失われるとわかっていても、君の隣を手放したくない

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 信号待ちをしている間、寒さにかじかむ手に息をふきかけた。指の合間から白くなった息が漏れる。今日は2月並みの寒さだというのに、朝の騒動に気を取られていて、手袋もマフラーも忘れてきてしまった。
 出かけに弟が体調を崩した。医師の両親は仕事で不在のため、近所に住む祖母(元看護師)が来るまで待ったあと、こうして自転車に乗り学校に向かっている。
 青信号に変わった横断歩道を走り抜ける。ハンドルを持つ手に冷気が突き刺さる。耳の感覚がなくなっていく。我慢できなくなり、近くのコンビニに寄ってホットドリンクを買うことにした。遅刻の連絡はしているし、すこしくらいなら問題ないだろう。

 自動ドアが開き、空気のぬるさに体がゆるむ。会計に向かうと、レジ横にいた紺色のセーラ服に目が留まる。トクン、と静かに胸が鳴る。
 揚げ物が並ぶホットショーケースのなかを覗き込んでいる女子。俺が見ていることに気づいていない。

 気がつかれなくても、いいや。
 
 彼女のこと、水野のことを見つめていたかった。
 別人だとはわかっていても、見た目が似ているせいで、水野と舞が重なっていた。それが消えたのは、文化祭で舞と再会したからだ。
 家に来ないか、と誘われたが扉は開けなかった。水野の声が聞こえた気がしたから。忘れられなかった舞にやっと会えたのに、幻かもしれない水野の声に従った。
 その理由に向き合っていいのかわからない。
 和田ちゃんの顔がちらついて、先に進めない。

 視線にやっと気がついた水野が、幽霊でも見たかのように目を見開き、声にならない声を上げる。

「驚きすぎだろ!」
「き、桐島くんっ……いつから、どうして……」

 苦笑いしながら近づくと、ふっと距離をとられた。ちくり、胸が痛む。

「……俺は土曜授業。ちょっと事情があって遅刻しちゃったけど。水野こそ、どうしてここに? 学校は?」
「わたしは、えっと……」
 
 歯切れが悪い。ボーリングの日、水野と舞を間違えた気まずさから、避けるような行動を取っていたことのツケか。
 水野と和田ちゃんを見ていると、なぜか強く舞を求めてしまう。あの時もふたりが仲良く電話していて、気がついたら水野と舞を混同していた。どうかしていた。
 心のなかで舌打ちをする。

「そっか。で、なにを真剣に選んでんの」
「肉まんか、あんまん。どっちにしようかと思って」
「今から食うの? 朝ごはん食べてないのかよ」
 
 聞くと、橋本の家に泊まり深夜にお菓子を食べたので、起きたときは腹が減っていなかったという。今日は授業はないが学校に用事があったので、ダイエット(?)も兼ねて歩いていた途中、腹が減ってきた。驚くことに、橋本の家と俺の家はかなり近かった。

「食事だったら肉まん一択だろ。あんまんってお菓子じゃん」
「だよね。でも、あんまん美味しいんだよ」
「俺は好きじゃないけど……ていうか、今は食事にすべきはどっちか、で」
「あんまん、きらいなの!?」
 つっこみどころはそこかよ、と笑ってしまう。
 話題こそ微妙だが、水野の緊張が解けたようで安心した。

 結局は俺の意見が受け入れられ、肉まんが買われることになったのだが、支払いの段階で鞄の中をかき回し始めた。

「……もしかして、財布ない?」
「凜花の家に忘れちゃったかも……」

 笑いながら、俺のぶんも含め肉まん2つとドリンク分の金を支払い、コンビニを出た。

「桐島くん、ありがとうー! そして、ごめんなさい……」
「いいよー、肉まんひとつくらい」
「お金は絶対に返すからね!」
「ハイハイ」

 車止めにもたれかかりながら、二人で肉まんを頬張る。

「肉まんもおいしいねぇ。でも、わたしはあんまん派かなぁ」
「そんなに? じゃあ、俺が奢った肉まんの代わりに、今度は水野があんまん奢って。とびきり美味しいやつ」
「今度って……あれ、学校だいじょうぶ?」
「遅刻連絡してるから大丈夫」

