最後に優しい噓を

 午後から急速に寒気が増し、これはやばいかもしれない、と仕事を早退した。
 平日昼間に帰宅するなんて滅多にないから、見慣れたマンション前の光景もいつもと違って見える。
 遊んでいる子どもたちの歓声。立ち話をしている住人たちの姿。配達中の局員さん。明るくのどかな印象だ。
 がくがく震える膝を叱咤してエントランスを抜けながら、とりあえず風邪薬を飲もう、と思った。万一でも同居のリオくんにうつすようなことがあってはならない。
 リオくんは六歳下の義弟で、大学に通いながらタレント活動をしている。ダンスボーカルグループの公開オーディションで選出された事務所期待の星なのだ。
 自宅玄関のドアに鍵を差し込んでから、おかしいな、と思う。
 開いてる――? リオくん、今日は撮影で遅くなるみたいなこと言ってなかったっけ?
 そっとドアノブを回すと抵抗なく開いた。
「ただいま。リオくん、もう帰って――」
 その時、中からものすごい勢いで誰かが飛び出してきた。
 その人は私を乱暴に押しのけると、ドアにぶつかりながら猛然と走っていく。
 え、今の誰……
 一体何が起こったの?
 数秒フリーズして我に返り、慌てて後を追いかける。
 逃げるように去っていくのは、茶色い髪をひとまとめにした女の人で、目深に帽子を被っている。エレベーターを待つ間が惜しいのか、迷わず非常階段を駆け下り始めた。ええー、ここ二十三階なんですけど。足がもつれてなかなか追いつけない。でも、さっきちらりと目にしたマスク姿の横顔に見覚えがある気がする。
 誰……、誰だっけ。どこで見たんだっけ。
 必死で追いかけるけど、がくりと階段を踏み外し、転がり落ちそうになって追跡を諦めた。
 踊り場の手すりにもたれてゼイゼイする息を整えていると、ふいに思い出した。
 このマンションの住人だ。何階に住んでいるかは知らないけど、エントランスで何度か見かけた。エレベーターで乗り合わせたこともある。
 その人がなんでうちから出てきたんだろう?
 部屋に戻ると鍵は開いたままで、中を見るのに勇気がいった。
 恐る恐る足を踏み入れると、部屋の中はしんとしていて誰かがいる気配はない。思わず止めていた息を吐きだす。
「ナアァ~」と鳴き声がして、リオくんの部屋からチャチャが出てきた。チャチャはリオくんが見つけてきた保護猫だ。二人暮らしを始める時にチャチャも一緒に住めるよう、ペット可のマンションを選んだ。駆け寄ってきたチャチャを抱き上げ、その小さな体温を胸にした時、急激な恐怖と怒りが立ち昇ってきて警察に電話をかけた。

 通報を受けて駆けつけてくれた警察官は二人組だった。三十代くらいの厳しそうな男性と、すらりとした長身の若い男性。彼を見て、心臓が飛び出しそうになる。
 二人は危険がないかどうか部屋の中を確認してから、
「この度は大変でしたね。少しお話を聞かせてもらってもいいですか」
 と、私に事情を尋ねてきたのだが、若い方の警察官が発する声音は、忘れたくても忘れられない。
「……佑京くん」
 鷲宮佑京。彼は、私が唯一心から好きになった高校時代の恋人である。
 佑京くんはわずかに瞳を揺らし私に気づいた様子だったが、表情を変えず、淡々と質問を続けた。
 職務中の警察官と住居侵入の被害者という立場で、再会の感慨にふけっている場合ではない。高校卒業から七年ぶりに見る佑京くんが、どれだけ精悍さを増し、大人っぽくなっていようとも。頭では分かるけれど気持ちが追い付かず、私の受け答えは支離滅裂だった。
 管理人さんや管理会社の人にも一通り事情を説明しているうちに、リオくんが帰ってきた。
「ごめん、由奈。一人にして。怖かったよな」
 リオくんはチャチャごと私を抱きしめると、頭を撫でてくれた。
 彼はすこぶる私に甘い。佑京くんと別れて精神的に不安定になった私を見ているからだ。リオくんとの間に恋愛感情はないけれど、彼は私の一番の理解者だと思う。彼の優しい香りは、ぎりぎりまで張りつめていた気持ちの糸をほぐした。
「それでは。よろしくお願いいたします」
