今日は終業式のみなので、いっそのこと休んでしまおうと寝ていたら、同じく終業式の妹に叩き起こされた。しかたなく登校するハメになる。
形式的な式と挨拶を終え、午前で下校となった。このまま塾の自習室に直行する予定だったけれど、座ってぼうっとしたい気分になり中庭に出た。
木々はすっかり葉を落とし、裸の枝を灰色の空に向かって伸ばしていた。吐く息は白く、徐々に体が冷えてくるのがわかっても、根が生えたみたいにこの場から動けない。
ロンドンは日本より寒いんだろう。むこうは今、深夜だろうか……。
スマホを手に取る。水野さんの送ってくれた写真を見返し、想いを馳せる。
橋本さんが言うように、ただそばにいられる今の立場を捨ててでも、想いを伝えるべきだったんだろうか。俺は情けないやつなんだろうか。つき合えないのなら、離れたほうがいいんだろうか。でも……
――会いたい
叶いもしないことを、ひたすら願ってしまう。
ふと、向かいの渡り廊下に佇む人の姿に目が留まる。
藤澤だった。文化祭を終えてから、隣のクラスにも関わらず会う機会がなかったので久しぶりだ。軽く手を挙げて挨拶すると、こっちと手招きされた。首を傾げながら近づく。
「久しぶり。どうした?」
「こんなに寒いのに、ベンチに座ってぼうっとしてるから大丈夫かよって。雨も降ってくるみたいだし」
見上げると、空一面の灰色の雲はところどころが黒く変わり、どんよりと重くなっていた。湿気を帯びた空気を吸い込むと、かすかに胸の辺りが苦しくなる。意識に刷り込まれているのか、体が反応しているのか、気圧の変化は未だに苦手だ。
軽く咳払いをしてやり過ごそうとしていると、唐突に「今、時間あるか?」と誘われた。
「なくはない、けど……」
「じゃあ、ちょっとつきあって」
そのままくるりと背を向けて歩き出す。呼び止めて断るのも面倒で、後を追った。
藤澤に続き、映研部の部室に入る。もともと暗めの室内は、天気のせいで一層、薄暗くひんやりとしていた。以前に来たときよりも、壁に貼られたポスターが増えている気がする。
暗闇のなか浮かびあがる人の顔。笑っていたり、泣いていたり、怒っていたり……切り取られた一瞬の表情、それぞれの物語。
藤澤が隣に並んだ。
「いいよな、映画のフライヤー」
「フライヤー? ポスターじゃなくて?」
「ちがうちがう。これは映画の宣伝用に配られるチラシ」
映画館の記憶は、小学生のころで止まっている。長時間、作り物の世界に浸からなくてはならないことに絶望した思い出しか残っていない。あのころの俺は、現実に存在する人間同士が交わすリアルな会話に飢えていた。
「俺、映画観ないからなぁ……」
「あんまり興味ない?」
映研部の藤澤の前で、興味がないと発言することに気が引けて「うーん」と言いよどむ。答える代わりに「藤澤はいつから映画好きなの?」と話を振った。
「撲が映画に興味を持ったのは中学生のころ。神童扱いされてA校に受かったのに、この学校そんなやつらの集まりじゃん? 勉強ができるのはデフォルトだから、他のことで撲しかできないものを探しても、なかなか見つからなくて」
たしかに、ずば抜けて絵の上手いやつや、将棋の強いやつ、ピアノのコンクールで優勝するやつは目立つ。物理やプログラミングなど、特定の分野に詳しいやつも尊敬されるし、篤人みたいに人を惹きつける魅力のあるやつも眩しく見える。
「一時期ほんとに逃げたくて、自分以外の人生を生きたくて、逃げるようにひたすら映画を観たんだ。創作の世界は自由だから、撲はどんなところにだって行ける。時代も国も、現実世界さえも越えられる。それに、観る前と観た後で、確実に自分の中の何かが変わるんだ。すげぇやって夢中になった。撲も誰かのことを変えられるかもって、自分でも撮るようになった」
藤澤の横顔が輝いて見える。俺はこんな風に夢中になれるものを持っていない。医者になるという将来の夢はあるし、それに向かって頑張っているけれど……。
「だけど、コンクールには落ちまくり。才能なんてないんだ。世にウケるものをつくれない、やってても仕方がないって悩んでた。ただね、最近わかってきたことがあって」
「うん」
「賞をもらうことは目標だけど目的じゃない。映画を撮るのが好きって気持ちが大事なんだ。これいいな、これ伝えたいってものを、好きなように撮れたらいい!って思った」
「そう……」
「恋愛と同じだよ」