 カサカサ、という包み紙の音が重なる。隣にいる水野を盗み見た。もそもそと食べる姿は、まるで食事中の小動物みたいだ。
 次第に体の中が温まっていき、幸せな気持ちが沁みていく。溢れ出た至福のため息が、白い塊となって遠のいていく。

 食べ終わり、なんとなく一緒に向かう流れになった。こんなに寒い日はコタツを背負って歩きたい、重いのはいやだけど。なんでもない会話が嬉しかった。
 遊歩道にさしかかる。このまま歩いていくと公園に突き当たり、そこで別れることになるだろう。

 ふと、水野が立ち止まった。 

「あそこ、なんの建物だろ」

 指差したほうを見ると、進行方向に青磁色の屋根がのぞいていた。大正時代の作家の屋敷で、今は地域の催しをするのに開放されている洋館だと教えた。

「読み聞かせの会があって、ばあちゃんに連れられてよく来てたな。入ってみる?」
「いいの?」
「庭になら入れるはず」

 入り口は開いていて、敷地内の駐輪場に自転車を停めた。
 洋館を見上げる。鉄の格子の向こう、すりガラス越しに、ぼうっと光る丸い灯りが見える。あれは階段ホール上の灯りだったかな、走り回ってよく注意されたっけ……懐かしい子どもの頃の記憶がよみがえる。
 南に歩いていくと、洋館と同程度の広さの庭がある。池や竹林のある和風の庭園だ。

「わ、すごい……」
「だろ? 池には錦鯉もいて……ほら、いるでしょ。子どもの頃は餌やりもさせてもらえて楽しかったな」

 錦鯉は、俺たちに構わず優雅に泳ぎ去った。
 冷たく澄み切った空気のなかで、循環する水の音が響く。
 風が竹林を揺らす。
 静けさに満ちた庭に、俺と水野だけがいる。
 
 池に沿って小道が整えられている。俺が歩きだすと水野がついてきた。竹林を眺めながら、ゆっくりと歩く。
 ふと、前方の道に黒くぬめっているところを見つけた。

「ここ、滑るかもだから気をつけて」

 慎重に歩みを進めていくと、さくっと小気味よい音がした。目を凝らしてみると、わずかに盛り上がった土の下に、細い柱状の氷が立ち上がっている。霜柱だった。

「すごいよ、霜柱が立ってる!」

 振り向くと、水野がビクッとした。興奮して大声を上げすぎたかもしれない。

「ごめん、驚かせたか」
「ううん、大丈夫……。霜柱? あ、ここにもある……」
「そこにもあった? どれどれ」

 水野の足元に、きらりと光る場所を見つけた。伸ばした指先が、繊細な光を放つ氷の柱に届きそうなとき。
 こつん、と頭が何かに当たり、小さな叫び声が聞こえた。

「ごめっ――」


――!!


 視線がぶつかった。息がかかりそうなほどの距離に、水野がいた。 
 動けなくなった。
 全く別の人間の、言葉にもできないし形もない感情が、触れて、重なって、広がっていく。
 一緒に響き渡っていく。こんなこと、経験したことがない。

 すとん、と俺の中で、あるべき場所に何かが落ち着いた。
 それはずっと探していたもので、ゆるぎなく体の真ん中に備わり、次第に熱を帯び始めた。
 胸が、ひきつれるように痛む。
 昂ぶる気持ちを抑えるように、水野の顔から視線を外した。吐く息が震えている。

 目が合ったのはほんの一瞬なはずなのに、水野の顔が焼きついて離れない。
 触れられる距離にいるのに、触れられないことがもどかしい。

 水野のことを失いたくなかったから、舞に戻らなかった。舞に似ている水野に惹かれているのを、俺自身が認めたくなかっただけ。
 さんざん避けておいて、今さらか?
 でも今、俺は欲しい。
 水野の心も体も、強烈に欲しい。
 和田ちゃん、俺はもう限界だよ。「水野のことはあきらめた」って言葉、本心じゃないと気づいてた。俺の大好きな和田ちゃんが好きになった人だから、うまくいけばいいって願った気持ちにも嘘はない。
 だけど、もう。
 自分の気持ちを、置き去りにはできない。
 誰になにを思われても、どうなっても俺は――

――俺は、水野が好きだ



「水野、連絡先教えてよ。春に、大学で会おうぜ」


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