 警察や管理会社の方々が帰った後、私たちはホテルに移動することになった。事件を知ったリオくんの事務所が、緊急避難として手配してくれたのだ。
 部屋に侵入していたのは同じマンションの住人で、身柄は確保されたという。詳しい動機は現在捜査中らしいが、リオくんのファンだったのではないかとの噂が流れていた。
 引っ越し先が決まるまで、しばらくはホテル暮らしをすることになりそうだ。身の回りの必要なものだけを持って、チャチャとリオくんと一緒にホテルにたどり着いた時には、すっかり夜も更けていた。
 ばたり、とベッドに倒れ込む。怒涛の展開で忘れかけていたけど、体調が悪い。ちょっと起き上がれそうにない。
「はい、メイク落とし。由奈、そのまま寝る? なんか食べる? 下のコンビニでおかゆとかあるか見てくるよ」
 リオくんが靴と上着を脱がせて私をベッドに押し込む。
 ぼんやりしたまま頷くと、私の額に手を当てて、そのままそっと目を閉じさせた。
「しんどいようなら病院行くから」
 少しひんやりしたリオくんの細い指先が心地いい。ぐるぐるといろいろなことが頭の中を巡るけど、何一つまともな形にならない。
「さっきの、あの警察官さ、……」
 リオくんが何か言いかけた気がしたけど、目を開ける気力がない。
「いや、何でもない。チャチャ、由奈を頼むな」
「ナア~ン」
 もう一度私の頭を撫でてから離れていくリオくんと、足元の方で丸くなるチャチャの気配を最後に、意識が途切れた。

 つらつらと、とりとめのない夢を見た。
「小牧、これ飲める?」
 日当たりの悪い西校舎の三階。教室の窓から二列目にある私の席に置かれたのは、ミルクたっぷりカフェオーレ。
 骨ばった大きな手。見上げるほどの高身長。明かりに透けるオレンジ色の髪。――佑京くんだ。高校のブレザーを着ている。
 高校二年生のクラス替えで、私は佑京くんと隣の席になった。
 一匹狼で周りと群れない彼は、見た目の精悍さも相まって、「怪しいバイトをしているらしい」など、噂の絶えない近寄りがたい存在だった。
 第一印象は怖くて最悪。それでも、彼には媚びない芯の強さがあり、男女問わず人気があった。「ねえ佑京くんてどんな感じ?」「年上と付き合ってるってホント?」程なくして、彼の隣はプレミアムなのだと知った。
 彼は授業中も休み時間も大抵気だるげに机に伏せっている。言葉を交わすことはほとんどなかった。
 話すようになったきっかけは、唐突に机に置かれたカフェオレ缶。自動販売機で間違えて購入してしまったらしい。
「俺、コーヒーダメなんだ」
「そうなんだ。……うん、飲めるよ」
 私は高校で浮いていた。第一志望の高校に落ちて二次募集の学校に進学したのだが、周りに馴染めずいつも一人だった。登下校も、昼食も、移動教室も。
「じゃ、やる。飲んで」
 ぶっきらぼうな佑京くんとホットカフェオレを交互に眺める。硬派な見た目で「コーヒーはブラック」とか言いそうなのに。
「コーヒーダメって意外だね」
「内緒な。カッコ悪いから」
 人差し指を口元に当てて目を細めた佑京くんの顔はとても優しい。
 急に世界が色を増した。世の中まだ捨てたもんじゃない。大げさかもしれないけれど、本気でそう思った。
 自然と笑みが浮かぶ。佑京くんがくれたカフェオレは甘くて温かくて、私の孤独に塞いだ心を慰めた。
 私の母は、三歳の私を置いて家を出ていった。
「こんなはずじゃなかった」と苦々しい目で見られたのを覚えている。
 私の家は東海地方で温泉旅館を経営している。女将がいなくなったという噂は小さな町で面白おかしくささやかれた。私がいなければ良かったのかな、と思った。
 高校進学が決まった頃に父が再婚し、継母と義弟ができた。ぱっちりした目と長いまつげが印象的な義弟のリオくんは、当時まだ小学生。可愛いの極地だった。
 それでも新しい家族になかなか打ち解けられず、家にも学校にも居場所がなかった。
「じゃ、俺といれば」
 そんな私に、佑京くんが隣を空けてくれた。居場所をくれた。
