「あ、ノート忘れたかも」
午後始めの授業は化学だ。移動教室に向かいすがら、ふとノートを教室に置いたままだったことに気づいた。
廊下の真ん中で立ち止まった俺に、一緒に歩いていた女の子たちがくすくす笑う。
「珍しいね、宇恭くんがうっかりさんなんて」
「ほんとうっかりしてた。ごめん、先行っててくれないかな」
「おっけー!」
女の子たちに断りを入れ、足早に教室に戻る。
机の中に入っていた覚えはないから、スクールバッグから取り出しはぐっていたかもしれない。
生徒はみな化学室に移動したのか、教室にはすでに生徒の姿はなかった。自分の席に駆け寄り、机にかけているスクールバッグを探れば、やはりノートが一冊だけ置き去りになっていた。
まったく……。自分の注意不足に小さく溜め息をつき、ノートを手にしたとき。
「矢野」
突然名前を呼ばれて体を起こせば、そこには有森がいた。
「有森」
クラスメイトになって半年経つというのに教室で会話を交わすのは初めてのことだった。思いがけないことに驚いていると、有森が頭を下げた。
「さっきはありがとう」
「え?」
お礼の意味を一瞬理解できず、けれどすぐに悟る。文化祭の話し合いがおこなわれた先程のホームルームで白雪姫役を受けたことだと。結果、有森は残りものの脚本チームに割り振られることになった。
「いや、俺が勝手にやったことだから。むしろお節介だったら悪かったなって」
すると有森はふるふると首を横に振った。それから静かに問うてくる。
「なんで助けてくれたの」
「……考えすぎだったらごめん。でもなんかあのときの有森、消えたそうに見えて」
口にすることで有森を傷つけてしまったらと躊躇いながらも、けれど正直に白状すれば、有森は力なく微笑んだ。
「すごいね、矢野は。……うん、あのとき消えてしまいたいと思った」
「有森……」
そうではないかと思っていたのに、いざ本人から切ない告白を明かされると胸が締めつけられる。
「透明人間になれたらいいのにね。そうすれば人の目に映る自分の姿を気にしなくてよくなるのに」
ぽつりとこぼれた孤独な響き。白い頬に影を落とす長いまつげが震えているように見えた。
哀しいけれど、それは嘘偽りない願いなのだろう。でもそう願うたびに体の内側には傷ついている自分がいることに、有森はきっと気づいていない。
一歩踏みだし、有森との距離を詰める。そして有森の顔を覗き込んで笑いかけた。
「無駄だよ」
「え?」
「俺には有森を見つけるレーダーがついてるから。どこにいても見つけるよ」
見逃したくないよ、どんな有森も。有森の一瞬一瞬を一番近くで見ていたいよ。
すると有森がくしゃりと眉をハの字にして、「なにそれ」と苦笑する。
有森が笑ってくれる、それだけで心が温もりを帯び力がみなぎる気がするのは気のせいなんかじゃない。
「劇のほうは心配しないで俺に任せて。俺のポテンシャルなめるなよ?」
自信満々にいたずらっぽく笑ってみせると、有森が笑顔をいっそう柔らかくして小さく二度頷いた。
「うん」
力を込めれば壊れてしまいそうな潤んだ笑顔。君ほど泣きそうに笑う人を俺は他に知らない。

