【完】君の涙は透明であるべきだったか


*


 金曜日。さっそく生徒会立候補者たちによるマニフェスト発表会が体育館で行われた。
 全校生徒が風通しが悪そうにひしめき合い怠そうに体育館の床に座り込む中、候補者たちは壇上に上がり、制限時間2分の中で公約するマニフェストと、いかに自分が生徒会役員にふさわしいを主張していく。その後各々が選んだ推薦人が客観的な視点から候補者のアピールポイントを訴え、支援を呼びかける流れだ。
 俺が掲げたマニフェストは、有森に話したとおり制服の自由化や身だしなみに関する校則の緩和策だった。
 蒸し暑い体育館の壇上で首に汗を流しながらスピーチしたマニフェストには、正直目立った反応は得られなかった。けれど推薦者として壇上に上がった現生徒会長が生徒会役員としての俺の活動ぶりと、必ず生徒会長になるべき人材であることを保証すると力説すると、体育館は大きな拍手で包まれた。

 一方、西園のマニフェストは部活動における予算の拡大だった。

「各部活が必要とする備品のアンケートをとり、優先度を検討した上で学校側に積極的に要望を出し、予算の拡大を働きかけていきたいです」

 壇上でそう主張した西園は、今日も爽やかで余裕すら感じさせる佇まいだ。この選挙に対してなんの気負いもないのだろう。
 ステージ袖からその姿を睨みつけながら、お前はお気楽でいいよなと腐った感情を持て余す。もし選挙に敗れて生徒会長になれなくても、よしよししてくれる大勢の仲間や優しいパパとママがいるんだから。
 内申点のため必死にあれやこれやにしがみつく俺の気持ちなんて、こいつは一生わからないのだろう。




「はあ……」

 22時過ぎ。バイトを退勤し家まで向かう道すがら、俺は大きな溜め息を吐き出した。疲労を濃く含んだそれは、いつもよりワントーン低かった。
 疲労の理由は先週から入ってきた新人バイトだ。たらい回しにされた教育係は、結局一番若手の俺に押しつけられた。
 そしてこの新人バイトが厄介なのだ。俺より年上の大学生で、だたでさえ接し方が難しいのに物覚えがとてつもなく悪い。さらにミスをすると「矢野さんにそう指導されたんで」と責任をなすりつけてくる。当然店長からの叱責の矛先は俺に向く。
 できることなら揉めごとは避けたいし、いちいち弁解する気力もない。だから日々募るストレスの負荷は、結局黙って耐えるしかないのだ。

「やってらんねえよな……」

 本当なら、今は来週末に控えた生徒会選挙に気持ちを集中させたいところなのに。

 どの家もカーテンや雨戸が閉められ、まるで街中が寝静まってしまったようだ。ぽつんと時々現れる街灯だけが明かりを灯し、ライトには小さい虫が群がっている。

 くさくさした気持ちのままジーンズのポケットに手を突っ込む。そこには先月封を切った煙草が入っていた。箱はポケットに無造作に入れていたせいで歪んでいる。そこから一本取りだし、口に咥えたそのとき。
 不意に背後から腕を捕まれた。

「――来い」

 そんな声が耳朶を打ったかと思うと、不意をつかれたせいで抵抗もままならずに強い力で腕を引かれる。そして訳もわからないまま近くの公園に連れ込まれた。

「は!? おい……! なんだよ急に!」

 そしてベンチの物陰に強引にしゃがまされると、隣に膝をついた人物をそこでようやく認識する。

「え、ツバサ……っ?」
「しっ」

 驚いたのも束の間、その先の声を封じるように口を塞がれる。
 そこにいたのはツバサだった。今日もあの日と同じ黒いキャップを目深に被ったツバサは、物陰から道路の方へ素早く視線を走らせる。
 直後、ライトを点灯させた自転車が目の前を通り過ぎていく。そこに乗っていたのは近くの交番の警察官だった。
 警察官が過ぎ去ったところでようやくツバサが俺の口から手を離す。口と鼻を塞がれ窒息寸前だった俺は、勢いよく息を吸って酸素を取り込む。

「く、苦しいって……!」
「あ、悪い」

 悪びれる様子もなく立ち上がったツバサを地面に尻からへたり込んで見上げながら、彼のおかげで間一髪のところで命拾いしたことを悟る。まさか一度ならず二度もツバサに助けられることになるとは。