 彼の隣は心地よい。静かで落ち着いていて、確かな安心がある。
 ここにいていいんだ。この世の中に私もいて良いんだ。
「佑京くん、大好き」
 彼の骨ばった手が私の涙を優しく拭ってくれた。
 でも、幸せな時間は長くは続かなかった。
「ごめん。他に好きな人が出来た」
 卒業間際の冷たい雨が降る日に、彼は突然別れを告げた。

 目を開けると見たことのない天井が見えて、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
「由奈。気分どう?」
 妙に白く感じるベッドの中でもそもそしていると、気配に気づいたリオくんが近づいてきた。
 額に置かれたリオくんの手の感触で、自分の置かれた状況を思い出す。体調不良で早退したら住居侵入被害に遭って、リオくんとホテルに避難したんだ。昔の夢を見たのは、七年ぶりに佑京くんと再会したから。
「熱は下がったみたいだな」
「うん。たくさん寝たらすっきりした」
 実際身体は軽くなっている。薬が効いたのだろう。今日は休暇をとったけど、明日からは出勤できそうだ。
「良かった。起きられそう? ここミニキッチンついてるからスープ作った」
「え、嬉しい。食べたい!」
 リオくんはにっこりして私の頭をポンと軽く撫でた。
 彼がやたらと過保護なのには理由がある。
 佑京くんと別れた後、私は大学に進学するため上京して、一人暮らしを始めた。しかしある時、意識不明で救急搬送されたのだ。
 自分では普通に過ごしているつもりだったけど、実はその時期記憶が曖昧で、気づいたら薬を飲み過ぎて意識を失っていた。連絡がつかないことを不審に思った両親に頼まれて、リオくんが様子を見に来てくれたのだが、狭いワンルームの部屋で倒れている私を見つけて、死ぬほど心配したらしい。
「由奈。俺がいるから。俺がずっとそばにいるから」
 病院で目を覚ました時、リオくんが私の手を握って泣いていた。
 当時中学生だった義弟をそんな目に遭わせて本当に申し訳ないと思う。その時、ちゃんと自立しようと心に誓った。佑京くんを忘れられなくても、ちゃんと一人で生きていく。
 就活は安定を重視し、公務員に絞った。幸いにも都に採用してもらい、今年で三年目になる。自分ではもう大丈夫だと思っている。でもリオくんはトラウマらしく、あまり信用されていない。
「由奈、ごめん。住居侵入、……俺のせいだ」
 リオくんが作ってくれた野菜たっぷりの温かいスープを美味しくいただいていると、彼が深々と頭を下げてきた。
「ええ、リオくんのせいじゃないよ」
 慌てて否定したけど、彼は悲しそうに長いまつげを伏せた。
 一夜明けて、昨日の住居侵入事件の詳報が出ている。侵入先がタレントの居室ということもあり、報道の扱いは大きい。スマホのニュースサイトを見ると、以下のような記事が載っていた。
 『十月二十一日午後三時ころ、人気ボーイズグループ『グリーンアッシュ』のメンバーであるリオさん(十九歳・本名は非公表)宅に不審な女が侵入した。住居不法侵入罪で逮捕されたのは同じマンションに住む上村菜々香容疑者(三十一歳)。同容疑者は、関東圏五店舗で美容クリニックを営む会社役員の夫(四十五歳)と共に一年前から同マンションに住んでいた。
 熱狂的なリオさんのファンで、自宅には彼の関連商品が多数残されており、同マンションへの引っ越しもリオさん在住の情報を何らかの手段で得たためとみられる。
 上村容疑者は、「彼のプライベートを見たいという欲求が押さえきれなかった」という趣旨の供述をしており、犯行を認めている。
 以前からマンション内でリオさん周辺の盗撮、盗聴行為を繰り返し、その過程で部屋の鍵情報を入手して、インターネット業者に不正な合鍵作製を依頼。容疑者はリオさんの生活サイクルを把握しており、当日あの時間帯なら部屋に誰もいないと思い犯行に及んだが、思いがけず同居家族が帰宅してパニックになり、逃げたという。
 警視庁では不正な合鍵作製や盗撮盗聴行為について詳しく調べるとともに、ストーカー規制法違反なども含め、容疑の全容解明を急いでいる。』
