【完】君の涙は透明であるべきだったか


*


 放課後、生徒会室で自分の荷物をまとめていた生徒会長に今回の選挙について感謝と謝罪を伝えに行くと、責めるどころか労るように「今後も期待している」と肩を叩かれた。そして「新しい生徒会長のことを支えてやってほしい」とも。

 学校を出て帰路につく頃、部活動のない生徒の帰宅ラッシュは過ぎ、通学路は閑散としていた。
 老人に囲まれながらバスに揺られ最寄りのバス停に着く。俺の前では腰の曲がったおばあさんがおぼつかない手つきで小銭を運賃箱に投入している。

「ばあさん、10円足りないよ」

 時間をとられ中年の運転手は苛立っているようだ。責め立てられながらどうにか支払いを終えたおばあさんを、素早く支払いを済ませて追う。

「持ちますよ」

 そう言って手押し車をバスから降ろし、バスステップに足をかけたおばあさんに手を貸す。
 俺の手に捕まっておばあさんがようやく降車したところで、間髪入れずに背後で扉が閉まってバスはあっという間に去って行った。

「ありがとうね」

 おばあさんが俺を見上げてほっとしたように皺だらけの笑みを浮かべる。俺が幼い頃に死んだ母方の祖母も、記憶は朧気だけれどこんなふうに柔らかく笑う人だった気がする。

「いえ、当然のことをしただけですから」

 するとおばあさんはいっそう笑みを深めた。

「とってもいい子ね。情けは人のためならず。あなたにも必ず良いことが還ってくるわ」
「そんな……。でもありがとうございます」
「ふふふ、見てる人は見てるものよ」
「え?」
「それじゃあね」

 おばあさんがゆっくりと手押し車を押して去って行く。「お気をつけて!」その後ろ姿に向かって声をあげたとき、不意に背後から名前を呼ばれた。

「宇恭」

 ――まさか。
 心がざわつくのを感じながら振り向いて認めたのは、癖っ毛の柔らかそうな髪、無駄な余白のない小顔、すらりとした長身の人影。そこにはやはり西園が立っていた。

「やっぱり宇恭は優しいな」

 濁りのない純度100%を向けられ、固まる。

「お前、なんでここに……」
「宇恭と話したくて待ってたんだ」

 否応なしに生徒会の活動を共にすることになるのだから、いずれは嫌でも向き合うべきなのかもしれない。でも今はまだ自分の中で整理はついていない。

「後にしてくれ。急いでるから」

 足早に振り切ろうとしたのに、西園はついてくる。

「待って、宇恭。生徒会のことで多分これから頼っちゃうことがたくさんあると思う。でも俺、精いっぱい頑張るから」

 消えかけの白線が引かれただけで縁石もない狭い道。向かいから走ってきた車がすぐ横を通り過ぎざま風を起こし、顔にぶつかってくる。蝉の忙しない鳴き声が気持ちを責め立てる。

「だから宇恭もいつでも頼ってほしい。一日でも早く、少しでも宇恭の負担を減らせるように……」

 ぷつんと糸が切れた音のない音を、俺は明確に聞き取った。
 勢いよく振り返り声を張り上げる。

「うるさいんだよ……!」

 これまで積もり積もった鬱憤がついに爆発して、一度決壊してしまえばもう歯止めが効かなくなる。
 驚いたように目を見張る西園に、傷つける意思をもって怒りをぶちまける。

「どうせ俺のこと馬鹿にしてるんだろ!? みんなに大切にされてなに不自由なく生きてきたお前に、俺の気持ちがわかんのかよ!?」

 自分の怒声がびりびりと空気を震わせ、それが無数の矢になり西園に向かって飛んでいくのが見えた気がした。
 身を守る楯も持たずに一方的な攻撃に晒され、その場に立ち尽くしていた西園がふと目を伏せた。そして。

「……違うよ」

 ぽつりと声をこぼす。

「そんなんじゃない。俺は望まれない存在だよ」
「は? なに言って――」
「ごめん。ずっと隠してたけど俺、父の実の子じゃないんだ」

 思いがけない告白に、怒りの勢いが一瞬にしてふっと途切れた。

「え……?」

 複数企業を傘下に収める財閥の会長である父と、元女優で美しい母。そんなふたりの元に産まれた御曹司。周囲から羨望の眼差しを一身に受ける憧れの家族。それはまるで、最高傑作だとだれもが信じて疑うこともしなかった名画にヒビが入ったような感覚。
 にわかには信じられずに耳を疑う。物心ついた頃からずっと一緒にいたのに、俺はなにも知らなかった。

「ごめん、ずっと隠してて。怖かったんだ、本当の自分を知られたらどんな目で見られるのか……。無名の俳優かぶれと不倫して産まれたのが俺。スキャンダルになるのを避けて父の子ってことになってるけどね。だからあの家にとって俺は汚点なんだよ」

