【完】君の涙は透明であるべきだったか


*


「どうしよ、やばい、緊張してきた」

 選挙管理委員会のアナウンスを待つ昼休み、前の席に座る委員長が身震いをして見せる。
 すると俺と委員長の席を囲むように立っている女子3人組がくすくす笑った。

「なんで委員長が緊張してんの」
「息子の受験の合格発表待つお母さんみたい」
「ねえ、やめて~? 私はお母さんじゃなくて宇恭っちのファン一号ですぅ」
「はいはい。宇恭くんの最古参ね」

 きゃいきゃいと盛り上がる女子たちの会話を尻目に、俺は緊張を紛らわせるようにズボンのポケットに触れた。そこには母さんが昔水色の折り紙で作ってくれたお守りが入っている。小学生の頃から持ち歩いているせいでなんとなく捨てられず、子どもっぽいとは思いつつも今でも手放せないでいた。

「いつもお世話になってます、最古参さま」

 おどけたトーンでさりげなく会話に合流した、そのとき。ブツッと電源が入ったようなこもった音がスピーカーの方から聞こえてきた。スピーカーは続けてかしこまった様子の女子の声を流す。

『みなさんこんにちは、選挙管理委員会です。ただいまより生徒会選挙の投票結果を発表します』

「うわ、きた~!」

 そわそわをこらえきれないというように委員長が肩を竦める。
 それまでわいわいと賑わっていた教室から雑音が消えた。スピーカーから聞こえてくるアナウンスに一斉に意識が向けられている。

『まずは熱意ある演説を聞かせてくれた候補者および推薦人のみなさま、本当にありがとうございました。それでは結果を発表します』

 ごくりと飲み込んだ唾がやけに固く感じられた。
 台本をめくるような音ののち、選挙管理委員の息を吸う音がやけに響いて聞こえ――。

『生徒会長、2年3組、西園晴翔さん』

 読み上げられた名前が自分のものではないことを理解するのに数秒かかった。それはまるでざらついて聞きなじみのない別の国の言葉のようで。
 ――え?

『副会長、2年2組、矢野宇恭さん』

 自分の名前についていた役職は二番手の副会長。名を呼ばれたことでようやく現実が追いついてくる。

「うそ……」

 委員長が呟く声がしんと静まりかえる教室に響く。
 クラスメイトたちの目配せする気配、息を呑んだまま固まる気配、俺の様子を窺うような視線の気配。静寂の中、音のないはずの気配が迫ってくる。
 だって俺は現生徒会長のバックアップを受けながら負けたのだ、生徒会の経験も伝手もない奴に。
 有森は……有森はいったいどんな目で俺を見ているのだろう。

『……以上となります。当選されたみなさん、おめでとうございます。全校生徒の代表として――』

 当選者の名前が呼び終えられた途端、隣の教室がわっと賑わう。壁を越えて聞こえてくる西園を祝福する声。明暗が分かれるとはまさにこのことを言うのだろう。隣のクラスの騒がしさが、より教室の空気を重くする。

「はは、だめだったね」

 乾いた笑いがこぼれる。それを見る委員長たちの気の毒そうな切ない顔、顔、顔。

「さ、トイレ行ってこよっと。みんなも早くお弁当食べなね」

 笑顔のまま立ち上がると、無数の視線を振り払うように教室を出る。足は一度も止まることなく屋上へと向かっていた。まるで息継ぎのために水面に上がるように、ただ本能のままに。
 そして屋上に出た途端糸が切れたようにふらふらとした足取りになり、やがて完全に力が抜けてその場に膝からへたり込んだ。

「……なんで……」

 ひびが入って、けれどすんでのところでどうにか耐えていた気持ちが、ついにぱりんと音をたててまっぷたつに割れたのを感じた。

 今頃あいつは大勢友達に囲まれて割れんばかりの喝采を受けて、どれだけ気持ちのいい思いをしているのだろう。
 またあいつに負けた。またあいつに奪われた。惨めで情けなくてどうにかなりそうだ。

「くそっ、ふざけんなっ」

 ズボンのポケットからお守りを取り出し、衝動のままふたつに切り裂こうとしたとき。

「それ、大事なものなんじゃないの」

 ふと背後から聞こえてきた声にはっとして振り返る。そこには長い髪を風になびかせる有森の姿があった。

「有森……」

 見ないでくれよ。こんな俺のことなんて。
 思わず引きつるような自嘲の笑みが浮かぶ。

「有森も呆れてるだろ。そりゃ当たり前だよな、こんなのダサすぎだもん。傑作でなんかもう笑えてくるわ」

 はははと笑ったはずなのに、いつの間にかその笑顔は泣き出す寸前かのように歪んでいた。額に手を当て声を絞り出す。

「……矢野」
「俺はすべてがあいつより劣ってるんだよ、わかってる。あいつはみんなに求められて愛される主人公だけど、俺はすべてがあと一歩で何者にもなれない。惨めな思いはもうたくさんなんだよ。いい加減疲れ――」