 何とも心が暗くなる。
「俺のせいで由奈を危険な目に遭わせて、本当にごめん」
 スマホから顔をあげるとリオくんの痛ましげな視線と目が合った。そんな顔をさせて、胸が苦しい。
「全然。リオくんのせいじゃないし、リオくんは一ミリも悪くない」
 本心からきっぱり否定するけど、リオくんの顔は晴れない。
「由奈と住んでることが世間に知られて、あることないこと叩かれてる……」
 それは、まあ確かに。
 報道では「同居家族」としか書かれてないけど、芸能誌やSNSでは「リオ、年上女性と同棲発覚」などと騒ぎが広がっている。
「矛先が由奈に向いたら嫌だから、活動休止も含めて事務所と相談してる」
「えっ、でも。せっかくいい感じに活動出来てるのに」
 リオくんのグループ『グリーンアッシュ』は公開オーディションを経て結成されたので、結成当初から応援してくれているファンも多い。最近ではダンスボーカルだけでなくモデルや俳優としても活動しており、広い世代に知られている。リオくんもドラマや映画に出演したり、主題歌を担当したりしている。彼はメインボーカルで、その透き通った歌声はファンの心をしっかりつかんで離さない。
「由奈に何かあるくらいなら、俺はいつでも辞めていい」
「そんな……」
 リオくんが本気で言っているのが分かって、断固反対する。
「ダメだよ、絶対ダメ。だって私、リオくんのファンだから」
 リオくんは天性の歌声を持っている。恵まれた容姿もある。でも、何より努力がすごい。
 寝食を忘れて何時間でもトレーニングに励んでおり、心配になるほどだ。そのうえ大学の勉強も手を抜かない。どうしてそんなに頑張れるのかと聞いたら、「守りたいものがあるから」と言っていた。
 その努力を無にするようなことは絶対にしたくない。
「なんなら、同居を解消……」
「それは絶対許さない」
 即座に拒否されて、しょんぼりする。私って未だに信用ないんだな。リオくんの足を引っ張りたくないのに。
「……まあ」
 少し考え込んだ後、リオくんが呟く。
「事務所も警戒を強化するっていってるし、警察も気を付けてくれるみたいから、そうそう危険なことにはならないと思うけど。でも由奈が誹謗中傷にさらされるのは許せないな」
「それは大丈夫だよ。私、友達いないからSNS見ないし」
「何言ってんの」
 呆れたように、でもリオくんがちょっと笑ってくれたからほっとした。

 それから二週間ほどで、引っ越しが決まった。
 リオくんの事務所が、ペット可でセキュリティのしっかりした都心のマンションを探してきてくれ、私たちは慌ただしく引っ越した。新しいマンションは部屋もオートロックで、指紋認証で開く。
 渡されたタグキーにリオくんのキーホルダーを付け替えた。
 「ゆな、これやる」
 まだあどけなかった彼はいろいろな宝物を私にくれた。
 遠足で見つけたという帽子をかぶった双子どんぐりや、海で拾ったという薄桃色のきれいな貝殻。
 もう少し大きくなってからは、図工の授業で作ったという手掘りのキーホルダーをもらった。桜の模様にYと彫られている。とても素敵な出来栄えで、その時からずっと鍵に付けている。
 あの頃から今でも、リオくんだけが変わらずそばにいてくれる。
 安全体制の見直しということで、リオくんは一時活動を休止していたけど、引っ越しが落ち着いたころに復帰した。専属のマネージャーさんもついて、送迎もしてくれる。
 『グリーンアッシュ』の公式サイトには、事実と異なる見解や関係者への誹謗中傷はおやめくださいという注意喚起も載せられた。
 私は変わらず地下鉄に乗って出勤している。なんとなく視線を感じることもあるけど、直接何か言われたりすることはない。職場の上司も諸々承知してくれている。
 どこにでも噂好きの人はいて、腫れ物に触るようだったり、あからさまに擦り寄ってきたりする人もいるけど、適当に受け流している。やるべきことをちゃんとやっていれば、いつかみんな飽きるだろう。
 上村容疑者は近く起訴される見込みだと報じられている。