 西園の表情が色を失うのを見たのはいつ以来だろう。
 いや、笑みは残っている。けれど力なく滲む自嘲的なそれは、かえってその悲壮さを色濃くさせていた。

「昔から弱虫で姉より出来が悪くて、父は俺の顔を見るたびに情けないと叱った。だけど母は見て見ぬふりだし、姉は嫌がらせをしてくる。だから家族に認めてもらわなきゃって半ベソかきながら死に物狂いでしがみついた。異分子だって輪から外されても、居場所なんてなくても、結局俺にはあそこしかないから」

 なにか言うべきなのかもしれない。でもあまりの衝撃に、喉の奥が張りついたように声が出ない。そもそも口を挟む権利が俺にあるのだろうか。
 すると眼差しを持ち上げた西園が俺を見て、眉尻を下げながら綻んだ。

「でも、そんな俺を救ってくれたのは宇恭なんだよ」
「え?」
「覚えてる? 逆上がりができない俺に暗くなるまで根気強く付き合ってくれたこと、先生に見つからないように俺の苦手な牛乳を代わりに飲んでくれてたこと。俺の味方になってくれた存在は宇恭が初めてで、あの頃からずっと俺にとって憧れのヒーローなんだ」
「…………」

 目を見張る。そんなふうに思ってくれていたなんて知らなかったから。まさか、こんなにもまっすぐで眩しい感情を、なんて、これっぽっちも。

 西園の言葉で脳裏に蘇ったのは、今となっては遠すぎる幼い日々の記憶。
 同じ幼稚園に通い、気づけばいつも一緒に遊んでいた気がする。年長組の男子から背が小さいと揶揄われていたのを庇ったことで、西園は俺に懐くようになった。どこにでもついてきて、俺も悪い気はしなかったし、むしろ大切な存在だった。大きくなってもずっとこうして一緒に遊んでいるのだろうと当たり前のように思っていた。

 とっくに忘れていたあの日の肌ざわり。けれどこいつは今でもまだ手放さないでいてくれたのだ。
 
「努力家で向上心があって負けず嫌いで困ってる人を見捨てない。そんな宇恭が隣にいてくれたから俺も頑張ろうって思えたんだ。多分宇恭がいなかったらとっくに逃げ出してたと思う……本当の俺は弱虫でいくじなしだからさ」

 ぽつりとこぼされた切ない心の声に、俺は思わず声を張り上げていた。

「ふざけんな……っ、お前は弱虫でもいくじなしでもない……!」
「え?」

 驚いたように開かれた瞳の真ん中に俺が映る。
 柔らかい栗色の、人より多く光を含んだ双眸。それを真正面からまともに見つめたのはひどく久々のように感じられた。

 自分のことを汚点だと、そう告白するとき、いったいどれだけの勇気と覚悟が必要だったのだろう。
 きらきらと輝かしい順風満帆な人生を歩んでいるように見えながら、その内側には数え切れないほどの葛藤や苦悩を抱えていた。本当の自分を悟られまいと背伸びをして、人一倍我慢強くならざるを得なかったのだ。だれも傷つけない太陽みたいに笑える今の西園ができあがるまで、どれだけの涙をのんできたのだろう。

 ずっとこいつに勝てなかった理由がやっとわかった気がした。
 俺は多分、心のどこかで西園のことを見下していたのだと思う。泣き虫で逆上がりもできなくて牛乳も飲めない、そんな自分より"下"の存在がいることにいつの間にか優越感と安心感を覚えるようになっていたのだ。
 だから立場が逆転して追い抜かされたことがどうしても許せなかった。どうしようもなく未熟だった俺は一方的に僻んで恨み、八つ当たりしながら生きてきた。
 こんな自分が、素直に他人を認めることのできる西園に勝てるはずがなかった。同じ土俵にすら立てていなかったのかもしれない。

「お前はだれより強くてかっこいいよ。やっぱ敵わねえわ」
「宇恭……」

 そして同時に頭の端っこで、こうも思う。まわりの人へ惜しみなく向けられるその直向きな眼差しを、西園は自分自身に省みてあげたことがどれだけあったのだろうと。
 いつの間にか幾億光年離れた存在のように思えていた幼なじみも、同じ人間で同じ17歳だった。家庭環境に悩み、比較されて、本当の自分を隠して生きてきた。
 もしも西園が自分を認めてやれないというのなら、そのぶん俺がひとつひとつ肯定してやれたら、それは西園にとって少しでも救いになるだろうか。

「理不尽なことばっかりだけどさ、俺も諦めないから晴翔も負けんなよ。……俺がついてる」

 できるだけ自然に呼べるよう努めたけど、やっぱりまだぎこちなさは拭いきれなかった。
 何年か越しに名前を呼ばれたことに気づかないはずがない。けれど何事もなかったかのように、まるでずっとそうであったように、なんの屈託もなく嬉しそうに笑う晴翔。

「俺も。これまでもこれからも宇恭の味方だよ」

 晴翔の言葉に、思わずくしゃりと笑顔がほどけた。

「知ってる」

 いつの間にか、あれだけ騒がしかった蝉の鳴き声は遠ざかっていた。
 視界の端にはオレンジ色の夕焼けが滲み、優しい温度で俺たちを照らしている。