【完】君の涙は透明であるべきだったか





「――有森」

 その名を呼びながら図書室に入るけれど、返事はなかった。
 代わりに、本とほこりの匂いとが混じったようなむわっとした図書室独特の空気が俺を迎える。1ヶ月ほどしか空いていないはずなのにひどく懐かしさを覚えるのはなぜだろう。

 もしかして有森はまだ来ていないのだろうか。
 いつもならその姿があるはずのカウンターも無人だ――と認識しかけたとき、そこに突っ伏す彼女の姿を見つけた。ブロンドの長い髪がカウンターの上に舞っている。

「有森……?」

 近づくと、有森が突っ伏したまま眠っているらしいことに気づく。
 起こさないようにカウンターの向こうに回り、隣の椅子に腰掛ける。顔は長い髪で隠れているけれど、どうやら寝入っているようで俺の気配にも起きる様子はない。

 俺は有森のすぐ隣で上体を倒し、同じようにカウンターに突っ伏した。そして起こさないよう、しだれ落ちる髪を指先でそっと耳にかけてやると、隠れていた寝顔が現れる。
 長いまつげを伏せ、すやすやと眠っている有森。ひんやりとした木の冷たさをダイレクトに右頬に感じながら、鼻先までの数センチという距離でその寝顔を見つめる。

「……ねえ、どんな夢見てんの」

 消え入りそうな声で呟くけれど、もちろん答えはない。

 窓から差し込む光に照らされ、有森のまわりを舞うホコリがきらきらして見える。
 昼練をしている吹奏楽部の演奏が風に乗ってわずかに聞こえてくる。その音の遠さが、世界の喧噪から隔絶されているような錯覚を覚えさせ、まるで世界にふたりきりみたいだと馬鹿げたことをぼんやり考える。

 彼女ができたと晴翔に打ち明けられたとき、おめでたいとか羨ましいとか真っ先に浮かぶはずの感情を差し置き、俺は有森のことを思っていた。
 有森に近づいたきっかけは、晴翔が有森のことを好きだったからだ。晴翔より先に自分のものにしてしまおうと目論んだ。なににおいても敵わない晴翔を出し抜いて優越感を得る、ただその欲を満たしたいがためだけに。
 けれどあいつに彼女ができ、あいつを打ちのめしたいという感情にも変化が起こった今、有森に近づく理由がなくなった。毎週水曜の昼休み、わざわざ図書室に足を運ぶ大義名分を失ったのだ。
 それでも、多分俺は毎週この場所に来るのだろう。有森に会う、ただそのために。
 同じ時間と同じ感情を、他のだれとでもなく有森と共有したい。まだ見たことのない表情ひとつひとつを取りこぼさないように一番近くで見ていたい。
 それはもう、ただ純粋に有森のことが好きだということなのだろう。
 ……好きになってしまったのだ。いつしか、ちゃんと。
 有森と過ごす時間が、心の拠り所になっていた。

 微かな寝息に合わせて小さくその肩が揺れる。有森が息をしている。それだけのことが愛おしい。
 こうして有森を見つめていると、時間が普通よりずっとゆっくり流れていく気がする。どうしてだか少しだけ泣きたくなるような穏やかで密やかな時間。

 そのときふと、ブロンドの髪の中に黒いゴムの線を見つけた。それはいつも教室で有森が使っている有線イヤホンだった。片方は右耳、もう片方は耳から外れたのか床に向かって垂れている。
 どうやらイヤホンで音楽を聴きながら寝落ちしてしまったらしい。どおりでこれだけ近づいても起きないわけだ。
 なにを聴いているんだろう……。
 有森の世界を少し覗いてみたくなった。そっと手を伸ばして外れている方のイヤホンを摘まみ耳に運んだ、そのとき。不意に有森の薄いまぶたが揺れ、その下から潤みを帯びた茶色の瞳が現れた。
 至近距離で有森の顔を見つめ、加えて片方のイヤホンまで拝借しようとしていた俺は、飛び上がるようにして慌てて上体を起こす。

「あっ」
「ん、矢野……」
「おう……! お、おはよっ」

 焦る俺の隣で、体を起こした有森がまだ眠そうにしながら伸びをする。

「結構寝ちゃったな……」
「そう?」
「来たなら起こしてくれてよかったのに」
「気持ちよさそうだったから」

 すると首を傾げて右耳のイヤホンを外しながら有森がくすりと笑う。「優しいね、矢野は」って。
 とくん、体の内側で鼓動が鳴る。それはコーヒーが注がれたコップの中で氷が溶けてガラスにぶつかるような、そんな音に似ていた。
 有森の笑顔ひとつ、言葉ひとつで、俺の感情はこんなにも大きく揺さぶられる。

「有森」
「ん?」
「この前……屋上でさ、いろいろありがとな」

 生徒会選挙でのことがあって以来、有森と一対一で話す機会がなく、しっかりと改まってお礼が言えていないままだった。
 あの日有森が屋上に来なければ、俺は晴翔へのコンプレックスをこじらせたまま自己嫌悪に潰されるのも時間の問題だったかもしれない。
 吹きつける風から守ってくれたから、温度ある言葉をたくさんくれたから、モノクロであることがいつしか当たり前になっていた世界に色があったことを思い出した。