 事件の処理は速やかに進んでいるようだ。あれ以来、警察の人と直接会うことはない。
 でも、再会した時の佑京くんの姿が頭に焼き付いて離れない。彼は今、どうしているのだろう。ともすれば彼の職場の方角をぼんやり眺めてしまう。
 もう一度会えたら、言いたいことがあったような、何もないような――
 警察の制服を着た大人の佑京くん。
 ああ、そうだ。夢を叶えてすごいねって言いたいな。
 
「俺、高校卒業したら、警察学校に行く」
 高校二年生も終盤になると、具体的な進路選択が始まる。佑京くんは卒業後は就職すると決めていた。
 彼は児童養護施設の出身で、早く自立したいという希望があり、また困難な環境にある人に寄り添うことを望んでいた。佑京くんは芯が通っていて、困難に屈しない強さがある。私みたいに孤独な境遇に寄り添ってくれる優しさもある。警察官という選択はぴったりだと思った。
 私は漠然と大学進学を考えていて、出来れば実家を出たかった。継母は優しくていい人だけど、実の母に遠慮する気持ちもあって、どうしても壁を作ってしまう。多分、新しい家族は私がいない方が上手くいく。
 佑京くんが警視庁を目指していることを知り、大学は上京することを考えた。親に仕送りの負担はかけてしまうが、相談すると国公立大学なら、と認めてくれた。
 高校入試で志望校に落ちていることもあり、必死で受験勉強をした。
 私の通う高校は、進学と就職が半々くらいで、国公立大学を目指す人は少なく、あまり対策も取られない。相変わらず周りからは浮いていたけど、佑京くんが一緒に試験勉強をしてくれた。休日や放課後は、膨大な数のテキストや講義動画に囲まれた自習室や図書館に通い詰める。科目数が多くて大変だったけど、隣に佑京くんがいてくれたから、その時間も充実していた。合間に自動販売機のココアやおしるこで休憩したり、帰りにコンビニのおでんを分け合ったりして楽しかった。
 暮れ落ちた帰り道、寒くて身を縮こませながら並んで歩く時間が私は好きだった。彼は猫アレルギーらしく、散歩中の猫を見かけると一瞬真顔で動きを止める。
「内緒だから」
 鼻を赤くして言い募る佑京くんはなんだか可愛い。コーヒーと猫が苦手。二人だけの秘密が出来たようで嬉しかった。 
 澄んだ空にはいくつもの星座が見えて、遠くから波の音が聞こえる。
 暗い静かな世界に二人だけだったとしても、私は幸せだった。
 だから、春からの進路が決まり、上京してからのことを浮き浮きと考えていた私は、卒業間際に告げられた彼の言葉を予想もしていなかった。
「ごめん。他に好きな人が出来た」
 衝撃が大きすぎてうまく飲み込めない。
「やだ、……絶対に嫌。別れたくない」
 空気が薄くなって、息が凍る。現実のこととは思えない。受け入れられなくて、狂ったように泣いて縋っても、彼はもう手を差し伸べてくれない。
「ごめん。お前のことは、もう好きじゃない」
 たかが失恋と言われるかもしれないけど、私にとっては世界の終わりだった。
 後から考えれば、私は佑京くんに依存しすぎていたのだと思う。佑京くんが私の全てで、私の存在意義で、生きる意味だった。多分私が重すぎて、彼は息苦しくなったのだろう。今ならわかる。
 でも、それでも。彼のように命よりも大切だと思える存在には、もう会えない。

 冷たい北風が穏やかな春風に変わり、エントランスの植え込みには新緑が芽吹いている。
 引っ越しから半年ほど経った。
 新しい住居にもすっかり慣れ、私は仕事に、リオくんは大学と仕事に勤しむ日々が戻っている。世間の関心も侵入事件から他に移ったようだ。
 私はこの春から教育研修を企画する部署に異動になり、様々な研修を任されている。慣れなくて慌ただしいけれど、研修を運営する喜びがあるし、参加者に有意義な時間を提供したいと気合を入れて取り組んでいる。
 その日も主催者として研修センターに出向していた。行く途中に通る桜並木は満開を過ぎ、散り始めている。この季節はいつも、少しだけ寂しい。
