしまい、強張りが顔に出てしまう。まさか白雪姫が筋力系お姫様だと気づかれるわけにはいかないので本番までに改善するしかない。

「は~」

 腹筋にかかった負荷を発散させるようにゆっくり床に倒れる。
 するとこちらに歩み寄ってきた有森が俺のすぐ近くにしゃがみこんだ。
 衣替えが終わり、有森も例に漏れず長袖のセーラー服を着ている。一部からは地味だと評判がよくないらしいグレーのセーラー服をだれよりも着こなしていると断言せずにはいられない。夏服のときは浮いて見えていた黒いストッキングも冬服には馴染んでいた。

「頑張ってるね、矢野」
「演技は完璧なのにこれだけができないんだよ」

 あくまでこれだけ、という部分を強調しておく。

 すると不意に有森が床に腰を下ろしたかと思うと、俺の隣に寝そべった。どうやら俺に倣って腹筋チャレンジに挑もうとしたらしい。半身を持ち上げ45度ほどの角度で踏ん張っていたものの起き上がるには至らず、やがて脱力するように仰向けに倒れた。

「うん、だめだ」

 ふへ、と苦笑する有森。

「だよなあ」

 床にだらんと寝転がったまま、つられて笑顔がこぼれる。
 同じ教室にいながら、有森が笑うときに眉をハの字にするくせがあることをずっと知らずにいたのが惜しくて仕方ない。きつく結ばれていたなにかがほどけるような笑顔はきっと俺しか知らない。

「できるようになったら褒めて」

 そう言って起き上がる。そして有森の前にしゃがみ込んで、起き上がるのを手伝う意で右手を伸ばす。有森もそれに気づいて俺の手を掴んだ。
 特段おかしなことはなかった。けれどどこかで気が抜けていたのだろうか。有森の手を引いた拍子に、しゃがみこんでいた足が不意によろけた。
 あっと思ったときには体が傾ぎ、有森を潰さんと条件反射で両手を床につく。持ち上がりかかっていた有森の体が床に倒れる。

「いたたた……」

 強く床に押しつけた両手のひらがじんじんと痛み顔をしかめ、けれどすぐに我に返る。意図せずとも有森に覆い被さる形になってしまった。

「悪い、有森、怪我は……っ」

 咄嗟に声を張り上げ、体の下で倒れている有森を見下ろす。――と、まっすぐこちらを見上げる双眸と俺のそれとがかち合った。
 瞬間リフレインしたのは、飛び降りるのかと勘違いして屋上で有森と共に倒れ込んだあの日の光景。俺たちの始まり。
 有森は瞬きもせず俺を見上げている。無表情のそこから感情を読み取ることができない。
 吸い込まれるように、俺はもう彼女から目が離せなくなっていた。心臓が大きく脈打ち、鏡を見ずとも自分の眼差しに熱がこもっていくのがわかる。

「……有森」

 一瞬にして口の中がからからになり、掠れた声が喉を揺らす。

「初めて出会ったんだ、有森みたいな女の子……」

 必死に感情を押し止めていたダムがひとたび決壊してしまえば、もう立ち止まることなどできなくなっていた。

「俺、有森のことが――」

 ……どんっ。
 あとに続くはずだった告白を遮ったのは、有森の右手だった。肩を押されて、不意をつかれた俺はしりもちをつく。決して強い力ではなかったはずなのに、その衝撃は脳の芯までをも揺らした気がした。

「その先は言わないほうがいい、後悔することになる」

 色のない声が鼓膜を射る。
 そのまま上体を起こした有森は、切なさとやりきれなさとで染まった表情で俺を見据えた。

「矢野のこと嫌いじゃないよ。だから矢野にとって消したくなるような過去になりたくないんだ」

 咄嗟に言葉が出ない。まるで有森の言葉が宙に浮いているように思えた。

「……ごめん」

 彼女はうつむきそう呟くと、立ち上がり教室を出て行った。
 引き留める余裕もなかった。あんなにも頑とした拒否をされるとは思わず、ひとり取り残された俺はしりもちをついた情けない姿のまま呆然とする。

 有森の顔に滲んでいたのは悲痛な罪悪感。
 もしかしたら不可侵領域に踏み込んでしまっていたかもしれなかった。