わずかに潤んだ瞳が訴えかけてくる。フライヤーに囲まれ静止した世界のなかで、藤澤の瞳だけが生き生きとした光を纏って浮かんでいた。
形式的な式と挨拶を終え、午前で下校となった。このまま塾の自習室に直行する予定だったけれど、座ってぼうっとしたい気分になり中庭に出た。
木々はすっかり葉を落とし、裸の枝を灰色の空に向かって伸ばしていた。吐く息は白く、徐々に体が冷えてくるのがわかっても、根が生えたみたいにこの場から動けない。
ロンドンは日本より寒いんだろう。むこうは今、深夜だろうか……。
スマホを手に取る。水野さんの送ってくれた写真を見返し、想いを馳せる。
橋本さんが言うように、ただそばにいられる今の立場を捨ててでも、想いを伝えるべきだったんだろうか。俺は情けないやつなんだろうか。つき合えないのなら、離れたほうがいいんだろうか。でも……
――会いたい
叶いもしないことを、ひたすら願ってしまう。
ふと、向かいの渡り廊下に佇む人の姿に目が留まる。
藤澤だった。文化祭を終えてから、隣のクラスにも関わらず会う機会がなかったので久しぶりだ。軽く手を挙げて挨拶すると、こっちと手招きされた。首を傾げながら近づく。
「久しぶり。どうした?」
「こんなに寒いのに、ベンチに座ってぼうっとしてるから大丈夫かよって。雨も降ってくるみたいだし」
見上げると、空一面の灰色の雲はところどころが黒く変わり、どんよりと重くなっていた。湿気を帯びた空気を吸い込むと、かすかに胸の辺りが苦しくなる。意識に刷り込まれているのか、体が反応しているのか、気圧の変化は未だに苦手だ。
軽く咳払いをしてやり過ごそうとしていると、唐突に「今、時間あるか?」と誘われた。
「なくはない、けど……」
「じゃあ、ちょっとつきあって」
そのままくるりと背を向けて歩き出す。呼び止めて断るのも面倒で、後を追った。
藤澤に続き、映研部の部室に入る。もともと暗めの室内は、天気のせいで一層、薄暗くひんやりとしていた。以前に来たときよりも、壁に貼られたポスターが増えている気がする。
暗闇のなか浮かびあがる人の顔。笑っていたり、泣いていたり、怒っていたり……切り取られた一瞬の表情、それぞれの物語。
藤澤が隣に並んだ。
「いいよな、映画のフライヤー」
「フライヤー? ポスターじゃなくて?」
「ちがうちがう。これは映画の宣伝用に配られるチラシ」
映画館の記憶は、小学生のころで止まっている。長時間、作り物の世界に浸からなくてはならないことに絶望した思い出しか残っていない。あのころの俺は、現実に存在する人間同士が交わすリアルな会話に飢えていた。
「俺、映画観ないからなぁ……」
「あんまり興味ない?」
映研部の藤澤の前で、興味がないと発言することに気が引けて「うーん」と言いよどむ。答える代わりに「藤澤はいつから映画好きなの?」と話を振った。
「撲が映画に興味を持ったのは中学生のころ。神童扱いされてA校に受かったのに、この学校そんなやつらの集まりじゃん? 勉強ができるのはデフォルトだから、他のことで撲しかできないものを探しても、なかなか見つからなくて」
たしかに、ずば抜けて絵の上手いやつや、将棋の強いやつ、ピアノのコンクールで優勝するやつは目立つ。物理やプログラミングなど、特定の分野に詳しいやつも尊敬されるし、篤人みたいに人を惹きつける魅力のあるやつも眩しく見える。
「一時期ほんとに逃げたくて、自分以外の人生を生きたくて、逃げるようにひたすら映画を観たんだ。創作の世界は自由だから、撲はどんなところにだって行ける。時代も国も、現実世界さえも越えられる。それに、観る前と観た後で、確実に自分の中の何かが変わるんだ。すげぇやって夢中になった。撲も誰かのことを変えられるかもって、自分でも撮るようになった」
藤澤の横顔が輝いて見える。俺はこんな風に夢中になれるものを持っていない。医者になるという将来の夢はあるし、それに向かって頑張っているけれど……。
「だけど、コンクールには落ちまくり。才能なんてないんだ。世にウケるものをつくれない、やってても仕方がないって悩んでた。ただね、最近わかってきたことがあって」
「うん」
「賞をもらうことは目標だけど目的じゃない。映画を撮るのが好きって気持ちが大事なんだ。これいいな、これ伝えたいってものを、好きなように撮れたらいい!って思った」
「そう……」
「恋愛と同じだよ」
わずかに潤んだ瞳が訴えかけてくる。フライヤーに囲まれ静止した世界のなかで、藤澤の瞳だけが生き生きとした光を纏って浮かんでいた。