 不意に体を覆った柔らかい香りと温もり。有森に抱きしめられていることに気づいたのと同時に、耳元で有森がぽつりと囁く。

「今日はやけに冷えるね」

 冷えるわけない、だって今日は夏日だ。

「有森……」
「矢野、壊れちゃいそうだよ」

 まるで吹きつける風から守るようにアスファルトの地面に膝をついて俺を抱きしめてくれている有森。その温もりが琴線に触れ、押し出されるようにぽろぽろと本音がこぼれる。
 有森に幻滅されたくない。だけどそれ以上にきっと有森は俺を見捨てたりしない、そんな根拠のない実感があった。

「……西園が憎い。でもそれ以上に自分が憎くて仕方ない……。俺は産まれたときから負け犬なんだ」

 必要とされたい、俺を見てほしい、もっと俺だけを。
 ある人はこれを拗れた承認欲求だと呆れるかもしれない。でもずっとコンプレックスまみれだった。父親に捨てられてみすぼらしい家に病気でほぼ寝たきりの母親とふたり暮らしの生活、同級生が遊び呆ける中そんな時間も金銭的余裕もなくバイト漬けの日々、そしてすぐ隣にいた完璧で人格者の幼なじみ。
 虚像を作ってみんなに求められる自分を演じてみようとしたけれど、それすらも中途半端な出来で卑屈さにいっそうの拍車がかかる。
 自分があまりに虚しくて恥ずかしかった。ひたすらずっと産まれてきた意味を問いかけ続けてきた。

「俺の人生ってなんなんだろう……。ここにいる意味って……自分の存在価値ってなんだろうな」

 抜け殻みたいな空っぽの声でぽつりとそう吐き出すと、有森が風に溶けるような柔らかい声で言の葉を紡いでいく。

「望んで産まれてきた人はいない。だから失敗と遠回りを繰り返しながら自分の人生に価値と意味を作っていくんじゃないかな」
「価値と意味を作る……?」
「いろんな景色を見て、いろんな人に触れて、自分だけの色で人生を染めていくんだよ。焦らなくていい。自分たちはもう17歳だけどまだ17歳。幸せになるのを諦めるのはきっとまだ早い」

 つんと鼻の奥が痛む。
 そっか、俺たちはまだ未完成な存在なのか。未完成でもいいのか。

 だから矢野、と有森が再び語りかける。

「だれかと比べて自分の価値を測ろうとしないで、自分を認めてあげて。矢野は唯一無二で、代わりに成り得る人なんてどこにもいないんだから」
「……っ」

 まっすぐ胸に届いたそれに大きく心を揺さぶられ、喉元にまでこみ上げてきた感情で窒息しそうになる。
 多分、それは一番求めていた言葉だったのだと思う。
 どうして有森は、こんなかっこ悪い自分の内側まで曝け出した俺を受け入れてくれるのだろう。俺という存在を認めて肯定してくれるのだろう。それはまるで、真っ暗闇の中で溺れかけていた俺の前に差し込んだ一筋の希望の光のようで。がんじがらめになっていた心がふっと雪解けしてほどけていくのがわかる。

 思わず縋るように有森の肩に顔を埋めると、子どもをあやすみたいに背中をぽんぽんと叩かれる。

「そうやってずっとひとりで闘ってきたの? もう少し肩の力を抜いていいんだよ」

 そうっと柔らかい声でそうなだめられ、無性に泣きたくなる。
 そうだ、そうなんだ。無様でも泥臭くても、それでもなんとか踏ん張って生きてきた。自分の無力さに絶望したあのときの俺が、悔しさに何度も心を挫けかけたあのときの俺が、初めて報われたようだった。
 今なら、自分が自分であることの意味にもう一度向き合えそうな気がする。

「なんでこんなダサい俺を知っても嫌わないんだよ」

 涙の気配でよれた声でぶっきらぼうに問えば、有森はふっと笑った。

「言ったじゃん、自分と似てるって」

 有森がなにをもってそう言うのか、まだわからない。だけどもし有森が自分の存在意義を探し求めているならば、それを打ち明けてくれたとき、今度は俺が道標になりたいとそう思った。