「でも助けてくれてありがとな。補導されるとこだったわ……」
「優等生が補導されるわけにはいかないもんな」

 ベンチに腰を下ろしたツバサが、長い足を組んでそこに頬杖をつき、くすりと笑みをたたえて俺を見下ろす。
 ツバサの言うとおりだ。深夜徘徊の上に煙草なんて学校にバレたらしゃれにならない。考えただけでもゾッとする。
 安堵に胸をなで下ろしながら改めてツバサを見る。小さな顔は、キャップのツバで半分くらい隠れてしまっているのではないかとさえ思う。そしてキャップの陰になりながらも存在感を放つ大きな瞳には、今夜も無数の星が生き生きと瞬いているようだ。
 有森とこんなに似ているのに、全然違う。自分はツバサのようにはなれない、そうこぼした有森の眼差しが蘇る。有森の瞳はいつも寂しい。なにかを諦めてしまったみたいに、長いまつげがそこに濃い影を落としている。
 ――有森……。君の目にはいつもなにが映っているんだろう……。
 目の前のツバサについ有森の面影を探していると、無遠慮な視線を向けられているのが居心地悪くなったのか、ツバサが警戒でもするかのようにキャップのツバを深くする。

「なんだよ。俺の顔になんか付いてる?」
「あ……いや、また会えるなんて思わなかったから。今夜も散歩中?」
「まあな」
「そっか。どこかでばったり会えないかなって、バイト帰りはいつも気にしながら歩いてたんだ」

 よっこらせと腰を上げてベンチに座る。そして手に付いた土を払っていると、今度は隣のツバサが俺の顔を見遣る。その瞳に宿るのは、俺の内側を探り、試そうとでもしているかのような疑り深い眼差し。

「まだあいつといるんだろ」
「あいつって、有森?」
「それしかないだろ」

 決して責めているわけではないのだろう。それでも彼の声のトーンの中に漠然とした戸惑いや焦燥に近いものを俺は感じ取った。

 この前、もう関わるなと言ったツバサの真意は今もわからない。けれど、もう一度ツバサに会えたときには意思表示をしっかりしておきたいとずっと決めていた。

「ああ、一緒にいるよ。俺の意思で」

 いつの間にか有森と話せる水曜日の昼休みが楽しみになっていた。面白い話題を見つけると有森に話したいと思うようになった。
 普通じゃないってなんだろう。俺にとって有森は俺の話に一生懸命耳を傾けてくれて、自分では届かなかったような角度や視野での新鮮な相づちをくれて、たくさん笑ってくれる普通の女の子だ。

「兄貴のツバサに俺が言うのもなんだけど、有森はいい子だよ。隣にいると落ち着くっていうか、居心地がいいんだよな」
「……」
「だからもし俺のためを思ってああ言ってくれたなら俺は大丈夫。いや、大丈夫っていうのもなんか変だけど、とにかく、大丈夫だから」

 たしかな意思を込めて言い切れば、ツバサがふはっと吹き出した。

「あんた、いい奴だな」
「え? そうか……?」
「あんたみたいなお人好しに出会ったのは初めてだ。あいつも喜ぶよ、きっと」

 吹き出し、それからやがて和らいだその表情には安堵のようで慈愛のようなものが浮かんでいた。
 この兄姉の間には一体どんな事情があるのだろう。相手を忌避するようで、けれど相手の奥側まで見えていて、見かけはそっくりで、でも振る舞いは似ていなくて。
 妹に関わるななんてそんな強い言葉を、すかっとするほど人当たりのいいツバサが使うなんて、きっとなにか事情があるのだろう。でも俺はだれかの意見に流されるのではなく自分の目に映る有森を信じていたい。

 すると不意にツバサが大きく伸びをした。

「あー、なんか喉渇いたな。あれ、飲まないか」
「あれ?」
「ほら、マジカルジュースだよ」

 そう言って缶を呷るような仕草をするツバサ。その表情にはいたずらっ子みたいな笑みが浮かんでいた。いつだって大人びて見えていたツバサが、初めて年相応に見えた気がした。




 ぷしゅっと気持ちのいい音がふたつ並んで夜空に飛ぶ。
 思い切り炭酸を一息で飲み込んだ俺は、直後盛大に「は~!」と息を吐き出した。思えばバイトに出る前に水を飲んで以来、水分を摂っていなかった。蒸し暑い中、炭酸がより刺激的に脳と体に染み渡る。
 隣ではツバサもマジカルジュースで喉を潤している。
 そのときふと、なにか不自然な違和感を覚え――けれど一瞬感じたそれは、こちらに向けられたツバサの笑顔で遮られる。