「有森のおかげで俺、前向けたんだ。幼なじみと腹割って話せたし、自分のことも……なんだろ、少しだけ認めてあげられたってういうか」
「そっか。まあ、お礼を言われるようなことなんてしてないんだけどね」
「いや、有森の言葉が俺を救ってくれたんだ。有森がいなかったら俺、今頃どうなってたか」

 自分のふがいなさに頬をかいた俺に、有森がふんわり微笑む。それからカウンターに肘をつき、だれもいない書架の方へと向かって声を投げた。

「言葉ってさ、受け取り手によって如何様にでもなるって思わない? 毒にも薬にもなるし、なににも成り得ずに消えていくこともある。与えられた言葉をきっかけ(・・・・)にして、そこから行動したのは矢野自身だよ」
「有森……」

 有森の言葉にはいつだって嘘がない。だから心を揺さぶられてやまない。
 脆さと強さ、儚さと揺るぎなさ、二面性を孕んだその横顔からつい目が離せなくなる。
 君はこれまでどんな景色を見てどんなことを思ってきたのだろう。どんな過去や経験が今の君を形作っているのだろう。君を構成する、そのひとつひとつを知りたい。
 それは初めての欲求だった。好きだという感情から来るものなのか、あるいは有森という存在がそうさせるのか、どちらかはわからない。でも他人なんてどうでもいいと割り切り線を引いて生きてきた自分が、初めてだれかの内側に入りたいと思った。

 押し寄せる感情の波に処理が追いつかず呆けたようにその横顔を見つめていると、不意に有森がくるっとこっちを向いた。

「それより矢野、さっきイヤホン着けようとしてなかった?」
「え、あっ、バレてた……?」

 気恥ずかしさで思わず苦笑する。

「いつもなに聴いてんのかなーって気になって。教室でもずっと聴いてるから」

 そう問いかけて直後、自分の失態に気づく。
 教室で有森が孤立していることには触れないというのが、いつの間にかなんとなく暗黙の了解になっていた。あくまで俺たちの関係は図書室と屋上でのみ成り立ち、教室に戻った途端にそれまでのことがなかったかのようにリセットされてまったくの他人同士になる。そうであることを有森が望んでいるというのは言葉にされずともわかっていた。
 有森はいつも教室でまわりとの交流を避けるようにイヤホンを差している。どうしてそこまで他人を寄せ付けようとしないのかわからない中、それに関する話題はタブーのようなものだった。

「あー、えっと、そんなの俺に教えてどうするって話だよな!」

 最悪だ。有森と話していると舞い上がっているせいか気持ちばかりが先行してしまい、思わず余計なことを口走りがちだ。これが調子を狂わされるということなのかもしれないが、だからといって有森を傷つけてしまうなんて本末転倒だ。
 早く仕切り直さなければと話題を必死に絞り出そうとしていると、不意に有森がイヤホンを片方差し出してきた。

「聴く?」

 思いがけない提案に、つい音の外れた声が出る。

「えっ、いいの?」
「うん」

 なんでそんな驚いているのだろうとでも言いたげなあっけらかんとした表情の有森。俺はこわごわと小さくお辞儀をしてイヤホンを拝借する。

「……じゃあ、失礼します」

 左耳にイヤホンを装着する。するともう片方のイヤホンを差した有森がスマホを操作し、やがて音楽が流れ込んできた。
 それはロックバンドによるJ-POPサウンドだった。魂を絞り出すような熱量を帯びたボーカルの歌声と心臓の鼓動にダイレクトに響いてくる力強いビート。ただ激しいだけでなく、どこかエモーショナルな旋律が心をぐっと掴んでくる。

 有森が音楽の妨げにならないようにかそっと声を落とした。

「インディーズバンドなんだけど、去年の冬だったかな、路上ライブをしてたところにたまたま遭遇して。なんかすごく引きつけられたんだよね。それから放課後になるたび、このバンドの路上ライブを聴きに行ってた」
「そうなんだ……」

 この曲を生の路上ライブで聴いたら迫力がさらに増すだろう。
 すっかり聴き入っていると、ふと有森がまつげを伏せて淡い苦笑を唇に乗せる。

「こういうの、似合わない?」

 それは恐らく曲のことを言っているのだろう。たしかにロックバンドの曲を聴いているとは想像していなかった。けれど。

「いや、似合う似合わないっていうか、有森が好きなものを知れて嬉しい。それに俺も好きになった、この曲」

 俺にとって、有森が好きなものがすべて有森らしさになるのだろうと思う。

 すると有森ははにかんで「そっか」と呟き、そして目をつむった。俺も目を閉じ、静かに左耳から聴こえてくる奏でに耳を傾ける。
 ひとつのイヤホンを分け合い、肩と肩が触れそうな距離で同じ時と音を共有する。
 世界中のだれでもタップすれば聴ける配信音源なのに、有森の秘密の宝物を俺だけがそっと見せてもらえたような温かな特別感に満たされる。
 幸せとはこういうことを言うのだろう。君の気配を左肩のすぐそばに感じながら、ずっと探していた自分の心の居場所は君の隣にあったのだと知った。