 研修の休憩時間、集めた用紙を片手にスマホに目を向けると、三件の不在着信がある。どれもリオくんを担当してくれているマネージャーさんからだ。よほどのことがなければ仕事中に電話はかかってこない。
 ぎしり、と心臓が嫌な感じに軋む。急いで談話スペースに移動し、留守電を再生した。
『佐々岡です。小牧由奈さんのご連絡先で間違いないでしょうか。リオが不審者に刺されて病院に搬送されました。現在治療中です。折り返し、ご連絡いただけますか』
 ヒッと空気が漏れるような音がした。自分が息を呑んだのだと後から気づいた。
 スマホを辿る指が震える。ワンコールですぐに繋がった。
「由奈さん。折り返し有難うございます。リオと現場にいたもう一人が不審者に刺され、救急搬送されました。搬送時リオは意識がありましたが、現在手術中です。国際中央病院の救急治療室にいますので、なるべく早く来てもらえますか」
 佐々岡さんの口調は落ち着いていたが、有無を言わせぬ切迫感がある。私は同僚に事情を説明して担当を代わってもらうと、すぐにタクシーに飛び乗った。
「なにか事件があったようですね」
 救急や警察の緊急サイレンが聞こえ、道は混雑している。
 ネット速報の『リオ、刺されて重体』の文字が目に刺さった。
『本日昼過ぎ、東京都文京区の路上でタレントのリオさん(十九歳)と若い男性が不審な男に刃物で刺された。二人は病院に搬送されたが、いずれも重体。刺した男は刃物を持ったまま現場から逃走し、その後、近くの東京メトロ線路内に飛び込む姿が防犯カメラに捉えられている。男は走行中の電車にはねられ死亡したとみられている――』
 病院の受付で名乗ると手術待機場所に案内してくれた。
 リオくんと刺されたもう一人の男性は現在手術中で、手術室付近の待合ロビーに佐々岡さんが座っている。祈るように組まれた手が、厳しさを物語っている。
「……由奈さん、お疲れ様です」
 佐々岡さんはすぐに私に気づいてくれた。
「現状は、リオに命の危険はなさそうだということです。リオは腕と背中の一部を刺されていますが、一緒にいた男性がとっさにかばってくれたようです」
 口を開いたら泣いてしまいそうで、ただこくこくと頷いた。
「その方は背中から胸を刺されて意識不明です」
 急に足の力が抜けてへたり込みそうになった私を佐々岡さんが支えてくれた。
「大丈夫ですか」
 佐々岡さんに支えられながら椅子に腰を下ろす。こんなことが現実だなんて信じられない。悪い夢を見ているようだ。
「鷲宮さんのご家族の方、いらっしゃいますか」
 しばらくして、手術室から看護師さんらしき人が出てきた。並びの椅子に座っていたスーツ姿の男性二人が立ち上がる。
「鷲宮の同僚です。彼は、身寄りがありません」
「そうですか。では、先生からの説明はあなた方が聞かれるということでよろしいでしょうか。患者様、かなり危険な状態です」
 気づいたら、男性のスーツの袖をつかんでいた。心臓が壊れそうだ。
「……佑京くん? 佑京くんなんですか?」
 全然頭が回らないのに、直感だけが冴えわたっている。鷲宮という苗字は、決して多くない。そんなはずないと思いながら、どこかで確信していた。
「失礼ですが、あなたは?」
 不審な目を向けられて、慌てて手を離す。
「あ……、あの……」
「鷲宮さんと一緒に刺されたリオの身内です。住居侵入事件の際、お世話になったようです」
 とっさに言葉出てこなかった私に代わり、佐々岡さんが説明してくれた。
「そうでしたか」
 同僚の人たちが納得してくれたけれど、つまりそれは、被害者が佑京くんであるということと等しい。
「か、かなり危険って、あの、……」
 指先が震える。心臓が痛い。
「もしかして――、あなたは『こまき』さんですか」
「……はい」
「そうですか。よろしかったら一緒に先生のお話を聞かれますか」
 同僚の人が切なげに眉根を下げた。
「鷲宮にとって、あなたは特別な存在のようですから」
 特別――その言葉に胸をぎゅっとつかまれる。都合の良い解釈をしてしまいそうになる。
 ずっとずっと忘れられなかった。彼は私のことをどう思っていたのだろう。