「まっっずい」

 眉尻を下げた、気持ちのいいほど眩しい苦笑。なぜだろう、ツバサの笑顔には引力があってつい目を奪われる。

「え、やっぱり不味い? じゃあなんで」
「なんか、この不味さがなんかクセになるんだよな」

 そう言ってまた口に流し込んでは、まずいと笑うツバサ。
 思わずそれが移り、笑顔がこぼれる。

「あー、ツバサといると嫌なこと忘れられるわ」

 缶をベンチに置き、深くベンチの背もたれに寄りかかる。眼前の夜空には無数の星が瞬いている。蒸し暑さはあるものの時折吹きつける夜風が心地いい。
 ツバサの前では肩の力が抜けて気楽になれて日常を忘れることができる。バイトで負ったストレスさえも自分から切り離されるような感覚だ。

「代わり映えない夜空がこんなに綺麗に思えるのは隣にツバサがいるからなんだろうな」

 ふっと心の声を漏らして直後、我に返ってがばっと背もたれから跳ね上がる。

「うわ! 待って、今の超キザだった……! 有森にもキザって言われたのに!」

 今のなし! そう言いかけたとき、不意に額にこつんと小さな衝撃。

「痛っ……」

 額を押さえて衝撃の弾みでつぶった目を開ければ、デコピンしてきたツバサがひどく大人びた意地悪な笑顔を浮かべていて。

「ばーか」

 思わずどきりと心臓が揺れて、かっと耳が熱くなる。ナチュラルに繰り出される仕草がさっきから心臓に悪い。
 どうしてこうも有森兄姉は魅力的なのだろう。ふたりを前にすると調子が狂うことばかりだ。

「お前、ずるくね?」

 だれに対してもこんな感じなのだろうか。多分本人は無自覚なのだろうから尚更タチが悪い。現に俺までドキッとしてしまったのだから。
 つい文句を言うと、なにが?と案の定ピンときていない様子のツバサ。

「わかんないならいーよ」

 そう声を投げ、上体を再び正面に向けて再びマジカルジュース飲もうとしたとき、尻の下でぐしゃりとなにかが潰れる感触を覚えた。
 ジーンズの尻ポケットを探れば、そこにしまっていた煙草の箱がぐしゃりと潰れていた。

「うわ」

 中の煙草まで潰しただろうか。確認するように箱を覗き込んだとき。

「なあ」

 ふとツバサが声をあげた。飲み終わったらしいマジカルジュースの缶を握りつぶしながら、視線を俺の手の中の煙草に向けてくる。

「ん?」
「それ、どんな味すんの」
「え、煙草? 興味ある?」
「ああ。知り合いも吸ってて気になってたんだ」
「不味いよ」
「吸わせて、一本だけ」
「じゃあ、試しに一本だけな」

 俺は煙草を一本口に咥えると、その先にライターの火を当てた。やがてそこが赤くなり煙が出たのを確認すると、人差し指と親指で摘まんでツバサに手渡す。

「ん。ゆっくり吸って煙を口の中に一旦溜めて、口を開けてみ」

 いつものやり方をレクチャーし、ツバサを見つめる。人差し指と中指に挟んで煙草を口に運ぶその仕草は、まるで映画のワンシーンかと見紛うほど絵になるものだった。
 そして煙草を咥えて煙を吸い込み――。

「……ごほごほっ」

 盛大に咽せた。

「おい、大丈夫か!?」

 咽せて激しく咳き込むツバサの背中を慌ててさする。と、涙目になったツバサが顔を上げ、目が合った瞬間同時に吹き出していた。

「ごほっ、ふはは」
「はははっ」
「煙、変なとこに入った」
「めちゃくちゃキマッてたのに、全然だめじゃん」
「これは無理だわ」

 ふたりでツボに入ってしまい、腹を抱えて笑う。閑散とした公園にふたり分の笑い声が響き渡る。

「あー、めっちゃ笑った」

 目尻に滲んだ涙を拭いながら、涙が出るまで笑ったのはいつぶりだろうとふと思う。少なくともすぐ思い出せるほどの距離の記憶の中にそれはない。
 夜の公園でこっそりワルいことをして、しょうもないことでバカ笑いして、褒められたことではないことばかりだけどもしかしたらこれが青春というやつなのだろうか。そうだとしたら青春とは、時が経っても目が眩みそうなほど鮮やかな残像として忘れられない特別なものになるのだろう。

 隣のツバサを見る。俺にとっての"青春"の共有者を。

「今夜のことはふたりだけの秘密な」
「ああ」
「男同士の約束だ」

 ニッと笑って拳を突き出せば、ツバサが驚いたように目を見張り、それからくすぐったそうにくしゃりと破顔した。

「約束」

 こつんとぶつかった拳と拳。その感触は心臓までをも揺らした気がした。

 17歳、二度と戻ることのできない青く眩しく儚い一瞬を生きている。